第70話
そんな時だった。
「おや、イーサン先生じゃないかい」
僧医は背後からしゃがれてはいるが張りのある声に呼び止められる。
二人が振り向くと、大きな籠を背負った老婆が立っていた。
「ああ、イリナ婆さんか……」
イーサンは老婆の名を呼んだ。
すると老婆も元気な声で返してくる。
「婆さんじゃない! 何回、言ったら判るんだい! わたしゃまだピチピチの二十九だよ!」
「いいや、三ヵ月前に八十四歳になったよ。まだ若いんだから歳の勘定はしっかりとな」
「はい、はい、そうかね。全く……相変わらず可愛げの無い坊主だね。よっこいしょ」
会って早々、老婆は背負っていた籠を道端に下ろすと、その横に小さな体を屈めた。
老婆の傍にイーサンも腰を屈めるとマグナもそれに倣った。
「どうだい? 達者かい?」
「あ~、ピンピンしてるよ。オイッチ、ニー!」
僧医に聞かれたイリナは両腕を上げて体操の仕草をする。
「この様子じゃ、悪い所も無さそうだな」
「当たり前さね。まだまだ医者要らずで先生を儲けさせる気はないね!」
「結構だ。しかし気になった事があったら、悪くなる前に相談してくれ。医者なんかその為にいる様なもんだからな」
「ああ、覚えておくよ……」
目の前で気張る老婆を見ながらイーサンはふと籠の中を覗く。
籠の中には春キャベツに新じゃがにセロリにさやえんどうが丁寧に収められていた。
それを見ながらイーサンがつぶやく。
「もう夏野菜の季節か……」
「まだちょっと早いのもあるけどね」
そう言いながらイリナは籠の底へ腕を入れると手に収まるはどの果実を取り出した。
「ほう杏子の実か……」
「畑に植えてある木に実が成っててさ。今が食べ時だよ」
杏子はどれも深みのあるオレンジ色をしていた。
それを老婆は両掌いっぱいに乗せて差し出した。
「どうだい、先生? それと後ろのハンサムな兄さんも……」
「こんなにいっぱいかい?」
「今年は豊作でね、まだ畑の木に山ほど成ってるよ」
そう言って老婆は呵々と笑った。
「ほう……では、頂くとするよ」
イーサンは杏子を受け取ると半分をマグナに渡した。
「ありがとう……」
「どういたしまして。いい子だねぇ」
マグナが丁寧に頭を下げるとイリナは皺だらけの顔を綻ばせる。
「ところで先生、その兄さんは誰だい? エラく男前だけど……」
「ひと月前から教会で雇っている新しい掃夫だ」
イーサンは他の村人達と同じ様に答えた。
「へえ、随分若いのに篤信だねぇ。私しゃ、てっきり先生の弟子かと思ったよ」
「色々と理由あってしゃべり下手だ。そこらへんは勘弁してやってくれ」
「初めまして……。マグナです」
「あいよ、マグナちゃん。若い子を見てるとこっちも若返りそうだよ」
美男子を前にイリナもご機嫌だ。
「まだ畑に出ているんだな」
イーサンが何気なく聞いた。
「私も体が動くうちは……って思ってるさね」
「くれぐれも無理はしないでくれよ」
「そう何回も言わなくても判ってるよ。先生は心配性だね」
「畑仕事か……。息子夫婦は?」
「ああ、駄目、駄目。二人とも気が無いから」
「気が無い?」
「土いじりが嫌いなんだよ。それに冒険者の街で働いた方が金になるってんで、畑に寄り付きもしない。オマケに塀の外の畑は眷属がうろついて危ないってさ。まあ、私も一人の方が気楽で良いんだけどね」
「しかし塀の外が危ないというのは確かだ。まだ前に村を襲った眷属がうろついているかもしれないからな」
「ふん、そんな奴が来たら私の鍬で一撃、食らわしてやるよ!」
そう言って老婆は傍に置いていた鍬の柄を掴むと軽々と頭上に掲げた。
「……身の回りで変わりはなかったか?」
「いいや、別に。変わった事なんて何も……いいや待てよ」
老婆の会話が止まった。
そして頭を巡らせ記憶を掘り下げる。
「そういや、三年前に出ていったビリンとこのバカ息子が今頃になって帰って来た」
「息子が帰って来たのは去年の秋だよ、婆さん」
「へぇ、そうかい? けど親不孝者だよ。フラフラ出ていって、その間に親の死に目に会いそびれて……」
「まあ、そう言うな。大事なのは昔の事より今、どう生きるかだよ。近頃は本人も真面目に働いて居るんだから」
「真面目ぇ? どうだかねぇ~。わたしゃ、またどこかにフラっと居なくなると思うんだけど……。そんな事より思い出した。大変なんだよ、先生。畑から新ジャガが盗られたんだ。芋泥棒に遭ったんだよ!」
「芋泥棒? そっちの方が一大事だ。何時の事だ?」
「さっきさぁ。畑を調べてたら、一畝の半分ほどが盗られたんだ。けど、それが変な感じなんだね」
「変な感じ?」
イーサンが真剣な表情で聞く。
「これから収穫って時期のジャガイモが何本か立ち枯れしてたのよ。仕方なしに鍬で掘り起こそうとしたら掘っても掘ってもイモが出てこないさね、先生」
「芋だけ盗って上は埋め直して偽装したという訳か。手間の掛かった芋泥棒だな……」
「せっかく育てたイモが盗まれたんだ! しかも採ったのがバレん様に上だけ埋め直すなんて厭らしいったら!」
ジャガイモが盗まれた事を思い出して老婆の中で怒りが込み上げる。
せっかく苦労して育てた作物を誰かに掠め取られたのだ。
腹が立たない訳が無い。
「それは災難だったな」
イーサンが老婆を慰める。
しかしイリナの怒りは収まらない。
「先生、私ゃ街の連中が怪しいと思うよ」
「街の連中? 冒険者達の事か?」
「最近、人が増えてガラが悪くなってるって言うじゃないか。街で働いている連中は皆、言ってるよ」
「確かにここ最近、各地から村に人が集まっている。森の中で眷属の動きが活発になっている事と連動してな……」
「そんな連中が腹が減って、勝手に持っていくのさ。冒険者なんて言っても元はヤクザ者が流れて来た様な連中さ。常識なんかあったもんじゃない。全く、ギルドの奴等は何してんのさ。指導がなっとらんよ!」
イリナの言い回しは辛辣だった。
何も冒険者の全てがならず者という訳ではない。
だが実際、冒険者街の人口が増えてから村全体の治安が悪くなったのは事実だった。
彼女の言葉には長年、村の動向を眺めて来た者としての重みがある。
「あ~やだやだ。ここも昔みたいにまた静かになりゃあ良いのに……」
そう言ってイリナは大きく溜息を吐いた。
だが老婆の願いが叶うには眷属の数が今よりももっと減らなければならない。
そうなると冒険者の数が今より増える事になるのだが……。
やがて二人はイリナとの長話を終えると、彼女と別れ、そのままワリカット教会に向かった。
イーサンが歩きながら婆さんから貰った杏子に皮のまま噛り付く。
それをマグナも真似た。
杏子は甘酸っぱく爽やかな味だった。
それはマグナが初めて体験する、採れたての初夏の味だった。




