第49話
やがてリデルは先ほどまで武器が打ち合う音が聞こえた場所にまで辿り着いた。
木の陰に身を隠すと周囲を用心深く観察する。
山道はまだ続いていた。進行方向の左側は上へと向かって斜面が伸びており、逆に右側は切り立った低い崖になっていた。
この急こう配と崖のせいで逃げ道は限られる。
しかしこれ位の斜面なら木樽を捨てれば登れなくもない。
問題はこの乱立する森の木々だ。
逃走の際、樹木が恐ろしい障害になる。
追って来る背後の敵にばかり気を取られていると、周囲への注意が散漫になる。
そして気付かないうちに幹や枝と衝突し、卒倒し、挙句、追い付いて来た敵に討ち取られる。
そんな冒険者をリデルは何人も知っていた。
リデルは木樽をその場にそっと置くと周囲の安全を確かめる為の偵察行動に入った。
先ほど武器が打ち合う音が聞こえたのはこの辺りだ。
もしもの時はこの木樽を置いてでも逃げねばならない。
勿体ないが命あっての物種だ。
だがそれを防ぐにはどうしても向こうよりも先に相手を見つけて安全を確保せねばならない。
リデルは少しづく前進しながら周囲を見渡した。
そこには戦っているはずの冒険者パーティの姿も眷属の影も無かった。
ただ周囲の草木が荒らされ、入り乱れた足跡が大量に残っていた。
僅かながら血痕もある。
リデルは注意深く足跡を辿った。足跡は最後は北へと分岐した山道へと進み、見えなくなっていた。
どうやらパーティも眷属も戦いながらここから北へと移動した様だ。
リデルは危険が及ばない事に胸を撫で下ろした。
「だったら、すぐにここから離れよう……」
リデルは踵を返すと木樽を置いた所まで戻ろうとした。
だがその時だった。
右側の切り立った崖下から物音が聞こえた。
足元を滑らせた拍子に石ころでも蹴とばした様な音だ。
リデルが腰に下げていた護身用の短剣を抜いた。
緊張が最高点に達する。恐怖心で頭がおかしくなりそうだ。
それを堪えて恐る恐る崖の上から物音がした谷間を覗き込む。
谷間は低く二メートルも無い。
だがその谷底に一人分の人影を見つけた。
「動くな! 動くと叩き切るぞ!」
リデルは人影の頭上から短剣を突き出しながら大仰に叫んだ。
虚勢を張った、目一杯の強がりだ。
その直後、崖下の人影が驚いてその場を飛び退く。
「待ってくれ! オラぁ!、オラ、怪しいモンじゃ無ぇ!」
人影がリデルとよく似た擦れた声で叫んだ。
リデルにはそれが同種と同じ特徴である事を瞬時に理解した。
思った通り、人影の正体は頭に二本の角を生やしたリデルと同種のガギーマだった。
だがリデルの頭の中は既に「眷属」という言葉でいっぱいになっている。
相手が同種であっても味方とは限らない。
「怪しいモンじゃ無かったら、ナニモンだよ?」
リデルが谷底のガギーマに尋問した。
すると谷底のガギーマも声を張って答える。
「に、逃げて来たんだ! 眷属の奴等に捕まって逃げて来た! この前、コモラ迷宮がぶっ壊れたろ? あの時のドサクサに脱出したんだ! それに怪我してるんだ! 助けてくれ!」
そう言って谷底のガギーマは両手を振った。
そんな相手をリデルは注意深く観察する。
額には二本の角の間に何処かで打ち付けたのか小さな瘤が出来ていた。
振っている右腕には汚い包帯が拳にまで巻かれていた。
それに体のあちらこちらが傷だらけ、何か集団に踏みつけられた様な青あざが幾つも付いている。
明らかに負傷者だった。
もし奴の言葉が正しければ冒険者として助けてやるのが仁義だ。
だがその一方で不審な点がある。
まずその身なりだ。
ガギーマは下帯と薄いベストを纏っただけのほとんど裸の状態で突っ立っていた。
怪しい……。とても人間社会で暮らしている様な文化的な服装ではない。
それに先日、村を襲ったガギーマ達も大概、半裸だった。
右腕の怪我も頭の瘤も大方、村の冒険者にでも斬られたのではないか。
結局、リデルは目の前のガギーマから警戒心が解けずにいる。
「お前、本当は先日の眷属の生き残りじゃないのか?」
「違う、違う! オラも冒険者だったんだ! 信じてくれぇ!」
疑の眼差しを向けるリデルの前でガギーマは必死に弁明した。
だがリデルの疑念が消える事はない。
一方、眷属に捕まっていた可能性も捨て切れない。
奴隷として働かせられていたのなら、装備を剥ぎ取られ、今の惨めな格好にされた可能性もある。
そして頭の中で不意に森に入る前でのサフラン司祭とのやり取りが過った。
確かにこいつは眷属かもしれない。嘘を吐いているのかもしれない。
だが心の片隅に篤信があり、迷宮から抜けて来た末の、止むえない嘘ならば改心する可能性もあるのではないか?
こいつを一方的に悪と決めつけて殺すのは簡単だ。
だがこの男の話が真実ならば、それはそれで後味が悪い。
なら少しだけ。少しだけ信じてやることにしよう……。




