第48話
ガギーマが山道を歩く能力は人間よりも優れていた。
体力は低いが何より軽い体重が素晴らしい機動力を産む。
その為、ガギーマこそ森の中では最強の戦士だと言う者も居た。
だが軽いだけではない。不屈の精神で鍛え上げられた足腰をリデルは持ち合わせている。
リデルは木樽を担いだまま機敏な動きで森の中を黙々と進む。
行きの木樽の中には予備の商売道具と身の回りの荷物が詰まっているだけだ。
やがてリデルは目当ての渓流に到着すると、岸に木樽を下ろした。
「よっこいしょ……」
そして一休みの後、今度は木樽の蓋を開け、中から全ての荷物を取り出した。
木樽が空になると今度は樽を川上に向けて大きく傾け、中に注ぎ込んだ。
その際、リデルの両足も川の中に沈む。
まだ初夏の山の水は冷たい。
だがこの冷たさも目の前のお宝を掴むための試練と思えば我慢できる。
暫くして川の水を飲み込んだ樽の中が一定の水位になると再び木樽を垂直に戻し、今度は荷物の中にあったバケツで川の水を汲み、不足分を木樽の中に注ぎ込んだ。
木樽の中が徐々に清水で満たされていく。
水が木樽の半分を超えた頃、そこで水汲みを止め、今度は荷物の中にあった黒い塊を持って、再び川の中に両足を入れた。
リデルは足元が流されない様に踏ん張りながら黒い塊を手にしたまま腰を捻って構えた。
黒い塊の正体は冒険者としての彼の武器であり漁具である投網だ。
リデルが投網を投げた。
投網は空中で花咲く様に丸く広がると、渓流の水面の中に一瞬、白波を立てながら落ちていった。
頃合いにリデルが力を込めて網を引く。
網が手元にまで戻るとゆっくりと水面から上げた。
中には大きなハミラが六匹も入っていた。
ハミラとは渓流に生息する淡水魚で青みがかった体色をし、その生態も大きさもイワナに近い。
味も良く、身は油が乗り村の料理屋でも人気の魚だった。
それにハミラには渓流で泳いでいる間に山から滲み出る土の霊力を吸収するという言い伝えがあり、冒険者の間で縁起の良い魚とされていた。
「ふししし……」
リデルは得意げにほくそ笑んだ。
幸先が良い。これが高値で取引されると思うと、リデルには網の中のハミラが金の延べ棒に見えてくる。
「いいぞ、いいぞ。この調子なら、ここだけで木樽がいっぱいになるかもな……」
リデルは獲物をバケツに移すと、再び網を投げた。
リデルの投網技術は独学だった。
道具はフラム村の隣町のミシルという町の釣り具屋で一式買った。
後は店主に一通りの使い方を教わると森の中の渓流で何日も練習して投げ方を修得した。
網を引くとまたもや数匹の獲物が網に掛かっていた。
獲物でいっぱいになったバケツを持って川から上がると中のハミラを木樽に移した。木樽に溜めた澄んだ水の中でハミラはぐるぐると泳ぎ続ける。
「よしよし……」
そのリデルはその元気な泳ぎを嬉しそうに見守った後、再び漁場に戻った。
やがて投網漁を数回と繰り返していくうちに木樽の中は青い魚影で埋まろうとしていた。
釣果は三十匹以上。これはなかなかの釣果だ。
「さてと、このまま上流に上るぞ……」
リデルは胸を弾ませながら蓋をした木樽を背負い次の漁場に行こうとした。
重い……。
しかし自分にとってはお宝の詰まった大事な木樽だ。大事に運ばねばならぬ。落とすなどもっての他だ!
そんな時、司祭様の言葉が不意に頭に浮かんだ。
「森の中にはまだ眷属が潜んでいるかもしれません。今はパーティ連れで森に入られるのをお勧めします」
思い出した瞬間、リデルは急に寒気を覚えた。
水の冷たさの震えではない、眷属の悪意による恐怖からだ。
眷属が村を襲ったのはごく最近だ、この周辺にも眷属が潜んでいる可能性がある。
司祭様の前では弁えていると格好付けてみたが現実を突き付けられると流石に怖い。
ここで逃走中の眷属にでも出くわせば重い木樽を持って逃げる事は出来ない。
いや、置いて逃げたところで自分は冒険者として最小限の装備しか無い。
あるのは護身用に下げている腰の短剣だけ。
もし相手がそれなりの武器で襲って来れば忽ちの内になぶり殺される。
するとガサガサと森の中で枝が揺れる音がした。
「ひぇっ!」
リデルが思わず悲鳴を上げた。
だがそれが野鳥が揺らした葉音だとすぐに判明した。
「何だよ。脅かしやがって……」
リデルは安堵の溜息を吐く。
だが次が安全だとは限らない。
なぜなら森の中の危険は何も眷属だけではないからだ。
ここは言わば人外魔境の無法地帯、我が物で徘徊する魔獣、野獣の類なら尚の事、人類側であっても油断出来ない。
同じ冒険者でもこちらが金目の物を持って居ると判れば、それを横取りしようと襲い掛かる盗賊まがいの不届き者も珍しくないのだ。
そんな時、遠くで重たい金属がぶつかり合う大きな音が聞こえてきた。
聞き覚えのある刃と刃が打ち合う音。
どこかのパーティが眷属と戦っている音だった。
恐らく先日の掃討戦の最中なのだ。
「クワバラ、クワバラ。触らぬ神に祟り無しだ……」
リデルは漁を中止し、引き返す事にした。
上流にはまだ魚を獲り終えていないポイントがたくさんあった。
しかし何事も命あっての物種だ。それに今日、獲った分だけでもそれなりの稼ぎになる。
このまま離れるのが吉、危険を察知できたのなら近付かないのが冒険者の鉄則である。
しかしここで一つ、問題が発生した。
先ほどの戦いの音が聞こえて来たのが帰り道と同じ方向なのだ。
もしこのまま進めば、先ほどの戦闘と遭遇するかもしれない。
そうなれば一大事だ。
木樽を背負ったまま戦闘に巻き込まれれば助かる見込みはない。
それだけは避けたい。なら帰り道は別の道を通る必要がある。
だが別の帰り道は迂回路となり、それだけ時間を使う。
余計な時間の経過は木樽の中の魚たちを弱らせ、商品価値を落とさせる。
「困ったな……」
リデルの中で迷いが生じる。
「怖いけど来た道を戻ろう……」
リデルは賭けに出た。
このまま進めば確かに森の中の戦闘にかち合う可能性がある。そうなれば今日の稼ぎなんて一瞬でパーだ。
だが案外、自分が到着した頃には戦闘は終了し、眷属は退治され、パーティ達も居なくなっているかもしれない。
物欲に負けたリデルは根拠のない楽観論を無理やり自分に押し付けた。
「なぁに。オラだって冒険者だ。ちゃんと警戒してれば何て事ないさ」
リデルは意を決して渓流から森へと入り、注意深く帰り道を進んだ。
周囲に木々は生い茂り、まだ昼にもなってないはずなのに枝葉が重なり薄暗い。
その中に樹木の幹が水平でない地面から上に向かって伸びている。
一本たりとも真っ直ぐに伸びた幹は無い。
また地形は山がちで道は文字通り下りの山道と化していた。
山道は下りを進む方が難しい。ただでさえ、歩く速度に余分な加速がついて足元が不安定になり踏み込んだ瞬間、強い衝撃も加わる。その為、足元を取られない様に気を遣わねばならない。
更に背中の木樽は行きとは違い水と魚が詰まっており、恐ろしく重い。
一歩間違えれば足がもつれて転倒し木樽の下敷きになりかねない。
それにこの先では冒険者達が眷属と戦っているはずだ。
危険度が普段とは比べ物にならない位に高い。
リデルは充分に注意を払いながら歩き続けた。
幸い、まだ人らしき気配は感じない。




