第31話
「マグナ、こっちに来て」
エリッサは今度はマグナを手招きした。
マグナが引き寄せられる様にエリッサの傍に近付くと、彼女は自分の体をマグナと密着させた。
マグナにすり寄りながらエリッサが手を翳した花を手前に寄せていく。
花はピンク色の大輪を開花させたシャクヤクの一種だった。
「見て、花よ」
「はな……」
マグナが真面目な顔で答える。
「そう花よ。触ってみせて、ゆっくり、やさしくね」
エリッサが手に取ってマグナに促した。
マグナは震える指先でシャクヤクの花びらの表面を触る。
「どう? 柔かいでしょ?」
「やわらかい?」
「そう、指の先で触れても痛くないでしょ。それは花が柔かいからよ」
「うん……やわらかい」
次にエリッサは花びらを触ったマグナの指先を手に取った。
そしてそのままエリッサの頬に触れさせられた。
「これも柔らかいでしょ?」
「うん、やわらかい」
「同じ柔かいよね」
「おなじ……。はなとエリッサ、やわらかい」
「判る?」
「うん、はなとエリッサ、やわらかい」
「でも私は花じゃないわ。でも同じ柔かいよね」
「うん……。エリッサとはなはちがう。でもやわらかい……。やわらかい!」
「凄いわ、マグナ! あなたはもう柔かいの違いが判るのね!」
マグナの理解力をエリッサは大袈裟に賞賛した。
それを見てマグナは一瞬、驚いた様な表情を浮かべた。
だが彼女が自分を誉めてくた事に高揚し驚きは笑顔に変わる。
それをエリッサは見逃さない。
「マグナ、今、私に褒められて嬉しいでしょう?」
「うれしい?」
「今、胸のここが膨らむ様に気持ちよくない?」
そう言ってエリッサはマグナの胸板を優しく撫でた。
胸板は思った以上に鋼の様に硬く広かった。
その痩身の下の意外な逞しさにエリッサは一瞬、ドキリとする。
一方、マグナは自身から湧き上がる高揚感と嬉しいという言葉を一つに結びつける。
嬉しい。褒められて嬉しい。エリッサに褒められて嬉しい。スフィーリアに褒められて嬉しい。
そうか。褒められるのは嬉しい事なのだ。
「じゃあ、今度はね。よく見ててね」
次にエリッサはシャクヤクの花の前に顔を近付け、鼻で息を吸った。
吸った直後、エリッサのは小気味よく微笑む。
「さあ、マグナもどうぞ」
マグナは言われるままエリッサが手にしたシャクヤクの花の中央に顔を寄せた。
そしてエリッサを真似て鼻で大きく息を吸った。
シャクヤクから立ち込める甘く優しい香りが鼻孔の奥を刺激する。
匂いを嗅いだ瞬間、マグナの表情が変わった。
最初は驚き、やがて歓喜に満ちた笑顔に変わる。
「どう? いい匂いでしょ?」
「いいにおい……。いいにおい!」
マグナは二度繰り返す。
それは匂いへの心地よさと共に香りという新しい概念の発見に対する純粋な喜びだった。
「そうよ、それが花の匂い。香りよ。おもしろいでしょ?」
「うん、おもしろい!」
マグナが満面の笑みを見せると、それに釣られてエリッサも微笑む。
「じゃあ、こんどはこっちの花ね」
次にエリッサはシャクヤクの隣に咲くラベンダーの亜種を採った。
マグナは同じ様にラベンダーの花の香を嗅ぐ。
しかしラベンダーの亜種には強い匂いがあり、鼻で空気を吸い込んだ瞬間、マグナは刺激に負け、突然、くしゃみをした。
くしょんー! くしゃくしゃとした小さな破裂音が中庭の中で響く。
それを聞いて瞬間、エリッサが笑い転げた。
「あはははっ! ごめんなさい、ラベンダーの香りは少しきつかったかしら」
だがエリッサの笑い顔はまるで日の光の様に明るい。
その明るさを前にマグナはまた釣られて笑う。
二人は笑い合った。
それはまるでおとぎ話の中の恋人同士の様だ。
しかしそれを眺めさせられるスフィーリアは面白くない。
「なんですの……。二人だけで楽しんで」
そう口には出さないが自分は除け者にされた様な気がしてならない。
しかもそれがエリッサ相手ならば尚更だ。
「ちょっと、エリッサ! あなた先ほどから遊んでばかりですわよ!」
スフィーリアが思わず口に出す。
「なによ、スフィーリア。焼きもち?」
見透かした様な視線でエリッサは返す。
「別にそんなんじゃありませんわ! 私はもっと真面目にやってと言いたいだけです!」
「私はいつだって真剣よ。ちょっとあなたとやり方が違うだけで」
「そのやり方は感覚的すぎます。それでは何時まで経っても読み書きにまで辿り着けませんわ!」
「感覚的で結構じゃない。まずは習うより慣れろって事。むしろスフィーリアのやり方こそ、屁理屈ばっかり。そんなんじゃ、スタートで蹴躓くのがオチよ!」
「いいえ、私の方が正解です!」
そう言うと、スフィーリアはマグナの腕を取って自分の方に引き寄せた。
「さあ、マグナ。私と一緒にあちらの方でお勉強しましょう。この世界には他にももっと素晴らしい物がありますわよ」
だがそれを聞いてエリッサが反対側のマグナの腕にしがみ着く。
「ちょっと待ちなさいよ! こっちだって授業の最中よ!」
そして負けじとマグナの腕を引っ張った。
「こんな頭でっかちのやり方より、私の楽しい方が良いわよね。ね!」
「ちょっと、お放しなさい! マグナが困っていますわ!」
「アンタこそ放しなさいよ! 慣れない事なんかするもんじゃないわよ」
「慣れない事ですって?」
「マグナの手を握った途端、指先が振るえてたじゃない。どうせ男の手なんか握った事もないんでしょ?」
「おあいにく様。私、こう見えてお医者の端くれで御座いますから、男性の患者様の脈を測る時にお手を取る事は日常茶飯事ですわ。それよりもあなたの方こそ、マグナにしがみ着いた途端、体を硬くして見られた物ではありませんわ!」
「なんですって!」
「文句ありますの! 本当の事ではありませんか!」
「うるさいわね! オボコの癖に!」
「オボコにオボコと言われる筋交いはありませんわ!」
あに図らんや、二人の言い争いは遂に口喧嘩に発展してしまった。
口論はマグナをそっちのけで続き、中庭が不可解な喧騒に包まれる。
だがマグナには何が起きたのかも判らず、ただ茫然と二人の言い争いを眺める他なかった。




