第11話
その頃、病院の方でも変化が訪れていた。
眠っていた少年が目を覚ましたのだ。
最初にそれに気付いたのはスフィーリアだった。
しかし病室のベッドの上ではない。
少年が廊下をおぼつかない足取りでひとり、歩いている所を彼女に発見されたのだ。
「もし、あなた?」
スフィーリアが落ち着いた声で呼び掛けた。
院内での病人の徘徊自体は珍しい事ではない。
だが少年は尼僧の呼び掛けを耳にした途端、ふらつきながら転んだ。
「危ない!」
転んだ少年の元にスフィーリアが慌てて駆け寄った。
「大丈夫ですの? どこか痛む所は?」
スフィーリアは少年を抱き起す。
だが少年は何も言わず顔を上げるとジッとスフィーリアの顔を見詰めた。
スフィーリアの目線が少年の瞳と重なる。
「!!」
スフィーリアは思わず息を飲む。
彼女の目に映ったのは宝石の様に澄んだ少年の碧色の瞳だった。
瞳の美しさに尼僧は思わず見惚れた。
その間にも少年は再び立ち上がった。
そしてまた体をふらつかせる。
我に帰ったスフィーリアが慌てて少年の腕を強く掴んだ。
「駄目、急に動いては。病室に戻りましょう……」
スフィーリアが少年の腕を引きながらゆっくりと抱き起こした。
その動きに少年が合わせると二人は歩調を合わせながら廊下を歩き始める。
スフィーリアは少年を視診した。
足元はおぼつかないものの、関節は正常に動いている。
骨の位置も正常だ。
「別に折れてはいないようですわね」
その事実にスフィーリアは僅かばかり安堵する。
やがて病室に戻ると、少年は再びベッドに寝かされた。
「ここでお待ちになって。司祭様をお呼びしますわ」
スフィーリアは傍にあった伝声管に向かって叫んだ。
「先生、101号室の彼がお目覚めになられましたわ!」
「判りました、すぐに行きます」
伝達が終わるとスフィーリアは再び少年と向き合った。
「お待ちくださいまし。もうすぐ司祭様が来られますから」
スフィーリアは少年に向かって優しく丁寧に答えた。
そして端麗な面差しに微笑みを湛えた。
その笑顔を目の当たりにした瞬間、少年は一瞬、驚いた様に碧色の目を一杯に開いた。
しかしその後は何事も無かった様に、離れていくスフィーリアの体を只、ぼんやりと目で追い続けるだけだった。
暫くしてサフラン司祭が病室にやって来た。
「良かった。目が覚めたようですね」
司祭は安堵した表情を受かべると、今度は少年の前に置いてあった小さな丸椅子に座った。
「初めまして。私の名前はカーマス・サフラン。ここフラム村のワリカット教会で司祭を勤めています」
司祭は少年に挨拶をした。
だが少年は司祭の挨拶にも特に興味を示す事も無く、ぼんやりとしたまま返答もしなかった。
「失礼、少し診させて頂きますよ」
早速、司祭による診察が始まった。
司祭は軽く目蓋に指を当てながら少年の瞳孔を確かめる。
スフィーリアが灯した燭台の炎が少年の碧色の瞳の中に映る。
少年は無言のまま拒絶する事もなくされるがままだ。
「異常なしと……、今度は口を開けて」
今度は少年の喉の奥を確かめようとする。
しかし言葉が通じないのか口は閉じたままだ。
仕方なく司祭は自分の指で少年の口を開こうとした。
その時も少年は拒むことなく為すがままに任せた。
司祭による少年への触診はその後も続いた。
少年は司祭に指示をされても、その通りに動く事はなかった。
一方で体の何処を調べられても抵抗して嫌がるそぶりもみせない。
そして一言もしゃべらない。
そんな少年の態度に司祭も傍に立っていたスフィーリアも言葉には出さないが、まるで人形相手に診察をしている様な感覚に捕らわれていた。
「ふむ。幸い、どこにも異常は見当たりませんね。エリッサの魔法が上手く効いた証拠ですね」
司祭は何事も無かった様に笑って答えた。
「さて、少しお話しましょうか。スフィーリア、あなたも一緒にお願いしますね」
「判りました、司祭様」
スフィーリアは深く頷いた。
しかし少年からの反応はない。
だがその一方で少年はスフィーリアが声を出すと、今度は彼女の顔ばかりをずっと見詰めた。
「そんなに見詰めないでくださいまし。恥ずかしですわ」
少年の視線に尼僧が冗談っぽく、はにかんでみせる。
しかし少年の視線が離れる事はない。
「どうやら美人の声には反応が良い様ですね」
司祭が自分の冗談に笑った。
「……」
だが少年は司祭の存在に対しては一向に反応はない。
すると司祭は一計を案じ、スフィーリアに言った。
「スフィーリア、あなたも彼に自己紹介して下さい。もしかしたら女性からの呼び掛けの方が良い反応が返って来るかもしれません」
「承知しました」
尼僧は司祭の思惑を汲み取ると少年と向き合う。
「ご挨拶が遅れましたわ。私はスフィーリア・ルシエッタ。ここの尼僧でございます。スフィーリアと呼んで下さい」
スフィーリアの澄んだ声が病室の中で響き渡る。
すると少年の目線が司祭からスフィーリアに移った。
少年は尼僧の口元をずっと見詰める。
「ふむ、これは良い兆候ですね。何もないよりはずっと良い」
司祭は立ち上がると後ろに下がった。
「スフィーリア、私の代わりに腰掛けなさい。あなたが彼の話し相手になるのです」
「私がですか?」
司祭の指示にスフィーリアが少し驚いてみせる。
「勿論です。彼はあなたに反応しているのですよ。カルテは私が書きましょう。さあ、座って」
尼僧は司祭の代わりの丸椅子に座ると少年と対面した。
こちらを見詰める少年の顔がすぐ目の前にある。
その碧色の瞳を見詰め続けると魂まで吸い込まれそうだ。
「あ、あの……。あなたのお名前は?」
尼僧は少し緊張しながら訊ねる。
こんな気分になったのは僧医として初めて患者と接した時、以来だ。
「……」
しかし少年は彼女を見詰めるばかりで答えが返って来る事はない。
スフィーリアはもう少し、丁寧に訊ねてみた。
「え、ええと……私の名前はスフィーリア・ルシエッタ。今度はあなたのお名前を聞かせて下さる?」
「……」
やはり返事は返って来ない。
スフィーリアは仕方なく話題を変えてみた。
「大事無くて何よりですわ。あなたは私達がコモラ迷宮の最下層で救出致しましたの。発見した時は重症との事でしたが今はどこにも傷一つ残ってませんね。これも神様の思し召しですわ」
「……」
「ところであなたは何処から来られたの? どうしてあそこにいらしたの? 良かったら教えて下さる?」
スフィーリアは改めて質問を振ってみた。
「……」
しかし少年はスフィーリアの顔を見詰めるばかりで言葉に対する反応は無い。
「困りましたわ。司祭様、如何しましょう……」
困り果てたスフィーリアが思わず後ろに居る司祭に助言を求める。
これでは人形相手に延々と無駄話をしている様なものだ。
「かまいません。スフィーリア、話し続けるのです」
司祭は尼僧に会話を続行させた。
スフィーリアは仕方なく再び少年と向き合う。
「何でもよろしいですわ。思った事を仰って下さいまし。先ほどから私ばかりしゃべっていて申し訳ありませんわ」
「……おもった」
そんな時、少年がぼそりとつぶやいた。
初めて耳にする少年の声に二人は一瞬、息を呑む。
「司祭様!」
スフィーリアが司祭と顔を合わせた。
「私にも聞こえました。スフィーリア、続けて」
「何を仰ったの?」
「なに……おっしゃ……しさい……さま」
「それで?」
「そ……れで……」
それはスフィーリアが口にした言葉の繰り返しだった。
「ふむ、彼は貴女の言葉を鸚鵡返しにしゃべっているだけの様ですね」
「鸚鵡返し?」
「やはり、思考の中に言葉を持たない様です。恐らく記憶と思考の障害でしょう……」
「そんな……」
司祭の説明にスフィーリアは愕然とする。
それでは彼が何者なのか、その手掛かりすら掴めない。
「そ……んな」
少年は再び鸚鵡返しで答えた。
しかし発せられた言葉に何の意味も持たない。
「今日はここまでに致しましょう。彼もまだ疲れが残っている事でしょうし、焦りは禁物です」
そう言って司祭は尼僧の肩を軽く叩いた。
「記憶障害の原因は何でしょう? 戦闘による影響でしょうか?」
「まだ何とも言えませんね。それに彼の治療は始まったばかり。決めつけと早合点は良くありません。それにスフィーリア、何事も治療は根気が大事。辛抱強くよく続けていきましょう。さすれば主は答えて下さいます」
「はい、司祭様」
司祭に励まされスフィーリアは頷く。
司祭が先に部屋を出ると、スフィーリアは少年をそのまま寝かせた。
「今日はこのまま休みましょう。後で食事を運んできますわね」
「やす……み。しょく……じ」
診察を後も少年は鸚鵡返しを続けた。
そんな彼の前でスフィーリアは笑顔を絶やさない。
しかし胸の中では刺さる様な悲しみに悶えていた
余りにも不憫だ。体が無事でも彼の心は既に失われていた。
今の彼は自分が何者かさえ判らない。
いや、そう心に思うことすら出来ないのではないか。
「何とかしてあげなければ……」
少年を苦しみから救いたい。
我が主ブルザイの使徒としてスフィーリアの中で強い使命感が沸き起こる。
「安心してください。あなたの心は必ず私が治してみせますわ。天地神命に誓って……」
スフィーリアは少年の耳元で囁いだ。
それは自らに課した誓いの言葉でもあった。
「救い…………てんち……しんめい……」
しかしスフィーリアの近いの言葉の前でも少年の心は失われたままだ。
そしてまた彼女の言葉を鸚鵡返しに繰り返すだけだった。
第一章完結です




