9話
今回は話として区切りがつかなかったため、少々長めです。
領邸で日常となりつつある祖父母と孫娘三人での夕食の席。
それが間もなく始まろうというタイミングで乱入してきたのはマリアベルの父、アベルだった。
勿論乱入と言っても窓ガラスを割って侵入しただとか、下水道から忍び込んだといった怪しい方法ではなく自身が治める領地の領邸へ自家の馬車でやってきたにすぎないが…連絡もなく団欒の時間にやってくるのは立派な乱入と言って差し支えないだろう。
「父上!マリアベルを返してください!
私の娘を攫い、どうするおつもりなのですか!」
幸いにもまだマリアベルは着席していなかった。
丁度身支度を整えダイニングへ向かおうとした矢先、アンジーが玄関先で騒ぐアベルと応対するジェラルドの声を聞きつけストップをかけた為そのまま部屋で待機している。
「…どうするつもり、か。それはこちらの台詞だ、アベルよ」
三人で楽しむ予定だった食前酒(マリアベルの席は勿論果実水である)を一息で飲み干し、グラウスは息子を冷ややかな目で見つめる。
その横のフェミアも同じように食前酒に口を付けたが、半分飲んだところでグラスを置いた。
「話の前に…アベル、いくら当主と言えど礼を欠くのは頂けないわ。
事前の連絡もなしにやってくるなど貴族としてあるまじき不作法よ」
「それはっ…失礼しました…。
ですが、大事な娘を勝手に連れて行くことの方が余程礼を欠いているでしょう!」
「その大事な娘とやらが消えたのはいつだと思って?
一ヶ月、いえもう二ヶ月にもなろうというのに、お前は一体どこで迷っていたのかしら」
王都と領邸は往復しても半日かからない距離にある。
本当に大事ならもっと早く来れただろうと言外に指摘しながらフェミアはジェラルドに目配せしアベルを椅子に座るよう誘導させた。
「と、当主としてやるべきことがあります…急に時間を空けるなど………、?」
マリアベルが座るはずだったその席に座ると、アベルは置かれていた果実水を飲み干したが酒だと思っていたのだろう…一瞬拍子抜けしたように顔を崩しグラスを見た。
この領邸において今、夕食の席を共にするのは主であるグラウスとフェミア、そして幼いマリアベルだけで彼女の席に酒が置かれている筈もない。しかしアベルの意識にはそのような考えは毛頭なく、何故酒でもないものが置かれているのかと使用人を振り返る有様だ。
そんな、恐らく無意識に見せたアベルの振る舞いは二人により深い失望を与える。
「私は外務大臣をやっていた時でも週に二度は半日の休みを入れていた。当主の仕事だけでこれほど長い間休みなく働かねばならぬほど忙しいとは、よほど下の人間が不出来なようだ」
「…休みはありましたが、他にもやるべき事があるのです…」
「必須でもない夜会や茶会に足繫く通う事が、娘の身柄よりも大切な事か」
「な…何故、それを、」
グラウスはマリアベルを引き取ったその日の内に手を打ち、内々に王都の屋敷の現状を調べさせた。
そうしてわかったのは、やはりマリアベルの存在一切が内外に伏せられている事実とリナリアやエリザベスを過剰に支え、誉めそやされているアベルの実態だった。
リャンバス貴族の社交は主に女性が担う。
それはフィーガス家でいえば女主人のリナリアの仕事であり、当主であるアベルは王家や格上の公爵家が主催するものや、一族との交流会といった参加が必須とされるもの以外参加する必要はない。
勿論それ以外に参加してはいけない訳ではないが、殆どの家の当主は必須以外の社交を妻に任せ自身は領地経営や携わる事業、政務に注力し家としての安定を図ってきた。
そんな分業が根差した貴族社会の中でアベルは、毎日のように届く招待の一切を断る事なくリナリアと共に夜会に参加し、もし参加できなくとも自身の手による送り迎えを欠かすことはなかった。
線が細く、儚い美しさを持ったリナリアを支えるように寄り添うアベルの姿を何も知らない者は愛情深い夫だと賞賛し、リナリアとよく似たエリザベスの手を繋ぎ茶会に参加するようになると最高の父親だと絶賛した。
勿論誘いを受け参加することは美徳だが、それはあくまで様々な責任を果たした上であり、まさかその愛情深い最高の父親が手元から引き離された娘を放置して参加しているなど夢にも思わないだろう。
「あぁ、今日はリナリアがエリザベスを連れ実家の晩餐会に呼ばれているそうだな?
二人がいない隙を見計らい、連れ戻したマリアベルをまたあの庭師小屋に押し込もうという魂胆か」
「そんな言い方はやめてくださいっ!私はただ…」
「事実そうだろう。生憎今のお前にマリアベルを渡すつもりはない。もっと早く…そしてリナリアを連れて迎えに来ればまだ可能性はあったがな」
「…リナリアは…リナリアは、病気なのです…」
「……病気、か」
グラウスも調べる内、心の病であれば仕方ないと思う部分はあった。
だがそれを隠し、十年もの長い間マリアベルに不遇な扱いを強いたアベルを親として許す事はできず、厳しい目を緩める事はない。
「お願いします!マリアベルは私の娘なんですっ!返してください!」
「―――では、お前は何をもってそれを証明する」
「は…?」
「マリアベルという娘がお前の実の子だという事を、どう証明するのだ。出生届の写しを出してみろ。国民登録証でもいいし洗礼証明でもいいぞ」
「……それ、は…」
「親としてすべき最低限の事を何一つとしてしていないお前が、そのように胸を張ってマリアベルの父親を名乗れるのか?」
「しかし…」
口ごもるアベルに溜息をついたグラウスがグラスを軽く横に滑らせると、侍従は心得たようにそのグラスへ炭酸水を注ぎレモンを絞り入れた。
「アベルよ…お前はマリアベルをどうするつもりだったのだ」
「どう、とは…?愛情をもって育てるに決まっているじゃないですか」
「愛情をもって育てる。ほう、ではその先は?」
「先?」
「子供は永遠に子供というわけではない。まして貴族の家に生まれたのだ、年頃になれば見合った相手と婚約し成人を待って婚姻を結ぶのが普通だろう。
この先ずっとあの離れで暮らし続けるわけにはいかない事など、考えずともわかる筈だ」
「……そ、それは…」
「もう一度聞こう。貴族どころかこの国の民として認められていないあの子を、お前はどうするつもりだった?」
持ち上げたグラスの中では炭酸の細かな泡が立ち上り、グラウスはその気泡越しにアベルの表情を見る。
屈折し歪曲し、浮かびあがり消えていく気泡に映るその顔は幼い頃から変わらない、波風に立ち向かうのではなく流れを汲みつつ最小限でいなす事に尽力してきた者の顔だった。
勿論それは悪い事ではない。バランスと場の空気を読む力に長けたアベルはある意味で当主に向いていると言えるし、だからこそグラウスは自身の後継としてフィーガスの家を任せたのだ。
しかし、今この状況はいなす事も出来なければ生半可な対応で許されるものではない。
「あのままマリアベルを離れに押し込み、お前とライラ以外碌に知らない状況でお前達に何かあれば、マリアベルはどうなっていた?
証明をひとつも持たず存在を秘された子供が、一体どうやって生きていく?
遅かれ早かれお前はマリアベルを置いて逝くのだ、まさか一緒に連れて逝くなどとは言うまいな」
「そっ…そんな事は…けして…」
アベルは言葉を続けることが出来なかった。
あぁ、うぅ、と呻き、終わりのない逃げる為の言葉をゴニョゴニョと呟くだけで確実な言葉を何一つとして持たない。
我が子ながら買い被っていた…見誤ったかとため息をつくグラウスの横で、フェミアは徐に口を開いた。
「アベル」
「は、母上…!」
穏やかなフェミアの声にアベルは光明を見出したように顔を明るくする。しかしフェミアは口元こそ笑みを浮かべているがその目にはうっすらと失望が滲んでいた。
それはアベルと、その横に控え今にも泣きだしそうに顔を歪めるライラへと向けられている。
「お前の娘はエリザベスだけです。さっさとその侍女を連れてお帰りなさい」
「母上…?ま、マリアベルと一緒でなければ帰れません、大切な娘なのですっ」
「大切な娘がどれほど歪んでいるのかも気付かないお前に親を名乗る資格はありません。あの子は私達が責任をもってしかるべき場所へ引き渡します」
「歪んでなど…あの子は賢く、とてもいい子ですよ?それに引き渡すとはどういうことですか!?」
「賢く、いい子。えぇ、そうでしょうね。生まれた瞬間からそうならざるを得ない状況に追い込まれていたのですから」
この二ヶ月足らずを共に過ごす内、フェミアはマリアベルがどのような子供か注意深く観察してきた。
広い屋敷も庭も自由に過ごせる環境に置かれたマリアベルは、戸惑いながらも少しずつ活発になり好奇心のまま様々なものに触れ喜ぶ一方で、常に周囲の人の動きや表情を見つめ続けてもいた。
ふと気が抜ける瞬間はあってもすぐ我を取り戻し、周囲がどんな反応をしているのか窺う子供らしからぬその警戒心と観察眼は聡明といえば聞こえがいいが、どちらかといえば後付けの…自身を守る為必死に身につけた自衛手段なのだろう。
離れで暮らしてきた十年間、マリアベルはアベルやライラが望む『心優しく聞き分けのいいマリアベル』でい続ける事で自分自身を守ってきたのだ。
「あの子は常に相手を気にして己の感情を表に出すことを抑えています。
理不尽に、寂しさに、悔しさに、子供なら何度泣き喚いてもおかしくはないというのに。何故そうなったかわかりますか」
フェミアの目はじっとアベルとライラを見据える。
ライラはその視線を受け怯えるように肩を強張らせ、とうとうしゃくりあげ始めた。
「そのように泣けと、教育しましたか?」
「っ…」
本邸の使用人は長く務める者と代替わりで雇い入れた者が混ざっている。
グラウス達が領邸に移る際に前者の半分以上を供とした為、現在の割合としては後者が多いが、それでもけして不出来なわけではない。
アベルが生まれ次期後継者と決まった段階で親族や知人に声を掛け集め、年月をかけて擦り合わせながら侯爵家に相応しい者に教育した筈だった。
ライラも当時親交のある伯爵家の紹介で侍女として雇い入れ、子供好きで真面目な性格からリナリアの懐妊が判明した時点で次代を育てる乳母になるよう再度教育を施し、問題ないと信用していたのだが…。
「大人だというのに自分を御する事もせず、すぐ感情を表に出し醜態を晒す人間がいては、泣く事もできないでしょうね。不十分な教育しかできなかった私の罪なのかもしれません」
「…お、大奥様…私は…」
「四六時中可哀想だと泣き喚く侍女と二人きりなど、歪んで当然。そして歪んだ末物静かな『いい子』になるしかなかった娘の心中に気付かない父親…あと数年もすれば本当に取り返しがつかない事になっていたでしょう」
紳士淑女という仮面を被る貴族は勿論、その使用人も自分の感情を表に出さないのは初歩中の初歩だ。
人間である以上全てを抑えるのは無理だとしても、少なくとも主人の前…つまり業務中に感情のままみっともなく泣くなど許される事ではない。
しかも仕えるべきマリアベルを憐れんで、だ。
家によってはその場で解雇、あるいは厳罰の後に再教育を受ける事にはなるだろう。
他の使用人がいればその異常性に気付く者もいた筈だが、離れにはマリアベルとライラだけでアベルも毎日顔を合せるわけではない。
感情のまま泣き喚く乳母を宥める為育てられるべき子女が逆に心を砕く。そんな毎日を過ごすのが健全である筈もなくマリアベルは上辺だけの平穏を…与えられた暮らしを維持する為に順応しようと無意識のうちに目を配るようになり、固く自分の本心に蓋したのだ。
「今マリアベルには、アンジーという侍女をつけています。
年は若いですが少なくともお前よりは貴族に仕えることがどういうものか理解した、優秀な娘です。
後ろに控え感情を律し、主を立てる事を知っていますからね」
アンジーをつけたのは年齢と技術的な優秀さからだったが、翻弄され疲弊し続けてきたマリアベルとは相性がよかったのだろう。今の二人は主と侍女として良好な関係を築きつつある。
テスパラルへの移住を提案されたあの日以降マリアベルがアンジーに対し敬語を使う事はなくなり、自分の望みもアンジーに対してであれば躊躇いなく伝えられている。
「それと、お前がそうなるように当然私達もあの子を置いて逝きます。
ならばその後の人生を真っ当な者の元で不自由なく生きられるよう整えるのは当然のことでしょう」
「まさか養子に出すと言うのですか!?私の娘を!」
「我が子だと言うのなら何故そのように扱わないのですかっ!」
ダンッ
フェミアの細くかすかに骨の浮いた手がダイニングテーブルを打った。
その手は固く握りしめられ怒りに震えている。
「リナリアが病だと言うのなら医者には診せたのですか!?
ただ素人判断でタイミングを見て引き合わせ、偶然の回復を待っていただけでしょう!」
「離れに押し込み、私達にも誰にも知らせずその存在を秘匿し、挙句死産だと公表しあの子も暮らす敷地内に墓を建てるなどお前はマリアベルを何度殺せば気が済むのです!」
「娘を真に愛していると言うならリナリアを適切な医者に診せ、回復を待つ間私達や信頼できる者に預ければよかったでしょう!
もし回復が見込めないと言うのであれば、どこか別の家へ正式に養子に出し、金銭面の援助という形で親の義務を果たし愛情を注ぐ事も出来たというのに…!」
「お前はただ現実から目を背け、何一つ切り捨てる事もできないのに親としての責任からも逃げ続け、マリアベルという一人の人間を…その存在を、身勝手に握り潰したのですっ!」
捲し立てたフェミアは荒く息切れしながらその目に涙を浮かべた。
手塩にかけて育てた我が子の愚かな所業と、その犠牲になった孫娘の悔しさを思うと抑える事は出来なかった。
「…母、上…」
「…もうマリアベルの事は忘れなさい、その方がお互いの為です」
アベルは何か言葉を返そうとするが、現実を突き付けられ何も言う事が出来ない。
マリアベルに対し悪い事をしているという自覚はあったが、漠然といつか上手くいくだろうと楽観的に考え時間が解決してくれるのをただ待っていた。
時間が経てば妻の病は治り、社交界で築いた繋がりからたくさんの祝福を受けたマリアベルを迎え入れ家族四人で幸福な時間を過ごせるようになると…十年間、現実から目を逸らし続けていた。
しかし、アベルは現実を突きつけられても尚そんな夢想を捨てきれない、どうしようもないほどに弱い男だった。
「……ま、マリアベルは…マリアベルは同意しているんですか?
両親と離れて暮らすなんて、10歳の子供には酷なんじゃ…」
ひねり出したアベルの言葉にグラウスとフェミアは揃って目を見開く。
「お前は…お前が、それを言うのか…!」
「…っ…なんて愚かな…」
親という実を伴わない名に縋り続ける醜さと盾にする厭らしい強かさ、そして顔を出すだけで一晩たりとも今まで共に暮らした事がない癖にそれを言う厚かましさに今度こそ呆れ返るしかできなかった。