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4話



場所も何も知らなかったフィーガス侯爵領は王都から馬車で二時間程度の距離にあり、マリアベルと祖父母を乗せた馬車は王都のカフェから出たその日の内に領邸へと到着した。

夕焼けが染みる大きな白亜の屋敷と広い庭、その庭には番犬なのか数匹の犬が耳を立てながらも気ままにくつろいでいる。

動物といえば離れの窓で時折羽を休める小鳥くらいしかいなかったマリアベルは初めて見る生きた犬を前にふわふわした毛並みに見入ってしまった。


「マリアベルは犬が好きか?」

「…犬を見るのは初めてです。

 本で見た事はありますけど、実物は見たことがなくて」

「そうか…」


貴族の屋敷に番犬を置くのはよくある事で、王都の侯爵邸にも数匹の大型犬が飼われている。

だが離れで暮らすマリアベルから彼らは見えず、エリザベスと共に庭で遊ぶ際は安全のため犬小屋に入れられていた。


グラウスは小さく狭い離れの中以外を知らないマリアベルに憐憫を覚えたが、それを振り払うように小さく首を振った。伏せられていたとはいえ、その存在を今の今まで知らなかった自分に憐れむ資格などないのだと。


「おかえりなさいませ。大旦那様、大奥様」

「うむ。皆の者、今日より我が孫マリアベルがこの屋敷で暮らす事となった。よく尽くすように」


執事長を始め主要の使用人達と引き合わされたマリアベルは面識のない大勢の大人に囲まれ緊張こそしたものの、疑惑や侮蔑を見せず主人の言葉通りフィーガスの娘として扱う実直な姿勢にほっと息をついた。

不当に扱われない筈と思っていてもいざ対面するまでは緊張や警戒心が体を支配していたのだろう。

警戒を緩めたマリアベルの様子に、グラウスは安堵しながら執事長を連れ執務室へと向かった。


 


「マリアベルが気に入るかはわからないけれど、この部屋を使ってちょうだい」


フェミアの案内で通されたのは離れの部屋の四倍はありそうな豪華な部屋で、インテリアの雰囲気から子供ではなく女性用に整えられているのがわかった。

咄嗟に母リナリアが使う部屋なのではないかと思ったが、焦りを浮かべたマリアベルの顔から考えている事に薄ら気付いたフェミアは苦笑いをして否定する。


「ここはイヴリン…アベルの姉の部屋よ。

 隣国に嫁いでからは誰も使う人がいなかったから、気兼ねなく使ってちょうだい」

「…そう、ですか。侯爵様にはお姉様がいるのですね」

「えぇ。ところで、その侯爵様というのはアベルが呼ぶように言ったのかしら?」

「いいえ、私がお父様と呼んだらエリザベス様が混乱するので自分から呼んでいます」

「まぁ、そうなの…。なら、良ければ私の事はお祖母様と呼んでちょうだい。

 グラウスの事もお祖父様と呼んであげればきっと喜ぶわ」

「…はい、わかりました」


マリアベルも小さい頃こそアベルに対しパパやお父様といった呼称を使っていたが、エリザベスの「遊び相手」になった時からおじさまに切り替え成長するに従い自然と侯爵様と呼ぶようになっていた。

ライラからはそんな呼び方をするべきではないと涙交じりに言われているが、アベル本人はマリアベルが侯爵様と呼ぼうと傷ついた顔をするだけで注意する事もなければマリアベルの立場を訂正する事はない。


「今日は馬車に乗る時間も長く疲れたでしょうから早めに寝てしまいましょう。服は…古いものだけれどイヴリンのもので我慢してくれる?」

「はい、お祖母様」

「…マリアベル」


そっと、フェミアの手がマリアベルの柔らかい頬を撫でる。


「貴方はきっととても賢い子なのね。

 賢いから、遠くの救いを探し求めるよりも自分を守る為の殻を作ってしまった。まだこんなにも幼いというのに」


フェミアの緑の目は、マリアベルのものと同じ色をしている。

心配を含んだ柔らかく微笑む顔と色あいから感じる親近感に心が少し緩んでいくのを感じながら、反対に飢えのような…これが母の薄桃の目だったらどれだけ幸せだろうという考えがマリアベルの心を埋めていく。


心を動かせば、こんなにも簡単に、自然に、母を求めてしまう。

マリアベルは無意識の内、心を動かす事を止めていたことに気付いてしまった。自分の心の動かし方を、思い出してしまった。


「…えぇ、そうよ、泣いてもいいの。

 貴方は悲しければ泣いてもいい、まだほんの小さな子供なのだから」


本来、10歳を過ぎた貴族令嬢ならみっともなく泣く事を咎められるだろう。だがフェミアは単純な年齢よりもマリアベルの心を慮り、感情をさらけ出す事を許した。

娘と息子を育ててきた母としての勘が、今は礼儀などよりマリアベルの心を守るべきだと訴えている。


「…ぉ、かあさま……」


一度零れ落ちた涙は壊れた蛇口のように止まる事をしない。

綻んだ心の僅かな隙間から、生まれ落ちた瞬間に向けられた空虚な眼差しや名前すら刻まれていない自身の墓標を見たあの時から心の中に溜まってきたどうしようもない空しさ、悲しみが波となって押し寄せ涙になって溢れていく。


何度も何度も、風穴を薄紙で塞ぎ続けたマリアの心はもう本来の形が見えないほど分厚い殻に覆われていた。


大人になり、大人のようにわかった振りをして、そうしていないと耐えられなかった。


強く賢い『お姫様』の心だけは持っている、嘘でもそう思わなければ母の腕から滑り落ちた幼いままの自分を守れなかった。


母が欲しいと泣く子供のままでいては、あの居場所まで失ってしまうんじゃないかと怖かった。



大きな目から涙を溢れさせ、静かに泣き続けるマリアベルをフェミアはソファに座らせそっと背中を撫でる。

優しい手の温かさにまた涙が溢れ、体中の水分を吐き出すように泣きながらマリアベルはいつの間にか眠ってしまった。



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