30話
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「マリア、後で書斎に来てくれないか」
そうアントニオが声を掛けたのは夕食の最中だった。
イヴリンとマルシオが帰るのと入れ替わりに帰宅したアントニオは既にミランダから話を聞いているのだろう、食事中もいつもの豪快さがなく何事かを考えているような表情を浮かべていた。
父の様子に一瞬全てを話したのではないか、という考えがよぎったがミランダは約束を破るような人物ではないとそれを振り払う。
了解を伝え、食後にそのまま父と共に書斎に向かうと既に簡単なティーセットが用意されていた。
「座りなさい。マリアはミルクと砂糖一匙だったか」
「はい、ありがとうございます」
母がなんと伝えたかはわからないが、本当にギリギリの所まで話したのかもしれない。
アントニオが注いだ紅茶の温かさを感じながらマリアは息を深く吐いて向かいからの言葉を待った。
「……マルシオが、ひどい言葉を言ったと聞いた」
その声には怒りも、苛立ちも、呆れもなかった。
しかし淡々としているわけでもなく痛みに耐えるような、感情の滲む声だった。
母達は突き飛ばしたという事象を言葉に変えて伝え、それをマルシオにとって決定的な瑕疵にならずマリアとの婚約話を取り下げる為の落とし所としたようだ。
(すべてを隠すわけにはいかないとお母様も言っていた…これが、きっと最善なんだ)
致命的な部分さえ除けばマルシオの今後に影響はしないだろうと安堵する一方で、アントニオとの間に溝が生まれた可能性にマリアはキュッと拳を強く握った。
「お母様に、前のお庭の事を聞きました。
マルシオ様からすれば、きっと悲しかったんだと思います」
「…あぁ。確かに、マリアを迎えるまではあの子が来る度に庭でよく遊んでやったものだ」
アントニオの言葉はちくりとマリアの心に針を刺す。
アントニオとミランダはずっと子供を欲しがっていた。
マリアとの縁組が決まるまでに養子縁組の話が幾つも持ち上がっていた事も薄っすらと察している。
貴族の当主に跡取りがいないというのはあってはならない事で、本来ならなるべく近い血筋の子を入れるべきだという事も、先ほど聞いた婚姻の制限でわかり始めてしまっている。
『アントニオおじさん!』
マルシオの笑顔が浮かぶ。
マリアが来なければ、別の呼び方だったのだろうか。
もっと近い……父と呼ぶものでは?
「………お、父様」
マリアの声が震える。
アントニオを父と呼ぶマルシオを想像すると、まるで体を大きな手が握りつぶしているように苦しくなり呼吸が逸る。
自分が来たせいで変わってしまったのか、自分が父と呼んでもいいのか、父は本当に呼ばれたいのか…聞いてはならない、聞きたくて仕方がない問いがぐるぐると頭を廻る。
今にも身体ごと震え出しそうなマリアにアントニオはそっと隣の席に移動し、小さな体を抱えた。
「マリア、私の可愛い娘。
お前は賢い上によく人を見る…きっと不安にさせただろう。
だがどうか今だけは何も考えず私の話を聞いてくれ。娘の不安を、父に掃わせてくれ」
マリアにとって丸太と遜色ないほど逞しい腕は出会った日に掲げられた時と違い、ひたすらに安心感を与える父親の腕だ。
ほんの少し揺らせば泣き出してしまいそうなマリアもその温かさを感じ呼吸を和らげる。
「マリアとの話が決まるまでは養子を親族から迎える話は確かにあって、レオポルドの子…マルシオやルカも候補だった。
しかし私もミランダも二人の中からは選ばないつもりだったんだ」
「…どうしてですか?」
「レオポルドの家は私にとって理想の一つだ。
…あそこから一人だけ選んで引き離すなど、とてもできないほどに憧れていた。
だから慕ってくれているマルシオに対しても迂闊な事を言わないよう気を付けていたつもりだった…勘違いさせて彼らの中に不和を招くわけにはいかなかったからな」
家というものはそれぞれで形が異なる。
全ての子を平等に扱う家もあれば長男や、美しい娘だけを尊重し他を蔑ろにする家もある。
夫婦間の温度も、舅や姑との関係も、表に見えないだけで数えきれないほどの『差』を孕む。
それは貴族になればより顕著になり、本当に円満な家庭というものはほんの一握りだろう。
そしてアラニス家はその一握りの中にあった。
「先代の家族仲も良かったし、私の両親も私を愛してくれた。
近くにある彼らの姿を見たからこそ私もそうあろう、家族を大事にしようと思えたのだ。
マルシオはよく懐いてくれたがその線引きを忘れた事はない」
「…でも、マルシオ様は」
「あぁ。ハッキリと言わなかった…子供の内ならあまり気にしていないだろうと、考えを伝えなかった私が悪い。
だからマリア、お前は何も悪くないんだ。我が家の娘としてここにいてくれることを、私は心から喜んでいる」
強く、けれど小さな体を潰さないよう注意を払う優しさの籠った抱擁にマリアは力の限りしがみつく。
唇を噛みしめ声を上げずに涙を零すマリアは日中からずっと心の中を占めていた苦しさから解放された。
マルシオにとって居場所を奪った仇だが、アントニオ達にとっての自分はなんなのか。
不安と罪悪感の間で見失いそうになっていた両親の愛を、マリアの心の中で再び温かさを取り戻す。
「私とマルシオの関わり方は変わる。
だがそれは排除するわけでも疎遠になるわけでもなく、親族としてあるべき姿になるだけだ。
時間はかかるだろうがあの子もわかってくれるだろう…」
今回の件で婚約者候補から外れたマルシオがランティス家の輪に入る事はない。
しかし、今後同世代の親族として付き合っていかなければいけないマリアとの間に遺恨を残さないよう気を配る必要があるが…今のマルシオの傷をアントニオは癒せないし、癒そうと手を伸ばす事はできない。
両親であるレオポルドとイヴリンが親としての愛を示し、本来の形に適応させていく事になる。
温かだった紅茶が芯までその温度を失うほどの間、二人は言葉もなくただ抱き締め合った。




