18話
「そんな顔しないでよ、悲しいなぁ」
エリヤは微笑んでいたが、その目は寂しげに揺れていた。
マリアベルは彼の表情を見て、仮にも自分で信用し連れてきた筈の者へ疑心を向けてしまった事に罪悪感を感じ顔を逸らす。
魔物。
それは人ならざる、恐ろしい生き物の総称だ。
リャンバスでは魔石の産出地など特定の地域にしか生息していない為マリアベルが実物を目にすることはなかったが、魔力的に肥沃な地であるテスパラルでは広く分布し人々の暮らしを脅かす存在とされている。
大半の種は人語を解さず人を容易に屠る力を持ち、それに加え魔力そのものだけではなく魔力を宿す人間をも糧とする…そんな生物が人間と相容れる事はないだろう。
皮や鱗、種によっては肝など素材として有用だが戦う術を持たない人間にとっては嵐のように身を隠しやり過ごすしかできない。事実、大量発生により大きな被害が出たものは『災害』として記録されていて、マリアベルが読んだ歴史の教本にも記されていた。
もし、エリヤが魔物だったとしたらマリアベルは人でありながら魔物を街に引き入れた裏切り者という事になる。
馬車の中や店で買い物をする間の行動を見ていたせいか、とてもそんな恐ろしい存在だとは思えないが…レオポルドの言もまた、嘘だとは思えない。
どちらだとしても、もうマリアベルが自分で対処できる範囲を超えている、その事実だけは間違いないものだ。
呼吸が浅くなり、心臓が逸る。
「マリアベル、大丈夫だから落ち着きなさい」
ぎゅっと、知らずの内に自身の胸元の布地を握りしめていたマリアベルはレオポルドの声にハッと向き直る。
レオポルドは先ほど、自分一人でも対応できるとそう言った。
テスパラルでは高い魔力を持つ貴族は魔物にとって良質な餌であると同時に、魔物に対抗する為の希望でもある。
領主一族は自らが治める領地に魔物避けの魔道具や結界を張る事で民やその暮らしを支える家畜や農作物を守り、そして領地を持たない貴族や魔力を持つ一部の平民は王家に仕えるか、或いは冒険者として人里に現れた魔物と戦っている。
そんな貴族の中でも高位の、侯爵家当主であるレオポルドが大丈夫とハッキリ口にする意味に、マリアベルはようやく細く長い息を吐きだした。
「さて…お姫様も落ち着いたところで話を続けよう。
魔物は我々人間が知るだけでも何百もの種が存在しているが今のところ完全に人に化ける種は発見されていない。
勿論発見されていないだけで存在していても不思議ではないがね」
魔物図鑑、魔物拾遺集など魔物に関する文献は多い。
それを元に対策を練る為貴族にとって貴重な資料だが、現時点でスライムなどの擬態種やサキュバスなど人に近い形状の魔物の記録はあっても完全に人と同一であるというものは存在しない。
「君が完全擬態種だとしたら世紀の大発見だ。
会話ができるならきっと研究も捗るだろう…もしこの場で抵抗せず従ってくれるなら我が家が支援し快適な環境を約束してもいい。
だが、暴れるならそれに相応しい待遇になるし、魔物でないというなら私が納得できるだけの根拠を見せる必要がある」
レオポルドは口元にのみ微笑を乗せながらエリヤを見つめている。
その目はマリアベルでもわかるほど異質な輝きを放ち、射貫かんばかりに魔力が込められているが対するエリヤは気にした様子もなく、椅子から降りると徐にレオポルドへと歩み寄った。
「おや、何をしてくれるんだい?」
「何もしないよ、色んな匂いが付きすぎてわからないから直で嗅がせてもらうだけ」
上背のあるレオポルドは椅子に座ってようやくエリヤと視線の高さを同じくする。
小さな鼻をヒクヒクと動かしながら、エリヤは少しずつレオポルドとの距離を詰め…やがて、その艶やかな赤毛に顔を埋めてしまった。
「エリヤッ!!」
なんて失礼な事をしているのか、危険な事をしているのか、とマリアベルは顔を真っ青にし悲鳴を上げるが当のレオポルドは緩慢に手を振り笑って見せた。
「うちの犬も最初はこうやって匂いを嗅ごうと必死だったからね、納得するまでやらせておけばいい」
「でも!伯父様…!」
「防護魔法が発動しているんだ、命の危険はないよ。安心なさい」
「…犬じゃないし、何もしないって言っただろ」
レオポルドが言う所の納得、をしたのかエリヤはゆっくりと彼から離れ自身の鼻を指先で擦った。
「確認は終わったかな?」
「…わかんなかったけど少なくとも臭くはないし、いいよ。アンタは信用してあげる」
再度椅子に座ったエリヤはアンジーが用意した紅茶のカップを両手で包み、立ち上る香りを深く深く吸い込みほっと息をつくとゆっくりマリアベルへ視線を向ける。
「お嬢さん」
黒曜の瞳はまっすぐにマリアベルだけを映していた。
それが本能であるような、目の前の一人しかその心に置いていないような、そんな視線を向けられたマリアベルは小さく息を呑む。
「本来ならこれから話す事は俺が選んだお嬢さん以外に話してはいけない事なんだ。
でもお嬢さんはまだ子供で、判断を大人に任せる事が多い…ここまでは合ってる?」
「…うん。私はまだ何も一人でできないもの」
「そう。だからお嬢さんが大人になるまでの間は大人を、多分この人を後ろに置かなきゃいけない。
だから俺はこの人には話してもいいと思うし話した方がいいと思う。
でも、この判断すら本来は俺がすべき事じゃない。だからお嬢さんも考えて。
考えてから、話せと言って」
出会いからまだ半日も経っていない、ほんの僅かな時間を共にしただけ。
一応信用したとはいえまだ他人と知人の境界に過ぎないと思っていたエリヤから向けられる全霊の忠誠に、マリアベルはそれに戸惑う気持ちと何か見えないものが共に背中を駆け上がる感覚を覚えた。
今、この美しい不思議な少年の全てが自分に委ねられている。
書類での契約はおろか、魔力契約でも達しえない、魂を縛るような忠誠。
歩みも、情報も、命ですらも自分が決められる…そんな予感が、マリアベルの中でハッキリと確信として形を持った。
今自分が口を閉ざせといえばエリヤはその口から一切の情報を発さず、魔物としての扱いを受け入れるだろう。
逃げろと言えば、伯父を害してでもこの場から逃げおおせるだろう。
自らを……といえば、躊躇いなく散ってしまうだろう。
きっと彼が他者に従う事はない。
エリヤがマリアベルを選んだ時点で、マリアベルはエリヤの生涯の主となったのだ。
その考えはマリアベルの心に間違えようがない真実として落ちて、染み込んでいく。
見つめ合う瞳の、子供らしからぬ強さにレオポルドは手も口も出さず、アンジーにもそれを命じた。
彼はマリアベルを庇護が必要な子供だと認識していながらも、ただ何もわからない子供だとは考えていない。
知識への貪欲さ、周囲への適応能力、自制心…マリアベル持つそれらの能力は決定的な失敗を犯すまでは許容し任せても構わない、そう思わせるだけの価値があった。
「伯父様」
「…なんだい」
「伯父様とアンジー以外、席を外させてください。
私達以外、この場にいないようにしたいのです」
「護衛もかな?それを外させる意味をわかっているかい?」
「はい。エリヤは誰も傷つけません」
きっと。だと思う。大丈夫。
曖昧なものを一切含まないマリアベルの言葉にレオポルドは右手を上げ払うような仕草で応えた。
マリアベルとアンジーは変化を感じる事はできなかったがエリヤはスン、と鼻を鳴らした後小さく頷き周囲の安全が確保できた事を知らせる。
「………」
マリアベルは、考えた。
この先、彼女が秘密を抱えたままテスパラルで生涯を過ごすには、レオポルドという存在が不可欠だ。
自身の秘密を知り、強い権力を持つ人物の後援はマリアベルが子爵位を継いでからも重要なものとなる。
出自が曖昧な設定で社交界入りする彼女に対し世間はどんな目を向けてくるかはわからないが侯爵がその後ろに立てば非難や差別、勘繰りを最小限に抑えられる。
それはマリアベルに仕えるアンジーやエリヤを守る事に繋がり、深く辿れば生家であるフィーガスの家をも守る事に繋がる。
エリヤがどんな秘密を抱えているのか、果たしてそれでレオポルドの信頼を得られるのか…。
何も知らないまま主になってしまったマリアベルに判断はつかないが、エリヤの持つ可能性とレオポルドの正当な判断力、その二つに賭けるしかない事だけは確かだった。
四人だけになった静かな室内で、マリアベルは口を開く。
「話して、エリヤ」
「はい、お嬢さん」
それは願いや依頼ではなく、マリアベルが初めて下す主としての命令だった。