16話
もし自分と同じようにどうしようもない環境から逃げたいというのであれば、ここで断ったら彼はどうなるのだろうか…考えあぐねるマリアベルを少年は視線から外す事無く見つめ続けている。
「あの、えっと…」
「エリヤ」
「…エリヤは、どうして私に連れていってほしいの?」
「アンタからいい匂いがしたから」
返答にぎょっとして、マリアは思わず自分の服の袖を嗅いだ。
勿論それは新品な上、身につけて間もないので何の臭いもしない。
「くさいって、こと?」
「いい匂いって言っただろ?ん~…なんていうのかなぁ。
兄ちゃん達はどうやって見分けたかわかんないけど、多分こういう匂いの奴らについていったんだと思う。
よくない奴らはひどい臭いがするんだ、果物をカビさせて濡れたボロ雑巾で包んだみたいな」
「雑巾…カビ…」
「アンタは花の匂いがする…まだ咲いてないけど、白くてきれいな花だ」
フィーガス家ではハーブの練りこまれた石鹸を使っていたが、ここに来る間の宿は香りのない石鹸しか置いていなかった。
香水はそもそも使ったことがなく香油、化粧品の類も平民を装うには不要と使わなかった為、花の匂いと形容されるようなものに心当たりはない。
「じゃあ、逃げて別の場所に行きたいわけじゃない?」
「別の場所っていうか、アンタの手元にいた方がいいってだけ。
兄ちゃん達も皆最初の奴に絶対ついていけって言ってたし、俺も別の奴じゃダメなんだって気がしてる」
どうにも不思議な会話だ。
マリアベル達ではわからない感覚を基準にし、前提として置かれているせいでページが抜けた本を読んでいるような、どこか納得しきれない返答しか返ってこない。
しかし、その会話を抜きにしても幼い子供が一人でいるというのが真実なのだとしたら放置するのはあまりに非道だろう。
世間知らずのマリアベルと、多少世間を知っていてもあくまで若い一般女性でしかないアンジー。
嘘を嘘と見抜き人の正邪を見抜くにはどちらも経験が足りず、甘噛みのまま食い下がるエリヤにどう対応すればいいのかもわからない。
「……あ」
いよいよ判断に困り切ったマリアベルの脳裏に、ミランダの少し丸まった文字がよぎる。
(専属の侍従を探しているってお母様からのお手紙には書いてあったわ)
ミランダからフィーガス邸に届いた最後の手紙には受け入れ準備がほぼ完了した事、専属の使用人がまだ決まっていない事が書かれていた。
子爵家とはいえ後継者となり、更には公にできない秘密があるマリアベルの専属に迂闊な人選はできない。
方々探しているが到着してもしばらくの間はアンジーに任せるかもしれない、と。
「アンジー、耳を貸して」
「はい」
背伸びをしたマリアベルにアンジーが身を屈める。
二人にしか聞こえないよう気を遣いながらマリアベルはエリヤをとりあえず合流地点まで連れていき、専属の侍従に推薦してみてはどうかと囁いた。
王族、あるいはそれに次ぐような高貴な家柄でもない限り使用人を貴族で統一することはない。
勿論身元確かな者の方が望ましいが、下位貴族の中には賃金相場の低さから貧民を雇う家もある、とマリアベルは貴族についての学習で学んでいた。
平民生まれのアンジーも思う所があるのか、マリアベルの提案を聞き暫しの間悩んだ後、エリヤに向き直る。
「お嬢様は特別な事情をお持ちです。
雇われた際には忠誠を誓い、一切の情報を誰にも話さないと約束できますか?」
「ずっと手元に置いてくれるなら」
「雇われなかった時も、相応の金銭と引き換えに秘密を守ってもらいますよ」
「置いてもらえるまで粘るからいいよ」
「……兄姉が接触してきても話さないと断言できますか?」
「勿論。兄ちゃん達だろうと仕事には関係ないからね」
エリヤの黒曜の目は質問に答える間も瞬き以外一切揺らぐ事無く、真剣だ。
二人は残念ながらその真贋を見極めることができないが、少なくとも現時点で無理矢理振り払って噂を流されるよりは決断を後回しにした方が幾らかマシだろう。
「私達はこの先の街で人と待ち合わせています。
貴方を雇うかどうかの判断は合流した後、そちらの方々に下してもらいますがよろしいですね」
「いいよ。でもそしたら俺はその人のものになるってこと?
それは話が違うと思うんだけど」
「お嬢様が成人するまで、ご当主様と契約し専属として配置される以上の事はできません」
「?でも侍女さんは契約してるじゃん」
「は…?」
アンジーとマリアベルは確かに個人として契約しているが、それは契約書ではなく魔道具による魔力契約だ。
フィーガス家からランティス家へ移り住むマリアベルを支える為、フィーガスとの書面上の雇用契約を解除しそれぞれ個で契約を交わしたが目印となるようなものは何一つとしてつけていない。
「アンタ達の匂いじゃない、別の匂いがついてる。
お嬢さんにちょっと似てるのが混ざってるけどベースは蝋の匂い。
蝋の匂いがする奴らは契約してるんだって五番目の姉ちゃんが言ってたけど、違うの?」
「…まさか、魔力契約を匂いとして感じるとでも?」
二人とも魔力がない、もしくはまだ発現していない為本来なら契約することはできなかったが、マリアベルが洗礼を受け魔力を発現するまでの繋ぎとしてグラウスに代理で魔力を流してもらい一応契約自体は成っている。
エリヤの言葉を信じるとするなら、彼には魔力を匂いで感知する能力があるということになる。
蝋の匂いはわからないがグラウスとマリアベルは血縁者…魔力が似ていてもおかしくはない。
「…もし、貴方の言う事が本当なら、私なんかじゃダメだと思う」
マリアベルはアンジーの背から呟く。
魔力を嗅ぎ分ける、そんな能力が実在するのかはわからなかったが少なくともマリアベルが読んだ魔術教本の初級には書かれていない。もしそれが稀少な能力だとすれば、専門の魔術機関や能力を活かせる職に就くべきだと考えたがエリヤは不満そうに眉を寄せた。
「ダメじゃないよ、お嬢さんがいいんだ」
エリヤの言葉も、視線も、あまりに真っ直ぐで、マリアベルは言葉を詰まらせる。
初対面でここまで気に入られるような事は何もしていない。魔力を感知できる能力に従ったとしてもマリアベルはまだ洗礼前で魔力は発現していない。
彼が言うところの咲きかけの蕾、そんな淡い魔力がそんな威力を持っているとでもいうのか。
「…で、でも、私はまだ自分で魔力契約できないし、お給料も払えないの。
お世話になる家に紹介して、雇ってもらうようお願いするから…エリヤも一度ちゃんと考えて」
「考えて、お嬢さんの方がいいって思ったら?」
「それは………私の方でも、よく考えるわ」
両親となるアントニオやミランダは善人で、主家の当主であるレオポルドもマリアベルにとって悪い人ではない。
きっと彼が言う所のひどい臭いはしない筈だ。
とりあえずでも一旦自分以外と関われば相応しい人の元に行くことを選んでくれるだろう…そう思っての提案をエリヤは吐いたため息の代わりに呑みこんだ。
「いいよ、それがダメなら連れてってもらえなさそうだし…いい貴族は用心深いって皆言ってたからね」
根負けした、とでもいうような表情を浮かべたエリヤはマリアベルが未だ両手に持ったままのジュースの瓶を取り上げると目線の高さまで掲げ、小気味いい音をたてて瓶同士を軽く打ち鳴らした。
そうして再びマリアベルの手元に戻ってきた瓶は最初に渡された時のように冷えている。
「冷たっ…え?なんで…!?」
「だってジュースは冷たい方が美味しいでしょ。
さぁて、ちょっと片付けてくるからそれでも飲んで待っててよ」
馬車には間に合うようにするから、と言いながらエリヤは台の上の機械を持ち上げ、森の中へと走っていった。
まだ停留所に馬車は来ておらず、道の先にも姿は見えない。
「……アンジー、座ろう」
「そうですね……待つより他はなさそうです」
きっと今までもジュースを買った客が腰かけていたのだろう、人が腰かけるに丁度いい高さのつるりとした岩にアンジーはサッとハンカチを敷いた。
礼を言って二人並んで腰かけ、ジュースに口をつけるとそれは外気との温度差を差し引いても間違いなく冷たいと感じるものだった。
魔道具を使わずに魔術を使うのを目の当たりにしたマリアベルは甘酸っぱく、少しとろりとしたその果汁を飲みながらこれまで知る事がなかった世界の広さについて思いを馳せる。
「お祖父様達と別れて寂しくて泣いちゃうと思ってたけど、なんだか驚く事が多すぎて…わからなくなってちゃった」
「…心中お察しします。私も理解が追い付かなず判断できない部分が……やはり断固として断ったほうがよかったでしょうか?」
「うーん…お父様には怒られてしまうかもしれないけど、嫌な感じもしないし大丈夫だと思うの。
仲良くなれるかはわからないけど」
掴めない部分、理解できない部分は多いが年も近いせいかマリアベルはエリヤに対し悪い印象はなく、どちらかといえば前向きに友好関係を築きたいとも思う。
「………お友達になれたら、嬉しいわ」