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13話



「………」


静まりかえった、誰もいない屋敷の中。白く清潔な寝間着を着た少女が歩く。

数度の改築を施した屋敷の床は成長途中の少女の重みで軋むことはなく、足音も立てないままどこか覚束ない足取りで進んでいく。


「……お母様」


やがてたどり着いた扉の前で、少女はその木目に沿わせるそうに手を重ね、縋るように母を呼んだ。

内側からの返事はないが、寝ている事も視野に入れ事前に許可を取っていた少女は金属製のドアノブを握ると音を立てないよう気を付けながらゆっくりと捻る。

開いた隙間から逃げるように夜風が流れ少女の金色の髪を揺らしていく。


一歩、二歩、


母が眠る寝台へと歩を進める少女の顔は緊張で強張っていたが、迷いはなかった。

やがて近づく気配を感じてか、寝台の母はか細く唸りながら薄桃色の瞳を開く。


夢の世界から戻ったばかりで微睡が覚めないままの目が徐々に焦点を合わせ、少女の青い瞳を捉えた。


「まぁ、」


ふんわりと、その頬を縁取る淡い金の髪のように柔らかな笑顔を母は少女だけに向けた。


「どうしたの?怖い夢でも見たのかしら…?」


まだ自身も眠いのだろうに、寝室を訪ねた我が子を安心させようとそっと伸ばされた手に少女は小さなその手を重ねる。


「…一緒に、寝てもいいですか?」

「勿論よ…さ、お入りなさい…」


導かれるまま潜り込んだベッドの中は当然母の体温によって温められており、夜の闇で冷えた少女の体を暖める。

細く、けれどふっくらとした両の腕が少女の体を包み、優しくその背をあやす。


「…お母様」

「なぁに…?」

「…いいえ、なんでもないです」

「ふふ…変な子ねぇ…」


母は眠りにつくのが早いのだと少女は事前に聞いていた。

その言葉通り、未だ眠気の訪れない少女と違い薄桃の瞳は今にも瞼の緞帳が降りようとしていて、少女はその眠るまでの一瞬でもと母の寝間着をやんわりと掴み甘えるように縋る。


「愛しているわ…私の可愛い、お姫様」



そう言って少女の頬に口付けた母は、それきり閉じた瞼を開く事なくただ穏やかな寝息をたてるだけになってしまった。

少女は縋る手をそのままに柔らかな母の胸に耳を当て、規則正しく動く鼓動に目を閉じる。


かつて胎内にいた頃は、常にあっただろうその音を

その腕の優しさを、温かさを、滲む涙を拭う暇すら惜しいと、ひたすらに母の腕の中でその記憶を焼き付ける。







どのくらいそうしていただろうか。

少女は最後に深く息を吸い、ゆっくりと時間をかけて吐き出した後細心の注意を払って母の腕を抜け出した。

途中母は動きに目を開きかけたが、微睡んだまま数秒の内にまた夢へと戻っていく。


「どうか、お元気で」


白いながらも仄かに色づいた頬に口付け少女は音もなく寝台から離れていく。

再び開いた扉から、今度はまるで少女を追い立てるように風が吹き茶色の髪を揺らした。

ふと、視線を感じ振り返ったが母は変わらず寝台の上で眠っている。


もう二度とここに来ることはない。


触れる事も見る事も、全て一切今この瞬間が最初で最後。


娘として初めて足を踏み入れた、母の部屋を見まわす翡翠の瞳から涙が枯れる事はない。


「………マリアベル」

「ありがとうございました、侯爵様。

 これで…もう大丈夫ですから」


少女…マリアベルは、涙を流したまま微笑むとアベルの手を取ることなく来た時と同様静かに足音もなく夜の屋敷を、出口に向かい進んでいく。

出口で待つアンジーから上着を掛けられ、そのまま二人で屋敷を出た。

屋敷の外では祖父母の乗る馬車が待機しており、それに乗ればもう引き返す事はできない。





今夜、マリアベルはテスパラルへと旅立つ。

既にランティス家では書類が整えられ、到着次第役所に届け出て正式に養子として迎え入れられる手筈だ。

テスパラルで馴染む為、明日以降は名前もマリアベルではなくテスパラル風にマリアとなる。


フィーガスの娘としていられる最後の夜、マリアベルは一生の願いだと母を乞うた。

魔法薬で髪と目を染めエリザベスの振りをして、偽りでもそのぬくもりを生涯の思い出にしたいと願い、それは叶った。

本来は成人用の魔法薬の為少量しか使えずすぐ効果が切れてしまったが、夢現のリナリアを騙すには事足りたようだ。


新たな母を認められないわけではない。

手紙を通して人柄を知り、また言葉や贈り物で惜しみない愛情を与えるミランダにマリアベルも少しずつ心を開いているが、それでも心のどこかで生母を、リナリアを求める幼い自分が残っていた。

微笑みを向けられたい、頭を撫でられたい、抱き締められたい……母が夢見た、母のお姫様になりたい。

積もり積もった蟠りを昇華する為に、振り返らない為に、マリアベルは母と最初で最後の時間を過ごし、そしてその夢のような時間を自らの意思で終わらせた。


「お待たせしました、お祖父様、お祖母様」


アンジーの手を借り馬車へ乗り込んだマリアベルをフェミアが手触りのいいショールで包む。


「頑張ったわね、マリアベル」

「…はい」


二人に優しく抱きしめられる後ろで、馬車の扉は閉められた。

ゆっくりと動き出す蹄の音と車輪の回る音を聞きながらマリアベルは遠ざかる生家を見つめ続けていた。


夜を二度越える頃には港に着き、快速船で更に二晩かけて海を渡り港に着いたらもうそこはテスパラルで、それからまた三度夜を越えればテスパラルの王都へ、新しい家族の元へと到着するだろう。

長い旅路の末マリアベル・フィーガスは正しくこの国でいない存在となり、そして新たにマリア・ランティスとして生を、居場所を得ることとなる。


「お祖母様、このショール私にくださいな」

「勿論いいけれど…新しいものの方がいいのではなくて?」

「いいえ、私、きっとこれをダメにしてしまうから…っ…」


みるみるマリアベルの目から大粒の涙が零れ柔らかなショールにしみていく。

涙だけではない、溢れる水分でぐしゃぐしゃになっていく顔をマリアベルはショールで覆った。


「ごめ、なさ…っ…きょ、だけ…今日だけ、ですっ…から…っ…!」

「…大丈夫よ。えぇ、今日だけはいくらでも泣きなさい。

 たくさん泣いた方がきっと次の笑顔が輝くわ…」


きっともうこの旅路の中で片手ほどもないだろう、マリアベルを抱く機会を噛みしめながらフェミアはその背を撫でる。

瞬きの内に手離す事となった孫娘へ、惜しむことなく愛情を注ごう…そんな気持ちで柔らかな髪へ口づけを落とす…その様子を見ていたグラウスもまた、せめてもの慰めにと子守唄を口ずさみ始めた。



少しだけ音の外れた子守唄と微かな泣き声を乗せて馬車は夜の道を走っていった。



「……ふわぁ、…いい朝ねぇ…。あら?」

 

「エリザベスが来たと思ったけど、夢だったのかしら…」


「どうしてかしら、」


「………なんだかとても、寂しいわ」


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