11話
マリアベルがテスパラル行きを決めた一週間と少し後、伯母イヴリンが夫と共に領邸へとやってきた。
テスパラルでは一般的と言われる褐色肌に炎のようなうねりを帯びた赤毛。彫りが深く顔の陰影がハッキリした顔立ちの男性と、彼に寄り添うイブリンにマリアベルはやや緊張しながらもカーテシーをとる。
初めて対面した伯母はグラウスやアベルと同じ眩い金の髪に青い目という色あいだが顔立ちはフェミアに似ており、楚々とした魅力を持つ淑やかな女性だった。
外見の印象は全く異なる夫婦ではあったが二人の纏う雰囲気は暖かで、一目見ただけでも円満な関係を感じさせる。
「初めまして、イヴリン伯母様。
マリアベルと申します、今までご挨拶できず申し訳…」
「まぁ……まぁ、まぁまぁ!なんて上手な挨拶なのかしら!
ねぇ貴方、今のを聞いて?なんて愛らしい声なのかしら?まるで小鳥が歌うよう!」
淑女らしい微笑から一転、無邪気な笑顔を輝かせながら少女のようにはしゃぐ姿にマリアベルは一瞬呆気にとられたが祖父母や周囲の使用人の苦笑いにイヴリンの子供好きという話が本当なのだと悟った。
力の限り抱き締めんと伸ばされた腕をそっと止めたのは傍らに立つ彼女の夫だった。
「イヴリン、私のリリィ、落ち着きなさい。彼女が可愛いのは確かだけれどね。
初めましてマリアベル嬢、私は君の伯母の夫をさせてもらっているレオポルド・アラニスという。これから長い付き合いになるだろうし、何かあれば親戚のおじさんとして気軽に頼ってほしい」
「初めまして、アラニス卿。
この度はお忙しい中、私の為にお越し下さりありがとうございます」
イヴリンの夫…レオポルド・アラニスはテスパラルにおいてフィーガスと同じ侯爵位をもつ貴族家の当主であり、貿易により財を成した指折りの富豪だとマリアベルは事前にグラウスから説明を受けていた。
血縁者以外の貴族と相対した経験がないマリアベルは内心でひどく緊張していたが、領邸にきてから学び始めた礼儀作法の教本のおかげかぎこちないながらも笑顔が崩れることはない。
そんなマリアベルの様子にレオポルドは満足したようで何度か頷いた後、隣ではしゃぐイヴリンに声を掛ける。
「リリィ、私はお義父上と細かな話をするから、君は義母上と一緒に姪御と親交を深めてくるといい」
「えぇ、えぇ!マリアベル、今日は貴方の為にテスパラルのお洋服をたくさん持ってきたのよ!
それに向こうの美味しいお菓子や珍しい果物もあるから、何が好きか伯母さんに教えてちょうだいな」
「は、はい、伯母様」
グラウスとレオポルドを残し、フェミアとイヴリンに連れられ自室に向かったマリアベルはその後ろからやってくる何台もの台車のゴロゴロという音に未だ使い切れていないイヴリンからの贈り物を思い浮かべた。
養父母となる家についてまだ何も知らないマリアベルはこれだけの荷物が収まる部屋を与えてもらえるのだろうか、とほんの少し心配になる。
だが、それが大いなる杞憂だと知るのはまだ先の事だった。
イヴリンはレオポルドと共に数日滞在し、様々な事…持ち込んだ教材やテスパラルでの流行、そしてマリアベルを引き取る養父母について教えた後、次回の来訪を約束して帰路についた。
「…ねぇ、アンジー」
「いかがなさいましたか、お嬢様」
「新しい家族に会う時って、どんな顔をすればいいのかしら?」
不安や迷いが詰まった声音にアンジーはベッドメイクの手を止め、ソファに座るマリアベルの前に跪くとその手を優しく握り安心させるよう微笑んだ。
次にイヴリンが来る時は、養父母となる二人を連れてくるのだという。
調整が必要な為日程は決まっていないが自分がこの場所を離れ遠くにいくのだという実感が心の中で膨らんでぎちぎちと隙間ないほどに埋め、マリアベルは苦しさに眉を顰める。
「お嬢様らしく、自然なお顔をなさればよろしいかと。
ご家族となればこれから長い時間を共にされるのですから」
「…でも、全然知らない人なのでしょう?それに国も違うし…」
「貴族であれば養子を迎え入れるのも珍しい事ではありませんし、リャンバスとテスパラルは友好関係にあります。
イヴリン様のように国を跨いで嫁がれる方も多いので、あまり気に病む必要はございません」
「…貴族…」
レオポルド曰く、養父は彼の従兄弟にあたる子爵家の現当主で養母は侯爵家の出身だそうだ。
子爵家に侯爵家の令嬢が嫁いだというと格差を感じるが、それは養母の姉が皇太子の正妃として嫁いだ為に貴族間のパワーバランスを考慮した結果、高位貴族との縁組を避け学生時代から交流していた養父の元へ嫁いできたというものらしい。
夫婦仲は極めて良好だが子宝には恵まれず、いずれはどこか別の家から養子を迎えなければいけないと考えている矢先に舞い込んだのがマリアベルだった。
血の繋がりがない…まして異国の娘を、養父母は本当に受け入れてくれるのだろうか?
レオポルドもイヴリンもそんな事をする人間には見えなかったが裏に金銭や他の援助と引き換えるような条件があるのではないか?
己に過ちがないとはいえ公にできない過去を持つ自分を皇太子妃…いずれ皇后となる女性の身内に加えて問題はないのか?
浮かぶ疑問は尽きない。
「本当に、うまくいくのかな」
マリアベルは様々な嘘を背負ってテスパラルに入る。
移民が多いと言っても身分社会が存在する以上、突然湧いて出た子供が何の理由もなく貴族の後継者になるなどあり得ない。軋轢を避ける為に嘘を重ねるのは仕方がないとマリアベルも一応は理解している。
マリアベルに与えられた設定は先々代のアラニス侯爵の弟である前子爵が愛人だった侍女に産ませた子の娘であり、両親が病死し天涯孤独となった所を養子を探していた子爵に保護された、というものだ。
前子爵は今も健在だが多くの愛人を持っていたのは本当で、今のところ隠し子の話はないが隠し子が見つかったとしてもさもありなん…という人物らしい。
つまりマリアベルは今後平民の血が混ざった前子爵の孫娘であり、現子爵からすれば養女であり姪となる。
嘘をつかずともただの孤児を引き取ったと言えばいいのではないか、マリアベルはレオポルドに訴えたが苦笑いで首を横に振られてしまっている。
『気持ちはわかるけれど、君はただの孤児にはなれないんだ…リャンバスでもテスパラルでも貴族は総じて高い魔力を持って産まれてくるからね。
こちらと同じく洗礼式の時に魔力の測定もするんだが、貴族並みの魔力を持つ孤児なんて何処かの家の庶子ですと宣伝するようなものさ。
だったら最初からでっちあげでも貴族の血筋だと言ってやれば余計な詮索は抑えられる』
マリアベルの身に流れる血は全て貴族のものだ。
侯爵家で生まれたアベルは勿論、リナリアも歴史ある子爵家の出身だと聞いている。
そして子の魔力は父母問わず高い方が影響を齎しやすい…マリアベルが持っているだろう魔力はよほどの事がない限りアベル譲りの高い魔力を受け継いでいる筈だ。
前子爵はレオポルドの伯父でありアラニス家の直系である為非常に高い魔力を持っており、その孫娘であれば高位貴族並の魔力を持っていたとしてもおかしくない。
だからこその設定だが、それを抱えたままこれからの人生を送らなければならないマリアベルにとっては重石以外の何物でもなかった。
「…アンジー、私、怖いの。
何かひとつ間違えたら、私はもうどこにもいられないんじゃないかって、」
ぎゅっと、マリアベルは幼子が母にそうするようにアンジーにしがみつく。
遠くない未来への不安に怯え震える体をアンジーは優しく擦りながら大丈夫だと囁いた。
「大丈夫です、お嬢様ならきっと…ご自分の居場所を見つけられます」
「でも…」
「もし本当にお嬢様が間違えて、どこにも居られなくなった時は私が居場所をご用意します。
どこかの街に小さな部屋を借りて、二人で姉妹だとでも言って暮らしましょう。
働き口はイヴリン様が紹介してくださるでしょうから怖い事など何もありません」
まだマリアベルに言う事はできないが、グラウスとフェミアは既に財産の一部をマリアベルの為テスパラルの銀行に移している。
あくまで私財の一部なので貴族令嬢の生活を生涯保障するほどではないが、平民としてなら貧しい思いをせず慎ましく暮らしていけるだろう。
成人するまでは非常時以外触らずその存在も伏せ、成人したら伝えるよう厳命されているものだ。
「でも、それだとアンジーが」
「私はお嬢様に仕えるメイドです。魔法契約を結び、報酬もいただいておりますので何があろうとお傍を離れる事はありません」
マリアベルの移住に伴い、アンジーは侯爵家ではなくマリアベルと直接、魔道具を用いた強力な契約を結んだ。
イヴリンがいるとはいえほぼ身ひとつで異国へ行く孫娘の為グラウスとフェミアが使用人の中から一人だけを選び、そしてアンジーもそれを受け入れたのだ。
「どのような道を歩まれようと、私はお嬢様と共に参ります。
大旦那様、大奥様の願いを叶える為…お嬢様が幸せになれるよう精一杯お支えいたします」
「…ごめんね、ありがとう、アンジー」
アンジーはかつてフィーガス領でもあまり豊かではない集落に生まれ、母と共に父親からの理不尽な扱いや暴力に耐える暮らしを送っていた。そしてそんな生活から彼女を、母と共に使用人として雇う事で救ってくれたのがグラウスとフェミアだった。
母は三年前に病で神の国へ旅立ったが、暴力を受ける事無く柔らかなベッドの上で旅立つ母を見送れた…その恩義からアンジーは二人に生涯の忠誠を誓い、また二人が守ると決めたマリアベルにも同様の忠誠を誓った。
勿論、マリアベルが求める居場所は精神面での拠り所であり、金銭で手に入るようなものではない。
自身がそれになれずとも、傍らに寄り添い支え…そしていつかマリアベルが本当に安心できる場所を得られたら、きっとグラウス達への恩返しとなり、親孝行にもなる。
アンジーは自分が生きる道筋をそう定めた。
主が替わろうと、遠く離れた地に行こうと、アンジーの心は迷うことなくその道を進み続けると決めている。
落ち着けるようトン、トンと一定のリズムで優しく背を叩くうちに、マリアベルの身体から力が抜けていく。
考えすぎて泣きすぎて疲れてしまったのか…そっと抱き上げた体はまだ随分と細く軽い。
「…良い夢を」
幼い日、父からの暴力に泣く自分に母がそうしてくれたようにアンジーはマリアベルの額に口付け甘く優しい夢を願った。