10.5話
ライラという女は善人だった。
上はおらず下に三人弟妹がいる長女で、洗礼前から弟妹の世話を進んで行い忙しい父母を助けるような子供だった。
伯爵位を持つ貴族家の執事と侍女だった祖父母が出会い、二人の間に生まれたライラの母も同じように屋敷で働く内に屋敷のコックと恋をして結婚した。
その伯爵家も、リャンバス国の東に領土を持ち、領民や使用人に辛くあたる事もなければ給与も計算されたもので未払いもないごく一般的で真っ当な貴族家だ。
祖父母も父母も皆仕事の覚えがよく気配りもできる優秀な使用人達だった為、ライラも良い侍女になる事を期待され侍女見習いとして屋敷に入ったのは十歳の頃の事。
笑顔を絶やさず、しかし熱心に様々な事を覚えメキメキと頭角を現していくライラを伯爵はいたく気に入り、その成人を待って近々生まれてくる…当時懐妊が発覚した夫人の子供、つまりは後継者の専属侍女とする事を約束していた。
だが、その約束が果たされることはなかった。
夫人のお腹が大きくなり始め、ライラの成人が間もなくという頃に夫人は重い風邪を患った。
医師や献身的な使用人のおかげで夫人の命が危ぶまれる事はなかったが、それ以降お腹の子は育たなくなり最終的には死産の診断が下されてしまったのだ。
夫人の悲しみは深く、子供の為用意されていた様々な物を見ると涙を零し塞ぎこんでしまうため、伯爵は夫人の為にそれらを全て見えない場所に片付けることにした。
小さな靴下や帽子、家具、玩具…そして、専属侍女となる予定だったライラ。
勿論専属でなくとも侍女としてそのまま雇い入れる道もあったが、丁度その頃学生時代から親交のあるアベル・フィーガスから使用人を探しているという手紙が届いた為ライラは伯爵家からフィーガスの家へと職を移した。
祖父母の代から誠心誠意仕える、信頼のおける家系の娘だと紹介文を持って。
フィーガス家でも変わらず良く学び、良く仕えるライラは屋敷の者皆に気に入られた。
だが、かつて働いて伯爵家を含め誰一人として彼女の本質に気付く者はいなかった。
「まぁ、大変そう!私がお手伝いします!」
ライラは人を助ける為の苦労を厭わなかった。
能力が低い為仕事が間に合わない者、厄介ごとを抱えた者、何かしらの不自由を負った者。
率先してそういった人間を助けるライラを人は素晴らしい人格者と感じるだろう。しかし、ライラのそれは見返りを求めてのことだった。
彼女が求めるのは金銭や物品などではなく、精神的な充足感…自己満足に他ならない。
幼い頃気まぐれにチョコレートがついた弟の頬を母の真似をして拭った時、父母はライラを笑顔でよい姉と褒めた。
この時の体験は彼女に世話をすると褒められるという図式を、そしてチョコまみれのまま笑っていた弟に対しこんなこともできない可哀想な者という優越感を植え付けた。
以降人に頼られ、人を助け、感謝される度にライラは言いようのない高揚感を覚えるようになる。
それは人の不幸を喜ぶ一部の人間の精神性と酷似していたが彼女はそれを自覚しておらず、人の助けとなり善い行いをしている、ごく純粋な喜びだと認識していた。
褒められたいから、自分が満足したいから助ける。そんな子供のような意識を根底に宿したままライラはフィーガス家でも善人で在り続けた。
もし、ライラが一介の侍女のままであれば…あるいはあの特殊な環境でなければ、ライラは生涯善人だっただろう。
主の言葉や微笑を糧に誠心誠意尽くし、良い主従関係を築けた筈だ。
しかし、ライラが乳母としてつけられたマリアベルはあまりに特別すぎた。
侯爵家の正当な血筋を持った後継者でありながら、母に捨てられ屋敷で暮らす事すらできない幼いマリアベル。
彼女の境遇はライラの幼稚な善性を激しく刺激し、さながら食べても食べてもなくならない極上の果実のようだった。
どれだけ憐れんでも足りない、可哀想な子供。
自分が世話をしないと生きていけない弱い子供。
そして巻き込んだ負い目からライラへ感謝の言葉を惜しまない父親…そのすべてがライラにとって甘美な蜜に他ならなかった。
特別な事をせずとも高揚感を味わい続けられるあの小さな離れは少しずつライラを鈍感にしていく。
濃い味を食べ続けた舌がその味に慣れ、更なる濃さを求めるように。マリアベルが可哀想になればなるほどライラの欲求は満たされた。
自覚はなかった。
しかし、ライラは自分の為にマリアベルの境遇を憐れみ続けた。
早くから自分の感情を抑える術を身につけた彼女の代わりのように怒り、嘆き、哀しみに暮れれば、マリアベルは辛くない…大丈夫だと微笑む。
健気なその姿はより一層ライラを貪欲にさせ、気が付けば善性は消え去り、ただひたすらに人の不幸を味わいたがる性質だけが残っていた。
「まぁ、ライラじゃない。貴方一体どこにいたの?
ずっと姿を見なかったから心配していたのよ」
マリアベルとの決別後、ライラはアベル付きの侍女として本邸に戻った。
リナリアは久々の対面を喜び微笑んだが、反対にライラはそんな彼女の姿にじんわりと涙を滲ませた。
「ライラ?どうして泣いているの?」
「いえ、なんでも…なんでもございません…」
繰り返す言葉は何かあると明言しているようで、アベルは顔色を変える。
「…ライラ、書斎で整理を頼む」
「あなた?急にそんなこと…ライラは泣いているのに、」
「いいえ奥様、私なら大丈夫です。それよりも…いいえ、なんでもございません…」
「ライラっ!」
普段声を荒げる事のないアベルの一喝に部屋の空気が張り詰める。
事の次第が見えないリナリアも只事ではない様子に訝し気にアベルとライラを見つめ、小さな声で何事かと問いかけた。
真実を口にできないアベルは一度深く呼吸し数秒考えた後にリナリアへと向き直った。
「…すまない、詳しくは後で話すけれど彼女は少し病気でね、復帰はまだ早かったらしい。
ライラ。今日はもういいから自室に戻って休みなさい」
「そんな旦那様、」
「部屋に戻るんだ、ライラ」
二度、語気を強め言われたその言葉にライラはとぼとぼと二人の前から去っていった。
その何事かあったと見てわかるような、弱弱しく曲がった背を見送りながらアベルは自身の間違いを実感する。
「奥様…奥様、お可哀想に…」
マリアベルという自分を満たしてくれる存在を失った彼女は、代替にリナリアを選んだ。
これまでライラの中ではマリアベルを忘れた張本人…加害者だったリナリアが、今や子に捨てられながらも真実を知らされない哀れな母親へと変化している。
リナリアの知らない何かがある事を匂わせる事で優越感に浸り、真実が露呈するスリルをも楽しむ。
アベルからは全て隠し通すよう言いつけられていたが、離れでの十年間により欲求はすっかり箍が外れてしまっていた。
真実を知るライラを放逐することはできない。
しかし、本邸の中にいればいつか真実を誰かに漏らすだろうことはあの様子を目の当たりにした今、アベルにも容易に予想がついた。
翌日、ライラに離れでの療養が言い渡される。
リナリアや使用人に対し、表向きは病で休職し復帰したがまだ到底働ける状態ではなかったとされ、療養の為離れで暮らす事が命じられた。
マリアベルが暮らしていた頃から設備も整い、食料など必要なものは離れに直接届く手筈となっていた為暮らしていくに不自由はない。
しかしかつてマリアベルと二人で暮らしていた空間を、今度は一人で誰の世話もせずただ暮らしていく事はライラにとってひどく苦痛を感じるものだった。
男性使用人達によって離れに運ばれる間もライラは働ける、働かせてくれと泣き叫んでいたがアベルは指示を変えることなく、彼女を離れへと押し込んだ。
アベルが正しい選択をしていれば、ライラもまた真っ当な乳母となっていただろう。
自身の誤った判断が、弱さが実の娘や一人の侍女の人生を狂わせてしまった。
ライラが入れられる前、人知れず回収したマリアベルの僅かな私物。
その中から、かつて自分が贈った小さな少女人形を胸に抱き、アベルはすまないと何度も繰り返した。




