10話
「――ご安心ください、侯爵様。私はテスパラルに参ります」
音もなく開かれていた扉から、マリアベルは現れた。
「マリアベルッ……なの、か?」
侍女を伴い、ゆったりとした歩きで入室したマリアベルを、アベルは自身の娘であると断言する事が出来なかった。
離れの家で暮らしていた頃もみすぼらしい訳ではなかったが、あくまでも乳母…淑女の身支度ではなく子の世話に特化したライラが一人で世話をしていた為、成長していくマリアベルに追い付かないまま、いつまでも子供らしさが前面に出た姿だった。
だがこの領邸においてアンジーをはじめ数人の侍女によって磨かれたマリアベルは、さながら蛹から羽化した蝶のように変貌を遂げている。
毎日櫛梳り香油で潤いを与えられた茶色の髪は天使の輪が艶と輝き、垂れ目がちな瞼に収まる若葉の瞳は優しい印象を与えつつも輝きながら揺らぐ事なくまっすぐに前を見つめている。
既製品ではなくたった一人に合うよう仕立てられた上品な深紅のワンピースもまた、幼い少女から淑女の卵へと育ちつつある年頃のマリアベルにピタリと似合っていた。
髪型や服を真似、エリザベスと双子のように飾られていた外見は今やまるで別人に見え、『容姿のせいで母に捨てられた哀れな娘』である筈のマリアベルの変化にアベルは愕然とする。
「マリアベル、聞いていたのか」
「盗み聞きなどはしたない真似をしてごめんなさい、お祖父様。
ですが、これは私の問題でもあります。どうか同席をお許しください」
「…勿論いいとも。だが辛くなったらすぐに出なさい」
「はい」
丁寧な言葉遣いはあの離れで暮らしていた時期と変わりないが、グラウスと交わす萎縮や緊張がない柔らかな声は確かな信頼が透けて見える。自分はあの子とこんな風に話したことがあっただろうか、アベルは心臓を握りつぶされているかのように不安に駆られる。
マリアベルはグラウスとフェミアの間に用意された椅子に座り、正面から父アベルと向き合った。
久しぶりに会う娘に対し『会いたかった!』と喜びに破顔され抱き合う光景を思い描いていたアベルの額に冷や汗が滲む。
「ま…マリアベル、会えてよかった…急に知らない場所に連れてこられて、辛かっただろう?」
「お久しぶりです、侯爵様。
お祖父様もお祖母様も大変よくしてくださるので、辛いことなど何もありません」
「そんな他人のように呼ばないでくれ、マリアベル。
お父様と王都の屋敷へ帰ろう?ほら、ライラも一緒に迎えに来たんだ」
後ろに控えていたライラはマリアベルの登場からずっと前のめりにその姿を見つめていて、その目には相変わらず涙が滲んでいる。
そんな二人を見たマリアベルは、口元に柔らかな笑みを浮かべる。
その笑みを見て、やはりこの子は自分の娘なのだと表情を緩ませるアベルに、マリアベルは微笑を崩さないまま言葉を紡ぐ。
「侯爵様、私はもうあの離れで暮らす事はできません」
「は…?」
「先程申しました通り、私は隣国テスパラルへ移住いたします」
「決めたのか、マリアベルよ」
「はい、お祖父様」
「な、何を言ってるんだ!テスパラルなんて行く必要はない…一緒に帰って家族で暮らすんだ!」
「いいえ。いいえ、侯爵様」
隣国への養子入りを提案されてからマリアベルはずっと悩んでいた。
祖父母や領邸から離れる事、言葉をはじめ文化の違う国で暮らす事への不安は勿論あったが、その内側…心の奥にあったのは両親、特に母親への思慕だった。
自分を認識しないリナリアに対し諦める一方で、それでもずっとあの薄桃の目が自分を見、白く美しい手が優しく撫でてくれる未来を願っていた。
遠巻きにエリザベスが抱き締められるのを見る度に、自分があの場所にいられたらと思わずにはいられなかった。
もしかしたらいつか自分を思い出してくれるかもしれない。
諦めつつも心のどこかでまだ希望を捨てる事を出来ず決断できなかったマリアベルは、自分と向き合った結果いつか来るこの日に一つだけ心に決めていた。
「侯爵様が夫人を…お母様を連れて来てくれたのなら、たとえ私を見てくれなくても、形だけでも両親そろって迎えに来てくれたのなら、一緒にかえろうと決めていました。
死ぬまで、あの小さなはなれで、いつか、を、ずっと、まつつもりで、」
震える声で話すマリアベルの、テーブルの下で固く握られた手をフェミアは優しく包む。
マリアベルは既に覚悟を決めていた。
迎えにくるだろう父の横に母の姿があった時は、祖父母の元で過ごした日を、束の間の自由や安らぎを忘れ、母の近くで生涯を過ごし…奇跡を待ち続ける覚悟を。
「でも、そうじゃなかった」
そして同時に、父だけが迎えにきた時は…母が来なかった時は母を忘れ、旅立つ覚悟を。
「だから、ごめんなさい」
マリアベルは座ったまま、頭を下げた。
アベルの目に、綺麗に整えられたマリアベルの髪の分け目が見える。
小さな頭は震えていて、時々しゃくりあげながらも上がる様子はない。
娘がどんな顔をして泣くのか、思い出せないのはどうしてなのか…アベルはぐるりと思考を巡らせ、マリアベルの泣き顔を見たことがない事実に気が付いた。
感情豊かなエリザベスの顔は笑顔だろうと泣き顔だろうと怒り顔だろうと思い出せるのに、マリアベルはどれも思い出せない。
単に接する時間が短かったからではない。
アベルの中でマリアベルという娘は、本当の意味で娘ではなかったのだ。
母に拒絶された哀れな子、自分が愛情を注がなければ生きていけない可哀想な子としてしか見ていなかった。
マリアベルがどんな子供で、あの離れの中で何を考えているのかさえ知ろうとしなかった。
「……あぁ、そうか…」
いつか良くなるその日を、自分は家族に囲まれ待っていればよかった。
だが、マリアベルはどんな思いで過ごしていた?
その瞬間、アベルは初めて自分のした所業を理解した。
「旦那様、今からでも遅くありませんっ!奥様をこちらへお連れしましょう!」
「………その必要はない」
「旦那様っ!?」
アベルはゆっくりと席を立ち、未だ諦めないライラの腕を掴む。
そしてゆっくりとグラウス達に頭を下げた。
「父上、母上…今日は急に来てしまい、すみませんでした。
そして、至らぬ私のせいでご迷惑をおかけします」
「…子の不始末は親が責任をとるものだ」
「マリアベルの事は私達に任せ、貴方は貴方の家族を大事になさい。
それが貴方への罰であり、償いになるでしょう」
「…はい」
ダイニングから出て、玄関ホールへ向かうアベルと、それを見送る為に三人は続く。
そうして数分もしない内に着いたホールでアベルは改めてマリアベルを見た。
涙で潤む目や赤い頬は別としても、己の両親の間で姿勢よくしっかりと立つ姿はこれから貴族令嬢として立派に育っていくことを予感させる。
リナリアやエリザベスと良く似た、けれどどちらとも違うたった一人の娘。
(耳の形は私に似ていたのか)
父と子として向かい合える恐らく最後の瞬間、アベルはようやくマリアベルそのものを見たように感じ…やがてその眩しさに視線を逸らした。
「……テスパラルは、リャンバスよりずっと暑い国だ。
熱にやられないよう体に気を付けて過ごしなさい……お前が健やかであれるよう祈っているよ」
「ありがとうございます。……お父様もお元気で」
「っ…」
もうずっと呼ばれていなかった父としての呼称に、アベルは唇を噛む。
涙を流すのをそうして堪え、紳士らしからぬ不格好な笑顔を貼りつかせて馬車に乗り込んだ。ライラは未だにマリアベルを呼び泣きじゃくっていたがそれでも大人しく御者の横へと座った。
ゆっくりと動き出す馬車からも、並ぶ領邸の面々からも、手を振る事はしない。
ただじっと離れていく馬車を見送るだけ。
「………」
家族とはとても言えない歪な親と子の結び目はブツリと断ち切られ、そうしてやっと解く事が出来た。
母を求める気持ちは未だマリアベルの心の中に存在していたが、全てをやり直すのならばいっそ諦めがつく…そう自分に言い聞かせながらマリアベルは遠ざかる馬車を見送り、夜の闇に消えていくのを確認するとゆっくり祖父母を振り返った。
「…伯母様にお手紙を書かなければいけませんね」
決断したのなら、動き出さなければいけない。
国を跨ぎ何もかも違う土地に移り住む以上、文字以外にも学ぶべき事は山のようにある。
溢れそうになる寂しさに蓋をしながら新しい世界へ目を向けるマリアベルの肩をそっとフェミアが抱いた。
ただ自分を守るために心を殺すのではない、前へ進み強くなる為に寂しさを堪えるマリアベルを肯定するように。
「あの子の事だから、手紙を送ればすぐに話を進めてくれるでしょう。
向こうのご家族と顔合わせもあるし…忙しくなるわね」
「教本の手配も忘れずにな。そうだ、私達も洗礼式に立ち合えるよう予定を空けねばならん」
「来て下さるんですか?」
「勿論。可愛い孫娘の晴れ姿だ…名乗れはせんが、必ず立ち合って見守るとも」
洗礼を受ける頃にはマリアベルは既にフィーガスではなく別の貴族家の娘となっている。イヴリンという親族同士を繋ぐ存在がいたとしても、前侯爵が表立って突然他国の令嬢の洗礼式に立ち合えば何らかの関係が疑われるのは間違いなく、そうなれば国が異なるとはいえ隣り合っている以上マリアベルとフィーガスの血縁関係が露呈し醜聞は免れない。
身分を隠し居合わせた一般人として端の席に座るのが関の山だが、それでも二人の中に立ち会わない選択肢はなかった。
「ありがとうございます…お祖父様、お祖母様」
「今から楽しみねぇ…。
あちらの聖堂…洗礼式を行う場所はとても荘厳で綺麗なの、見とれて転んではダメよ?」
「はい、気を付けます」
「魔力の測定も楽しみだわ、フィーガスは魔力が高いからきっと皆驚くわよ…ふふ、マリアベルが聖女だったらどうしましょう」
「聖女?」
聞き慣れない言葉にマリアベルは首を傾げたがフェミアは微笑みながら寝物語に語りましょうか、と夜風から小さな体を守るようにその肩を柔らかく促す。
気安くなってもまだ少し慣れない、そして完全には慣れないままに離れる事となる屋敷へマリアベルは祖父母と共に戻っていった。