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「……知ってた」
おれはイシュトバーンの言葉を聞いて、固まった後にうつむいた。
思いっきりうつむいているものだから、爪先しか見えていない。
そういう姿勢になって、おれは声を絞り出した。
「……わかってたんだ」
何をか。答は簡単だ。
おれは、お嬢ちゃんの魂とか人格と言えるものが、この体の中に存在していないって事を、知っていた。
だって、どんなに体の中身を探ってみても、お嬢ちゃんの気配とか、魂と言えるものとかを、見つけ出せなかったんだから。
おれだって、ただ現状を維持してただけじゃないんだ。
探って探って、お嬢ちゃんのかけらを探していたし、何かのきっかけをつかめないか、とお嬢ちゃんの知識を頭の中で調べていた。
前にお嬢ちゃんの知識があるって言ったよな。あれは事実で、でも……どんどん遠くなっている。
それは、お嬢ちゃんという人格が、どこかに行ってしまって、体から遠くなっていくから起きる事なんだろう。
「知ってたんだ。お嬢ちゃんが、この体の中にいてくれないって事」
おれは声を絞り出した。
詳しくは覚えてないけど、人間の魂は、細かく言うと二つに分けられるという。
それは、人格とか心のあり方とか、感情とかを持った部分と、知識とか経験だけが詰み上がっている部分とに。
で、人間は死んだら、感情とか心のあり方があった部分が、どっか行っちゃうんだ。行き先は知らない。人間はあの世っていう。天国とかともいう。宗教によってそれは変わる。
だから、何かのおぞましい術でよみがえった死者は、よみがえる前の人格を保持しない。
どこかに行った心は、帰ってこないからだ。
そして、よみがえった死者は、総じて時間が過ぎていくと、持っていた知識もぼろぼろとこぼれていく。魂が半分にちぎれた状態だからだ。ちぎれた場所から、知識はなくなっていく。人にも戻れないもの。それが、よみがえった死者のなれの果てだ。言葉も解さなくなるし、ただ生きている物に反応して襲いかかる、ただの化け物になる。
おれは、そんな死者達を、雨ざらしになる前に、たくさん見ていた。
それゆえに、……それゆえに、知っていた。
この体の中をどんなに探しても、お嬢ちゃんはいやしないって。いたら、わかるって。
そして、おれという人格と言っていいのかわからない意思の塊と、お嬢ちゃんの知識とか経験とかの詰みあがった場所を、何かが無理矢理くっつけたから、お嬢ちゃんの持っていたそれらが、おれが使おうとしないところから、ゆっくりこぼれだしているって。
でも、おれという意思があるし、よみがえった死者とは違うものになっているって。
でも、おれは、お嬢ちゃんの体が、ちゃんと生命活動をしてくれているから、希望にすがりたかったのだ。
生命活動をしているんだ、死者じゃない。だから、だから。
お嬢ちゃんの心は、この体の中で、ちょっと眠ってるだけなんだって。
信じたかったんだ。だって、お嬢ちゃんに、生きなおしてほしかったから。
「知ってたのに何故、認めなかったんだ」
解せないって声でイシュトバーンが言う。
おれは力なく応えた。ただのおれの真実って奴を。
「……お嬢ちゃんが、好きだから。笑ってほしくて、幸せになってほしくて、笑顔の多い人生を歩いてほしくて、それを手伝いたかったから」
そうなる前に、お嬢ちゃんはおれを使って、人生を終わらせてしまった。
でも、おれという、主を殺せない誓約のかかっている刃物を使ったから、生死の境目で、即死を免れる術が発動した。
結果体は死ななくて、でも衝撃か何かで、お嬢ちゃんの心だけどこか、遠くに行ってしまって、空洞になった体の中に、おれが引きずり込まれた。
そうなんだって、わかってた。他に考えつかなかったし、……空洞な肉体が、自分を維持するために、周囲に漂っている魂と言われそうなものを、引きずり込むって事も、おれは包丁になる前に見た事があったから、知っていた。
「……幸せに、なってほしいと、思ってたのに」
もうかなわない。
包丁の夢はなくなった。望んでいた結末は二度とやってこない。
そう思ったら何だろう、急に目の奥が熱くなってきて、鼻の奥が痛くなってきて、目の前がぼやけて。
喉の内臓に近い場所が、ぎゅうっと絞られて、うまい言葉が出せなくなって。
ぼたぼたと、おれは目玉から水をこぼしていた。水じゃないって、おれはお嬢ちゃんを見守ってきたから知っている。これは、涙ってやつだ。
泣くなんて、この体に入ってから初めてで、だから、止め方って物が見当も付かない。
なのに、目玉から、ぼろぼろこぼれて、口からひっくひっくと変な音がでて、喋ろうにもうまく出来なくなって、はらわたのどこかから、痛みのような衝動が走って、おれは大声で叫んでいた。
「あああああああああ!!!!!」
認めたくなかった、信じたくなかった、勘違いであってほしかった。
お嬢ちゃんと言う、笑ってほしかったあの子が、この世のどこにもいやしないって事を、信じたくなかった。
きっと寝ているだけ、いつの日か目を覚ましてくれる。
そして、その時までに、お嬢ちゃんが幸せに暮らすための生活基盤を整えて、お嬢ちゃんの目覚めを待とう。
そう思っていたかったのに、実際に他の人から見通してもらって、しっかり再認識させられて。
助けを借りようなんて思うんじゃなかった。
見たくない事実を見ないようにして、お嬢ちゃんの目覚めを夢見たままでいればよかった。
そう思うくらいに、苦しくて苦しくて、どうにかなりそうだった。
人間ってこんな感情をいつでもどっかで、抱えてんの? それってつらくないか?
どこかでそんな事を思いつつも、感情の爆発は収まってくれなくて、自分じゃどうしたらいいのかわからない。
そんな時だ。
「愛情深いのも、欠点になるわけか」
そういって、イシュトバーンが、おれを片方しかない腕でかかえた。
生き物の匂いが濃くなる。イシュトバーンは、おれをかかえて、頭をなでる。
着ている、ぼろい服に、涙をしみこませていく。
「お前もつらいな」
「うっ、うっ、う……」
「でも、お前はその身体から出て行く道は選ばないんだろう」
「えらべるかよぉ……!! お嬢ちゃんを二度も自殺させられるか!!」
おれが、お嬢ちゃんの身体から解放されるために、また、お嬢ちゃんの身体を傷つけるなんて事は、とても出来ない。絶対に無理だ。
だから、おれは、お嬢ちゃんの身体で、お嬢ちゃんが生きるはずだった時間を、過ごして行かなくちゃいけない。
おれは、お嬢ちゃんを傷つけられやしないんだ。
そう思うと、よけいに、意味も分からないつらさが襲ってきて、とにかく近くにある物にすがりたくなってきて、おれはイシュトバーンの身体に腕を回して、力一杯指を立てた。
何かにしがみつかないと、どうにもならない、そんな感覚さえあったんだ。
「なら、生きるしかないだろう」
「ううう……」
「お前がこの体から手っ取り早く解放される道を、選べないと言うなら、この体で、生き続けるしか道はないんじゃないか?」
「っ……」
正論だった。大悪鬼に正論を唱えられている。おれはそれしか選べないっていう事を、はっきりと言われてしまっている。
そして……第三者から、客観的に正論を唱えられたおれの頭は、確かに、少し落ち着いたのだ。
おれはお嬢ちゃんにはなれない。成り代わったりは出来ない。
でも、おれは、お嬢ちゃんの体をまた死なせるなんて出来るはずもないから、お嬢ちゃんの体で、生きるほかはない。
「どうあっても、お前は、人生再出発の新天地を目指す以外に、ないだろう。違うか?」
大悪鬼が現状の最善である事を言う。
おれはしばらく、本当にしばらく、イシュトバーンの心臓のある場所の音を聞き続けて、徐々に感情の爆発が収まっていくのを確かめてから、ゆっくりと大悪鬼を見上げた。
大悪鬼という肩書きを持つのに、イシュトバーンは邪悪な顔をしないで、おれを穏やかに見下ろしている。
片目のえぐれた、凄惨な顔でも、落ち着く何かがそこにはあった。
「じゃあ、当初の目的通り、おれを、案内してくれイシュトバーン。人生再出発の新天地に」
喉から出た声はちょっとひっくり返っていて、格好の付かないもので、でもそれを聞いた大悪鬼は、おう、任せておけ、と自信を感じさせる声で言い切ったのだった。