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一瞬でしかなかった。目の前が白くなったと感じたらもう、おれは町の中ではない場所にいた。
見覚えなど全くない森の中に。いたのだ。
「……」
すごい、と素直に思った。だって、移動の魔法は手順が複雑で、そして何より目的地を指定して出発するまでに、かなりの膨大な魔力を注ぎ込み続けなければ、まともに反応する事もないとされていた魔法だ。
おれが知っている魔法の常識の後、お嬢ちゃんの時代になっても、それは変わっていないと、常識的なお嬢ちゃんの発言から、知っていたからだ。
あと、周りを見た結果。移動の魔法がもっと簡便化されていたら、荷物の輸送だの人々の行き交いだのに、頻繁に使われて、日常の物になっているだろう。
当たり前の物になっているべきなのに、そうじゃなかった。
そうではないのだから、移動の魔法に対する考え方は、あの当時と変わらないはずなのだ、たぶん。
そんな、人間にとってものすごく手間と時間と魔力を使う物を、ものの数秒で操ってしまった大悪鬼に対して、すげえ、と思うのはおかしな話じゃないだろう。
「すげー……」
「だろう、すごいだろう」
「あんた、本当に大悪鬼の名前に恥じないって奴だな」
「おい」
おれが賞賛しているのに、大悪鬼は最初は得意げだったのに、なんか知らないが言いたい事がありそうな口振りで、一言文句に似た響きの言葉を言った。
「……でも、ここ新天地? 周りが森なのに? おれ、木を切り倒すところから新たに始めるって思われた?」
「その細腕でそんな事からしたいと思うか。転移の術は、基本的に町や村から、一定の距離を置いた場所に着かなければならないと、されているんだぞ」
「目の前が町だとすごく便利じゃないか?」
「防衛上の問題だ。そんな真似をしたら魔力を探知されたその瞬間に、蜂の巣になるぞ」
「うへえ……そういう問題があるんだな」
思っても見なかった事実だから、たしかによく考えればそうかもな、と納得できた。
いきなり目の前に敵が現れたら、どんなに防御力の高い土地でも、陥落するの早そうだもんな。
魔族も人間も関係なしに、そういう警戒心は持つべきで、便利な術を使う側も、配慮も必要なんだろう。
「しっかし……お前はなんなんだ? 妙に人間くさくない」
おれがうんうんと頷いていた矢先に、イシュトバーンはいきなり、こっちの首筋に鼻をつっこんで、匂いを確認し始めた。
おれとしては問題じゃない、でも、お嬢ちゃんの体に対して臭いって言うのは認めないぞ!
「失礼な事言うな! 臭いとか! これでも人間だ!」
「お前自分が今どういう状態で、こう言う事になっているかの自覚は、あるか?」
しっかりと反論したのに、イシュトバーンは冷静だ。
「え?」
「雄に抱き抱えられて匂いをかぎ回られている、と言う状態が、人間の女にとってどんな感覚か、わかっていないだろう。そういったところも相まって、人間臭くないと言っているんだ」
「……」
おれは言われたから無言で、腕を突っぱね、イシュトバーンの腕から抜け出した。
持ち上げられている生活の長い、包丁人生、そして剣人生だったから、持ち上げられていると言う事に対しての抵抗が、なかったのが失敗だったに違いない。
「何か事情がありそうだな、お前は。こうして外に出る助けをしてくれたわけだ、話してみろ、悪いようにはしない」
「……信じていいのか」
「俺は恩人に対して非道な事はしないと決めている。そしてお前は、俺を解放したにも関わらず、隷属も服従も求めないときた。そういう奴には親切にするだろう」
「あんたにとっての感覚はそうなんだな。……もうこんな時間だ、火を興して野宿するから、どこか探そうぜ。……落ち着いたら、話す。たぶんこれ、おれだけじゃ解決できない世界だし」
長い話になるかもしれない。だからおれは、暗くなりだしたあたりを見回してから、そう言った。
「素直で結構な事だな」
「ほめてんの、けなしてんの」
「人の好意を素直に受け止められる事は、美徳だぞ」
「そうなのか」
いいつつ、おれ達は空き地に枝を集めて火をおこして、携帯飯をあぶりながら、おれの身の上話をする事になったのであった。
元々、剣だったというのは省略した。前振りとして長すぎるだろうし。問題の部分じゃない事だし。
だからとりあえず、わかりやすい言葉で、
「意志のある包丁だったんだけど、体の持ち主のお嬢ちゃんが自殺を試みた時に、何が起きたのか体を乗っ取ってしまって困っている」
そういう話をした。とても短くまとめた、事実である。嘘は一片たりとも存在していない。
「意志のある包丁というあたりで、普通とは言えないんだが、お前が持ち主の体に宿ってしまって、困っているという事は伝わってきた」
話した中身を聞いて、イシュトバーンは頷いた。
こんな荒唐無稽な話を信じてくれる事に、驚きを感じてしまう。あんた信じるの? こんな、当事者すらわけわかんねえって思ってる事情なのに。
「そう聞くと、お前が人間臭くないと言う理由が、明白だろう。中身が人間ではないものならば、人間の体をしていても、匂いが違っていて当然だ」
「そっか。……おれさあ、お嬢ちゃんの体、お嬢ちゃんにちゃんと返したいのよ。お嬢ちゃんはもっと幸せになる人生を送れたはずだし、人生って言うのを楽しめたはずだし、笑顔の多い生き方が出来たはずなんだから」
「お前は、持ち主のお嬢ちゃんに対して、ずいぶん愛情があるんだな」
「だって、お嬢ちゃん、泣いてばっかりだったから。あんたにはうまく伝えられないかもしれないけど、すごい、すごいいい子で、笑顔になってほしいって思える女の子で、幸せに生きてほしいって願いたくなる女の子で。泣いてほしくないって、すごく思ってたんだ」
「……包丁という物は、そんなにも持ち主に愛情を注ぐのか、一般的に」
「大事に使われてたら、物だって、持ち主の幸せを願うだろ、きっと。おれだけなのか、どうなのかは、知らないけどさ」
おれはそこで、それ以上何も言えなくなって、焼いている携帯飯を眺めた。
煙が上がってきた。まだ焼けてないだろうな。
そう思った矢先に、イシュトバーンが口を出してきた。
「……さっきから見ていて、どうしても言いたくなったんだが、言うぞ」
「何を?」
「お前の携帯飯は十分に焼けてるぞ、それ以上焼くとただの炭だ」
「え、そうなの?」
言われたおれは慌てて火から、携帯飯をおろした。
生焼けじゃないなら、かじっても大丈夫だろう。きっと。
そういうわけで、おれは火傷しそうになりながらも、それを半分に割った。 熱いって、痛い。
でも、片方、大きい方をイシュトバーンに差し出す。
「あんたも食えよ。足りないのは仕方ないんだけどさ。あんたも何か食った方が絶対にいいって」
「食事を魔族に分け与える意味を、お前は知っているか?」
「知るわけないだろ、人間の常識すら危うい自覚あるんだから」
「そうか」
イシュトバーンは少し考えた様子の後に、半分こした携帯飯を食いちぎった。
おれもふうふうしてから食いちぎる。……甘い。味がある。前まで食べていたものと比べて、明らかに柔らかくなっている。
そうか、おれは焼きすぎて炭にしていたのか……とここで知ったわけだった。
腹が痛くなるのもそのせいか? ……かもしれない。
「お前は包丁という、料理に関わる物だったのに、焼き加減もわからないのか?」
包丁は料理道具の筆頭だ。だから何故、と大悪鬼にさえ聞かれるんだろう。
おれはただの事実を教えた。
「おれの知識は割とお嬢ちゃんよりなんだよ。お嬢ちゃんの知らない事は知らない方が絶対に多いし、お嬢ちゃんのご飯って、金なさすぎて、かっちかちの黒パンと、それをふやかして食べるための、職場からもらってきた野菜くずとかを、ぐだぐだなるまで煮込んだスープばっかりだったし」
恋人の好きな料理の研究と言うものをしていても、お嬢ちゃんには、肉を焼くための器具を買う余裕はなかった。
だから、恋人の好きな味付けのスープと言う物を、研究していたのだ。
でも、恋人は焼いた家禽の肉が好きで、家禽の肉は四つ足の獣の肉よりも高級だというのが、人間の世界の常識だから、とてもお嬢ちゃんが日常で振る舞えるものじゃなかった。
お嬢ちゃんはそれでも、恋人から夜勤のためのスープを頼まれたら、自分の食事が貧相になる事なんてお構いなしに、買えるものの中で一番いい肉と野菜を買って、スープを作っていたものだ。
自分はろくでもない食生活だから、お嬢ちゃんの体はすぐ具合が悪くなってたけどな。
野菜を買う余裕がない時は、せめてパンは死守しなければ、とパンばっかりの日常もあったくらいだし。パンだけだと、人間って具合悪くなるんだな、とおれは知る事になった。
お嬢ちゃんの倹約スープの味も、彼氏のための贅沢スープの味も、食べた経験のないおれは、知らないけどな。
「なるほどな。人間の姿になるまでは、全く想像もしていなかった経験をしているわけか」
「してる。甘いとか苦いとか、最近知ったばっかり。でもおいしいはすごいものだってのは、実感してる」
そういう会話をして、一人分の携帯飯を二人で分け合って、おれはイシュトバーンに問いかけた。
「あんた、長生きだろ。詳しくないか、こういう事にさ。なんか、解決策とかの知識ない?」
「……多少は知っている。それに、見えた事を言うのも出来たはずだな」
「見えたって?」
「お前の中身を、一時的に目に特殊な魔術を使って、見通す方法がある。それを使えば、魂の状態も見えるという話だ」
「魔族ってそんな物まで見えるのか」
「種族によるぞ。俺は見える側だ」
なんか、荒唐無稽に聞こえるのに、妙に事実に聞こえたから、おれは問いかけてみた。
「じゃあ、この体の中のおれは、どんな風に見えそう?」
「おそらくだが……残酷な話になるぞ」
「事実を聞かなきゃ、お嬢ちゃんに体を返す為の方法も見つからないだろ」
おれが少しの勇気を出して言い切ると、イシュトバーンは髪をかき上げた。赤い髪の毛の向こうでは、隻眼が金色に光っている。片側はえぐれた酷い有様だ。
この魔族は、一体いつ片目をなくしたんだろう。聞くのは悪い事かもしれないから、聞かないが。
その、金色の瞳の中の瞳孔が、不意にぐちゃぐちゃに混ざって、一瞬強く光って……またもとの縦長の瞳孔に戻った。
「……お前は、体の持ち主に、体を返したいんだったな?」
真面目な声で念を押されたから、まっすぐ見返して頷いた。
「うん。返したい。で、幸せになって……」
「その体の中にある魂、いいや、意志を持つ存在は、お前だけだ」
「……え?」
「お前の願いにとっては残酷な話だが」
聞きたくなかった事を、イシュトバーンは教えてくれた。
「その体の元の持ち主の魂は、……すでにこの世からいなくなっている」
おれは言葉を失った。