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「うー、うまい」


おれは今まで、包丁だったわけで、食べ物を口にするなんて事は、絶対にないわけだった。

だからこうして、何かを食べて、おいしいと思うって事は、心をいやすものだってものすごくよくわかった。

おいしいって幸せだ。

おいしいって傷が治る気持ちになる。

おいしいって安心する。

そうか、最強の感覚は、おいしいなのか、と初めておれは体験している真っ最中なのだ。

食べているのは、お嬢ちゃんがずっと行きたいと言っていて、でも勇気がでなくて入った事がなかった、おいしい甘いものが売っている店のもの。

あのぼろアパートに戻る最中に、おれは思っちゃったのだ。

一回くらい、この店で何かを口にしても、罰は当たらないんじゃないか、と。

お嬢ちゃんはものすごく頑張っていた。お給料に対して、紹介されて入ったアパートの家賃は、ものすごい高い割合のもので、でも上司の紹介だから出て行く選択肢も選べなかった。

このやたらに高い家賃の支払いのために、お嬢ちゃんはかなりの厳しい生活を送っていた。

自炊が上手になったのだって、何かを購入して食べる生活を続けたら、一週間とかで手持ちのお金がなくなっちまうと言う、無残な現実が横たわっていたからだ。

お嬢ちゃんは、家族が死んでしまう前は、普通よりもちょっとだけいい生活をしていた事は、お嬢ちゃんの食事の作法からおれは感じていた。お嬢ちゃん、食べ方きれいだったんだ。

そんな、本当だったら夜につける明かりの燃料費で、一喜一憂する人生なんて送らなくてよかっただろうお嬢ちゃんが、小さな夢を叶える事も出来ないで、生きる事を諦めちまった。

そして何の因果か、こうしておれがお嬢ちゃんになってしまった。

だったら、せめてお嬢ちゃんの夢で、叶えられそうな事くらいは、今すぐに叶えたっていいじゃないか、とも思ったのだ。

だから財布の中のお金を確認して、お店で一番値の張らない甘い物を買って、あこがれだったテラス席で食べて、それっぱかりは許されるだろう?

そういうわけで、おれは甘いふわふわした小麦粉のお菓子を食べて、お会計をすませて、家であり拠点であるぼろアパートに戻って……なんか知らないが、自宅の扉の前に、張り紙がされている事実と向き合う事になった。


「立ち退き命令……だと……?」


今月の家賃は一昨日払ったばっかりだ。扉の前まで大家がやってきて、お嬢ちゃんからお金を受け取ったから間違いがない。

なのになんで、数日たっただけで、立ち退き命令がでているんだ。

呆気にとられたおれであるが、何とかその立ち退き命令の理由を読もうとしたその時だ。


「この親不幸者! せっかく死んだ父親から、仕事を紹介してもらっていたってのに、自分勝手で出て行くなんて、どうしようもないくずだね!!」


背後から怒鳴られて、おれは振り返った。何なんだ一体、と思いつつも、そこに立っていたのは、大家のばあさんだった。大家はじいさんとばあさんの兄妹二人で、この二人が管理しているわけだ。

そしてこのばあさんの口振りから、おれはある程度察した。

上司か同僚か、とにかく誰か職場のやつが、仕事を辞めると言って出て行ったおれの前に、大家のところに出向き、あること無いこと吹き込んだな、と。

事実、おれというか、お嬢ちゃんに対して悪い話を吹き込まれている様子のばあさんは、怒った調子でさらに続ける。


「あんたの仕事先の上司さんは、あんなに優しくて話の分かる、大変な目に遭っている女の子にも理解のある人なのに! 聞けばろくに仕事もしなかったんだってね? 給料泥棒もいい加減にしな! あんたみたいなのを店子としておいておいたら、うちの賃貸の信頼もなくなっちまうよ! 立ち退きたくなかったらすぐに、あの立派な上司さんに謝って許してもらいに行きな! あんたの同僚のみなさんも、あんたを庇って、そりゃ優しい職場じゃないか」


誰かどころか上司も同僚も来たのかよ。暇人か?

しっかし、片方から無いこと無いこと吹き込まれた人って面倒くせえな。

おれは内心で思いつつ、一言こう言った。


「じゃあ、中にある包丁だけ持って行くんで、後は売り払うなりなんなり、好きにしてください」


「そもそもあんな名門の料理店で、あんたみたいな世間知らずのわがままで怠惰な……え?」


いいたいほうだいのばあさんの声が、途中で止まった。おれは念を押す。


「包丁だけもっていければいいんだ。後はあんたが好きに、売り払うなりなんなりしろって言ってんだ」


はっきりと言葉にして、おれは家の鍵を開けて中に入って、さすがに仕事場には持っていけなかった本体を、本体入れの鞘に収めて、今持っている背負い鞄の中に入れた。

そして、お嬢ちゃんが貧乏ながらも一生懸命に手に入れた、生活するためのいろんな物を見回して、小さく


「今まで皆ありがとう、次の持ち主のところで頑張れよ」


と家具その他に挨拶をして、大家の目の前で出てきたのだ。


「は、あ、あんた、正気なのかい!? すぐに謝りに行っておいでよ! 話の分かる人たちじゃないか」


大家は慌てふためいていた。もしかしたら、上司か同僚に、お嬢ちゃんの説得を頼まれていたのかもしれない。

されたところで、職場に戻るわけもないんだがな。


「それはあんたが、耳障りのいい言葉だけを並べられてっから。見ろよこの痣」


おれはにやっと笑ってから、ぐいと服の袖をまくった。殴られたり蹴られたり、物を投げつけられたりしてきたからか、この体は痣まみれなのだ。

大家がひるんだように黙る。何も言えなくなった大家に、おれは続けた。


「全部職場。じゃあな、ばあさん。出て行けっていうならおとなしく出て行ってやるから。行く先なんて決めてないけど、今よりはましだろ、あっはっは!」


それだけを大笑いした調子で言ってやって、おれはお嬢ちゃんが三年住んでいたアパートを後にしたのであった。

そこで思ったのだ。



「そうだ、旅にでよう。お嬢ちゃんは、ずっと、どこか遠くに行きたいと思っていたんだから」


お嬢ちゃんの魂がどこかに行ってしまったのか、それとも体の中で深い眠りについているのか、どっちなのかはわからない。

でも、お嬢ちゃんがしたかった事とかをすれば、何かしらが起きて、お嬢ちゃんの意志か何かに、また触れられるんじゃないかと、そんな気がした結果だった。


「ま、おれなら何とかなるだろ、おれだし」


おれは明るく前向きに考えて、背負い鞄の中の本体があるから、だいたいの事には困らないと言う確信だけは持てて、意気揚々と大通りを歩き始めたのだった。

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