2-7
いけ好かない薔薇の国の王子との庭園でのやりとりが合ったその日の夜。
おれは胸の中がムカムカしすぎて、吐き気すら感じていて、だからお気に入りの潮風の吹くバルコニーに一人で出ていたのだ。
お嬢ちゃんと入れ替わった部屋である東の間は、どこを切り取っても素敵な空間らしいが、おれはそれの本当の価値などわからないだろう。何しろ包丁だった時代が長すぎて、歴史的建造物あれこれそれの価値がまるでわからない。
わからなくても綺麗だとか整っているとかわかる空間は、本物だという事なのだろう。
それはさておき、おれはバルコニーに一人立っていた。風が吹いている。丁寧に洗ってもらった長く伸びた髪の毛がさらさらと揺れて、それを手で押さえながら、おれは暗い海を見ていた。
たまに夜釣りと言う物をしている国民達が、明るい船を浮かべているが、今日は日が悪いのだろう。そう言った船は見当たらなかった。
風が吹いていて、雲がまるでない夜の空は、ばらまかれたような星屑が一杯に散っていて、キラッキラしていて、それはそれは綺麗なのだろう。絵の中の世界のような。
おれは生まれと経験値の問題で、それらの事がわからないけれども、この国に来てからは、ちょっとずつ進歩していて、あれこれがわかるようになった。まだ赤ちゃんくらいの状態だが、全くの無知では無いはずだ。多分。でも玄人が見たら赤ちゃんだとは思う。
そんな事を思いながら、おれは空を見ていた。星の読み方は知っている。あれが基準になる大きな北の星。そこから指を何本で方角の星。それをさらに親指一本分で季節の星。
いつかどこかで覚えたような知識は、どこで覚えたのか全くわからないけれども、これがあればどこの空を見ても、目指す方角はわかるというものだ。
そんな風に、手を伸ばして星を見ていたおれは、背後の扉が開く音が聞こえたけれども、聞こえなかったふりをした。
すると。
「そのように薄い服の格好では、風邪を引いてしまうだろう。この国の夜風は、人間の女性にはいささか冷たすぎると思っているんだが」
そんな、びっくりするくらいに丁重な言葉が背後からかけられて、ふわりと布だろう暖かな何かが肩にかけられた。
「心配はおかけしませんわ。ただ……星があまりにも美しくて」
おれは相手が丁重な言葉を使うから、それに合わせて丁重な言葉で喋ってみた。お嬢ちゃん風である。お嬢ちゃんはもっと優雅で綺麗で丁寧で品がある、おれは付け焼き刃だから残念仕様だ。否定はされたりしないだろう。
「確かにこの都の星は、俺の知るなかでもひときわ美しい星々だ。だがあなたが寒さを覚えながら、その華奢な身体を震わせながら見続けるに値するとは、とても思えないな」
暖かな何かは、声をかけてきたヤツのマントだった。正確に言うと、自分のマントの中におれを入れたのだ。
これは距離感が近い物同士でやら無いと、変態の所業になるあれである。
そしておれは、これを行っている相手との距離感が日常的にゼロになるので、お互いに問題は発生しない。
しかしぬくい。こいつの体温この前までひえひえだったはずなんだが、腕を取り戻したり、見た目を取り戻したりした事で、身体の中の魔力の循環とかが正常になったんだろうか。
お嬢ちゃんの受け売りだ。人間は体調を崩すと、魔力の循環に問題が発生し、冷え性が悪化するとか、問題が改善すると体温が高くなるとか、お嬢ちゃんが文献で調べた事だって言っていた。
お嬢ちゃんがあまりにも毎月具合を悪くするものだから、ウォレンさんが心配して、人間を診る事の出来る腕のいい医者を呼びつけて、色々検査したらお嬢ちゃんの体内の魔力循環が、人為的に阻害されていた事がわかったんだ。
直ちにイシュトバーンがそれを治療する事にお金を出すって言ってくれて、お嬢ちゃん自身も自分の体質を改善させたくて、調べまくって皆で一致団結してお嬢ちゃんの体質改善をしたのだ。
そのためお嬢ちゃんは、毎月の腹痛が和らいで、血が抜けすぎて目を回して立てなくなるって事がなくなった。
たまにうずくまるお嬢ちゃんを発見して血の気が引いていたから、本当に良かった。
おれは毎月血が出るたびに、慣れなさすぎてあたふたする。毎月懲りずにあたふたするから、女魔族の使用人さん達が、お方様は月の物の経験が無いんですねってよく言う。
でも大丈夫ですよ、イシュトバーン様の愛を一身に受けていれば、月の物も怖くなくなりますよって言う。
その意味は未だにわからないものの、イシュトバーンは温かいので、こいつのぬくぬくがあると痛みが和らぐとかそんな話じゃ無いかなと思っている。
女魔族の皆様のお話から聞くに、恋人とか夫とかが気を遣ってくれて、身体を温めてくれると、愛されてるって実感してうれしくなるらしい。
痛いところに温かい手を当ててもらうだけで、いらいらが和らぐって言った魔族も居るくらいだから間違いない。
さて、そんな事情なのでマントでおれを包んでいる相手に対して、おれは変態だの痴漢だのとは言わない。真面目に温かい。ぬくい、それにとても安心する。
しかしながら口調だけはおしとやかなそれを維持してみる。
「陛下、このような事をなさって、皆様に咎められませんの?」
「いとしいひと、俺の行動がこの城の何者に咎められるというのだ? この城で俺の行動を咎められる者など誰一人居ない事は、うるわしいきみ、あなたが一番よく知っているだろう」
いや、あんたを咎められる筆頭はウォレンさん。ウォレンさんに力では勝てても、言い負かせないあんたは彼に咎められたらしゅんとするくせに。
おれはその言葉を内心で思いつつも、身体はそっと相手に少し寄りかかるような仕草をとって見せて、いかにもはかなげなお嬢さんが、心を許して甘えているというそぶりをとってみせる。
「ふふ、悪いお方」
「いとしいひと、その悪いお方を憎く思ってはくれないだろう」
「私の身の上で、憎らしいと思って口に出せると思っていらっしゃる?」
「あなたの感情ならどのような感情でも受け止めよう」
そう言って、相手が俺の腰に腕を回して力強く引き寄せて、でも丁寧に大事にしているという手つきで、おれの頬に手を添えて、そっと顔を近付けてきて……おれはそれを、女の子の力加減ですという調子で、どこかの家のお嬢さんと言った手つきでやんわり押しのけた。
「いけませんわ、このようなところで、誰に見られるかもわからないのに」
「誰に見られてもかまわないだろう? おれとあなたの仲なのだ。誰も愛する二人を咎められるわけが無い」
「あなた……」
その甘ったるい言葉にうっとりした、と言う潤んだ目をおれは相手に向けて……そこで、小さな魔法の何かがちぎれた音を確認して、顔をギリッギリまで近付けて居たのを止めた。
「のぞき見は逃げたな」
「逃げたみたいだな、でもあんなずさんなのぞき見でいいのかよ」
「本来ならば、この東の間の間取りその他を調べまわり、忍んでくるために使うはずだったんだろうな」
「イシュトバーン、そんな事をゆるすのか?」
「普通ならこの城の結界でのぞき見は爆破しているさ。ちょうど結界担当達が俺達の悪乗りを耳にして、この寸劇に乗る事にしたらしい。結界の不具合の調査だと申請が入っていたな」
「皆して俺達で不具合の調査するよな」
「よそから入ってこなければ、不具合が入る事も少ないからな」
おれと相手……皆まで言わずともイシュトバーンは、唇が触れあうギリギリの距離で、そんなのんきな会話をしていた。
そう、これは、お嬢ちゃんを狙う事を決めた節のありそうな、アルトンだったかアルバルだったか、薔薇の国の王子達に盛大な誤解を生むために、城の結構な人数を巻き込んでの寸劇だったのだ。
お嬢ちゃんにも了解を得ている。お嬢ちゃんは薔薇の国の人間達が近付かなくなるなら、なんだっていいらしいし、ウォレンさんが勘違いしなければ他の誰が勘違いしていてもいいらしい。
お嬢ちゃんはウォレンさんととっても言いお友達関係になったらしくて、おれとしてはいい気分だ。ウォレンさんは性格的に信じられる魔族だしな。
この寸劇は、薔薇の国から来た三人に、お嬢ちゃんとイシュトバーンが怪しい仲で、正式に決定している婚約者すらないがしろにしているかもしれない……と勘違いさせるための寸劇である。
こうする事で、お嬢ちゃんよりも、おれに接触した方が色々な物がはかどって良さそうだと、連中に勘違いさせるためである。
別の方向で言うと、お嬢ちゃんに手を出させないためである。これだけこの国の覇者がベッタベッタしているお嬢ちゃんに、粉をかける危険性はさすがにわかるだろうという判断からだ。
粉をかけるのはどっちが危険が少ないか、とミスリードさせるための寸劇だとウォレンさんがお嬢ちゃんと熱心に話し込み、お嬢ちゃんはおれに台詞回しを教えてくれた。お嬢ちゃんがとってもノリノリで楽しそうだったのがよろしい。
そしてイシュトバーンは、普段しない会話でおれといちゃいちゃできるっていうのが面白いと思ったらしくて、こちらも乗りに乗ってくれて、こうして誰もおかしいと思わない、不貞の密会風なネタが爆誕したわけである。
「これでお嬢ちゃんに接触しなくなるといいんだけど」
「これでお前の方に、俺との仲をひび割れさせたくて話をしてきそうな節はあるが、お前は受けて立ちたいんだろう?」
「そ。おれあいつらの事ぼっこぼこにしたいから、真っ正面から近付いて欲しいんだよな。まずは鼻の骨を折って」
「まて物理か」
「え、物理だめ?」
「人間の骨はすぐに砕けるからよろしくない」
「わかった」
そんなやりとりをしつつ、顔を離すと、本当に冷えるぞとイシュトバーンが呟き、おれを抱きかかえて、そのままおれ達は使用人に床の絨毯の上に適当な毛皮を用意してもらって、そこに上掛けを掛けて寝てしまった。
何故か?
「お嬢ちゃんもこれから寝るであろう寝台に、おれはイシュトバーンと同衾できない」
からである。さすがにさ、色々教育された結果、男と女があれこれした寝台に、お嬢ちゃんを寝かせられないという意識が働くようになったからである。
おれも成長しただろ?




