2−5
お嬢ちゃんはその夜、ずっと震えていた。それは彼女が寝付くまでずっとで、どれだけお嬢ちゃんにとっての従姉妹と言う物が精神的に負担かという事を、如実に示していた。
おれは元々は剣で、それから包丁で、今は人間みたいな姿をしているけれども、人間的な感情はどこかずれている自覚がある。
それでも、一年と少し寄り添っていたお嬢ちゃんの苦しみは、欠片くらいはわかりたいと思った。
全てを奪って成功した従姉妹が、そこから離れた自分を追いかけるように前触れ無く現れる。
そう言うのは、きっとあまりにも突然で、心の準備が出来ないから受け止める時点での負担は最大値なのだろう。
お嬢ちゃんは優しすぎて、憎しみも抱けないでいるからか、感情の吐き出しかたが大分下手だ。
「二度とこの国の土を踏ませるなとか、言ってくれりゃあな」
そうすればおれはイシュトバーンに、婚約者のわがままとしてそれをねだってあげられる。イシュトバーンはおれのわがままなんていつだってかわいい物という扱いをしているから、この程度だったら造作も無いとか言いそうだった。
虎の威を借る狐と言う言葉があるだろうが、おれはただ自分の手持ちの札を最大限に使って、お嬢ちゃんが心安らかな人生を歩んでくれる事を願っている、それだけなのだ。
「夢の中でまで、泣いてくれるなよお嬢ちゃん。おれが助けに行けない場所で、苦しいって言わないでくれよ」
抱きしめているお嬢ちゃんは、夢の中にいるのだろうけれども、しくしくと泣いている。あんまりにもつらそうで、苦しそうだから、おれは出来る事ならお嬢ちゃんの夢の中に入り込んで、その苦しみの根源をボコボコにしたい。
なにしろおれは夢を見ない。剣であった包丁に、見る夢など存在しない。
だから、いろんな生き物の見ている夢というカテゴリの物が、どれくらいの物なのかもわからないけれども、やっぱり、助けに行ける場所でお嬢ちゃんには泣いていて欲しい。
だってそうしたらすぐに駆けつけて、助けたり守ったり庇ったり出来る。手足のある今ならば。
「……あの女がいるってだけで、お嬢ちゃんが夢の中でまで苦しむって言うなら」
おれが出来るのは、お嬢ちゃんが絶対にあの女と会わないように、無い知恵を振り絞る事だ。
おれのお嬢ちゃん。鍛冶屋の大特価品の刺さった包丁立ての中で、誰も買ってくれなくて見ている風景に飽き飽きしてきた頃に、一番の大特価になっていたおれを有象無象の包丁の中から引っこ抜いて、値段を聞いて、これにすると選んでくれたお嬢ちゃん。
その時からおれはお嬢ちゃんの包丁で、ずっと見守ると決めているのだ。
一度は手も足も無かったせいで、助ける方法を持てなくて、失うところだったおれの大事なお嬢ちゃん。
二度目はしない。させやしない。お嬢ちゃんにあんなどろっとした声など出させてたまるものか。
おれはずっと泣いているお嬢ちゃんを抱きしめて、背中をそっと叩いて、頭をなでて、大丈夫と繰り返す。
「大丈夫、おれがいる。大丈夫、何があってもおれだけはいる。お嬢ちゃん、おれがいる」
繰り返す。何度だって繰り返す。
そうして一晩、おれは一睡もする事なく、過ごしていたのだった。
「英雄さん、もしもイシュトバーン様に聞く事が出来るのならば、聞いて欲しい事が有るのだけれど、聞いてもらえる?」
「イシュトバーンはおれが聞く事の大部分なんて、簡単に答えてくれるぜ。何聞きたいの? 貨幣価値の相場ってやつ? ウォレンさんがブツブツ言ってるけど」
「そう言うのじゃ無くて……わたしの従姉妹が、いつまでこの国に滞在するのかがわかるのならば、聞いて欲しいの。エレーネ姉様が滞在している間は、顔を合わせられそうに無いから、できる限り引きこもっていたいの」
「なんでお嬢ちゃんがそんな我慢しなきゃならねえの? お嬢ちゃん何も悪い事してないってのに」
「エレーネ姉様は、王子様のお付きの人としてやってきたのでしょう? それならばこの国のお客様になるわ。そうしたら、わたしが気を遣う相手になるの」
「お嬢ちゃんの事を、わけのわからない事主張して追い出した女を重んじろって? 馬鹿言っちゃいけないだろ。重んじるのならおれのお嬢ちゃんの方だろ」
「英雄さん、あのね。そういうわがままはよくないわ。わたしが隠れていれば良いだけの話なんだから」
「お嬢ちゃんが隠れるような理由がどこに転がってるんだって話だろ。だってお嬢ちゃんは何にも悪い事してないし、追い出されて色々あったからここにやっと落ち着けたんだぜ? そもそも家から追い出した相手のために、隠れるなんてどうかしてる」
おれにとってお嬢ちゃんは最優先の存在だ。イシュトバーンよりも最優先だ。だからお嬢ちゃんが逃げ隠れしてやり過ごすって言うのは、選択肢にも入らない。
それだけお嬢ちゃんを苦しめるなら、あの手この手であの女を追っ払う方にどうしたって傾く。
なのに、それはいけないんだってお嬢ちゃんがたしなめてくるのだ。
「国と国のあれこれに、一人のわがままを押し通してはいけないわ。そういう物なの」
「わかりたくない」
「だって、わたしが会えないだけなの。わたし一人が顔を見せたくないし、存在を感じ取りたくないだけなの。だから、滞在期間だけわかれば、その間静かにしているのが最適解なの」
「顔を見たら苦しい思い出を思い出す相手だろ、居るって聞くだけで苦しい相手だろ。なんでそんな相手のために我慢するんだよ」
本当にわからないしわかりたくない感覚だ。
ここはあの女の支配圏とか権力の範囲じゃなくて、イシュトバーンの国だから、あの女にそんな遠慮をするお嬢ちゃんがわからない。
でもお嬢ちゃんはこう言った。
「わたし一人のために間違った対応はして欲しくないの」
「……ふうん」
お嬢ちゃんがイシュトバーンとかウォレンさんとかに遠慮してるってのはわかった。自分の状態のせいで、二人に間違った選択をとって欲しくないのもわかった。
お嬢ちゃんは、おれにお願いしてあの女とその他を追っ払うって言う選択肢はとりたくないらしい。
だったら。
おれはちょっと目先を変えて、考えて、一つ思いついたからこう言った。
「お嬢ちゃん、ならぱーっと観光旅行に行こうぜ」
「えっ!」
「ちょうどさあ、おれ相手に国のいろんな地方から招待状が来てるんだよ。お方様に自分達の土地を見て欲しいって。だからお嬢ちゃんの従姉妹がこっちにいる間、津々浦々を楽しく見て回ろうぜ。お嬢ちゃんはエレーネだかエレーナだかと会わなくてすむし、おれはイシュトバーンとかに、そいつの事であれこれわがまま言わなくてすむし」
言っているうちに、とても良い考えのように思えてきたおれに、お嬢ちゃんは難しい顔をした。
「イシュトバーン様から、あなたを離して良いのかしら」
「エレーネはそんな、一ヶ月も二ヶ月もここにいないだろ。長くったって一週間とかだろうし。それくらいならイシュトバーンにお願いして、ここを離れても良いと思うんだ。おれがいればお嬢ちゃんは絶対に安全に旅行できるし」
身を乗り出して誘うと、お嬢ちゃんはちょっとためらった後にこう言った。
「いいけれど、イシュトバーン様とウォレン様に、きちんと了承を得なかったらだめよ。お二人はあなたをとても大事に思っていらっしゃるんだから」
「おう、じゃ決まりな!」
こうしておれはとりあえず、お嬢ちゃんをここから遠ざけて、お嬢ちゃんのとても苦手な従姉妹から引き剥がす方に舵取りを決めたのだった。
そしてその日のうちに、おれはイシュトバーンとかウォレンさんとかが仕事をしている執務室に行って、さっさと話を済ませる事にした。
「ってわけで、おれとお嬢ちゃん、ちょっとあっちこっちに観光旅行に行きたい」
「……」
あらかた話を聞いたイシュトバーンが真顔になった。それまでニコニコしていたのに、すっと真面目な顔になって、部屋の温度がちょっと下がった気がする。
ウォレンさんが嗜めるようにこういった。
「ノーシ様。イシュトバーンの休暇の予定は今は立てられないのですよ。結婚式の準備そのほかがあるのですから」
「だからおれとお嬢ちゃんの旅行だってば。イシュトバーンの休暇は関係ないだろ」
「あるぜ。まったく、お前を俺のそばから離せるとどうして考えられたんだ?」
「……」
イシュトバーンの直球の言葉に、ちょっと黙っているうちに、大悪鬼は執務室の椅子から立ち上がって、長椅子に座るおれの隣に腰掛けた。
そして当然の調子で俺の胴体に腕を回して、耳元に口を当てて喋る。
「俺のいとしいいとしい婚約者殿、そばで見守り慈しみたい俺が、どうして俺抜きの旅行を許可すると思えたんだ? ん?」
ここの所イシュトバーンの本気の声は、おれにとって弱点になっている。耳元で囁きかけられると、背中がぞわぞわして、背骨が溶けたような気分になってくるんだから。
「だって。お嬢ちゃんがエレーネの滞在で弱っていくのなんて見てられないぜ、おれ」
「なるほど詰まるところ、お嬢さんの発案では無くてお前の発案か」
「お嬢ちゃんは引きこもるって言った」
「賢明な判断だ。お前側の気持ちもわからないでもないが、だからお前を俺のそばから離すというのは俺には認められない行動だ」
「じゃあどうすりゃいいんだよ」
何か思いついても、お嬢ちゃんのためでも、イシュトバーンが嫌な事はおれにはたぶん出来ない。この声を裏切るのは無理だ。聞くだけでそうだよなって納得してしまう。
「お嬢さんは来客達のなかの、一人の女性と会いたくないだけなのだろう? ならば本宮の方が遭遇率が高いのだから、お前の暮らす王妃の間の一部で生活していただこう」
「え、東の間からお嬢ちゃん引っ越して良いの」
まさか引っ越しの許可が下りるとは思わなかったおれに、イシュトバーンはまだ囁く。
「そしてお前が代わりに、東の間に移る。つまりお嬢さんとの入れ替わりだ。そうすれば、お嬢さんが東の間にいると思い込んでいる連中が、押しかけてきてもお前なら対応が出来る」
「なるほど! お嬢ちゃんのふりして、木っ端みじんに連中の事ぼこぼこに出来るってわけだな!」
「そこでその脳筋の選択肢が出てくるあたりがかわいいな、お前は」
「それに王妃の間なら、出入り口の兵士さんに言っておけば門の前で追っ払えるし、お嬢ちゃんが散歩したい時は王妃の間の庭園で気晴らしできるし! あんた頭良いなあ! 旅行がだめならそっちもいいな! お嬢ちゃんに提案してみる!」
「この程度で頭が良いというのはなんとも言えない気分だな」
「でもだ! ありがとうイシュトバーン! お嬢ちゃんの所に行って、すぐに入れ替わらなきゃ!」
そう言って立ち上がろうとしたおれであるが、イシュトバーンの腕はまだ離れていない。
「そんな俺に何をしてくれるかな、俺の最愛の婚約者殿」
「え?」
おれが言葉の意味をかみ砕く前に、イシュトバーンはおれに当たり前の調子で口づけてきて、たっぷり五分は口づけて、おれの息が上がっている状態で満足そうにこう言った。
「その顔が本当にいい。俺を見ているその顔が」
「……よく……わか……らん……」
「イシュトバーン、仕事が溜まりますので、そろそろ仕事に戻ってください。結婚式の後の新婚のあれこれのために、仕事はいくら前倒しにしていてもいい位なんですからね」
「なんだよ、もう少し婚約者との愛の戯れを」
「それでこの前ここで、私が席を外している間に一線越えていたのはどこの誰達ですかね。扉を開けて見た光景に、私はたまげましたよ」
「あー、わかったわかった、説教はもう飽きた。……ノーシ、お嬢さんの引っ越しの手配は俺の方でも根回しをしておく。お嬢さんには先に、王妃の間のどの部屋が良いか案内しておくと良いだろう」
「おう!」
べろりとおれの唇を最後なめたイシュトバーンが、腕を放して立ち上がって執務室の机に戻る。
おれは呼吸を整えて、鏡で顔に問題が無いか確認してから立ち上がると、善は急げとお嬢ちゃんのいる東の間に舞い戻ったのだった。




