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第二部始動します!
イシュトバーンがおれを嫁にすると大々的に発表して数週間が経過した。
おれはその間、この大悪鬼の視線や態度に、どういった反応を返すのが正解なのか、と悩みまくっていた。
……あいつ、笑うんだ。しょっちゅう。
おれがいるってだけで、あいつはおれみたいな元包丁という経歴の生き物でも、わかってしまうほど、優しい顔をして笑う。
おれが、ただあいつに休憩を取らせるために効率がいい、とウォレンが頼んでくるからという理由で、あいつが執務を行っている部屋に、お茶とか軽食とか言われている物を運んで、あいつの服の裾をつかんで引っ張るだけで。
「休憩だ、休憩。ほら、あんた何時間椅子の上にいるんだよ」
そういって、わがままな子供みたいじゃないか? と数少ない町で見た光景に似ていると思いつつ、そう口にして見上げるだけで。
あいつは、笑う。
本当に、きれいにきれいに、きらびやかな光が見えてきそうな程、きれいな顔で笑うんだ。
ほかにも、あいつが笑う時はいくつもある。
おれが、知らない食べ物を口にして、それがあんまりにもおいしいから、顔が輝くのが自分でもわかる時。
あいつは、心底気持ちいい事があるみたいな顔をして、笑う。
目が細まって、唇がきれいにつり上がって、おれの姿を、見て笑う。
おれが、知らなかった事を知って、興奮してあれこれ喋っている時も、だ。
あいつは、おれを見ている時、きれいに笑っている事がすごく多くて、おれはどうしたらいいのかがわからない。
その笑顔を見ていると、おれは心臓のあたりがぎゅうとして、ふわっと頭のどこかが浮ついて、心というおれにあるのかも若干怪しいかも知れない何かが、甘くなる。
おれをそんな気分にさせている事なんて、あいつは知りもしないで、おれを見ては笑う。俺の声を聞いては笑う。おれがあいつの注意を引いているだけで笑う。
あいつは笑ってばっかりだ。そのうち顔の筋肉という奴が笑顔で固定されるんじゃ無かろうか。
おれは、あいつにどういった風に接するのが正解なのかと、ここのところずっと悩んでいる。ウォレンさんとかは、それがいい事だという風に言う。
「長らく、お嫁様達やお子様達を無残な形で失った事に、苦しんでいましたから。ああやって笑えるほど、心の傷が和らいだのならそれの方がいい」
「イシュトバーン様は、笑っていらっしゃる方がすばらしい。あの方はこの国をずっと繁栄に導いてきた偉大なるお方。あの方のご自身の幸せと、この国に生きる者達の幸せが平行するならば、それはなんと素晴らしい事なのか」
「あの方のどんな肖像画よりも、あの方がお方様に見せられる笑顔の方が美しい。あの笑顔をとどめておけないのは世界の損失だ。しかしお方様だけが、あの方をあの笑顔にするのだろう」
という風な意見ばかりで、おれがどうしたらいいのかという答えは、誰も教えちゃくれないのだ。教えろよ。おれあいつの事どういう風に扱えばいいわけ?
そんな事を考えてばっかりの毎日で、おれはついにじれったくなり、問題を当の本人にぶつけてみる事にした。
「なあ、イシュトバーン」
「どうした。また読めない文字があるのか? 見せてみろ」
「確かに読めない文字はいっぱいあるけどさあ。……あんたおれの事見て、そんなふわふわした顔で笑ってて、どうすんだよ。おれは、あんたをどう扱えばいいわけ? おれはそんな笑顔になるあんたに何をするのが正解なんだ?」
おれは手元の本を見下ろした後に、そう言った。イシュトバーンが、暇をつくっては、おれの所に来る事はもう日常で、扉が叩かれなくても、取り次ぎがいなくても、おれはその足音が聞こえて止まったら、入っていいぜ、と声をかけるようになっていた。
そんなこちらの問いかけに、イシュトバーンはその、きらきらした黄金色の瞳を瞬かせて、男らしい唇を開いて言う。
「お前がここにいて、息をして、俺に話しかけ、俺の歩みに合わせようとする。……それがうれしくて顔が笑うんだ。お前だけは、最悪の形で失う結末が無いというそれだけでも、俺は笑いが止まらない」
「それはおれの対応の正解じゃねえだろ。そんな笑うあんたに、おれはどうすりゃいいんだよ」
「そんなのは簡単だ」
そう言って、イシュトバーンはおれを重さなどないように持ち上げて、膝の上にのせて、腕の中にしまいこんで、おれの耳に口を近付けて、呼吸の音さえわかる場所で言う。
「俺の傍で生きていろ。たったそれだけだ」
「なんだそりゃあ。答えじゃねえような」
「いいや、答えだ。俺はお前を見て笑いながら生きていたい。お前が俺に対してどうしていいのかわからないとか言うのならば、俺の注文を聞けばいい」
「……ふうん、そんなもんなんだな。じゃあおれは、できるだけあんたの傍にいる時間を増やして、この国の常識とか礼節とかも覚えておきゃいいわけか」
「そうだな。近いうちに、お前を連れて町のバザールにでも顔を出すか。俺の顔を覚えていないのも多いだろうしな。そしてお前はとびきりの俺の至宝だ。外に出すのも俺が見張っておかなければ気が気でない」
「おれ、この城の中だけでも広すぎて目ぇ回りそうなんだけど」
「楽しいか、城の中だけでも今は」
「楽しいっちゃ楽しいのか……? でも知らない物を知っていくのって楽しいんだよな。お嬢ちゃんが魔法の勉強をたくさんしたがるのも、最近はなんとなくわかる。お嬢ちゃんに聞いたんだけどさあ、お嬢ちゃん、実家は結構な魔法の使い手を輩出する家だったんだってさ。なんか詳しい話わけわかんなくて、右から左だったけど。お嬢ちゃんは才能ってのが無いから、勉強しても無駄だって言われてばっかりで、したかった勉強のほとんどが叶わなかったんだってよ」
「お前のお嬢さんは、今の状況に満足していそうか?」
「うん! おれお嬢ちゃんが、毎日毎日、この城の魔術部門の魔族達と机を並べて議論してたり、調べあいっこしてたりして、すごく楽しそうな顔見てるの幸せ。お嬢ちゃんはイシュトバーンにお礼言ってたんだぜ、お嬢ちゃんは身分あれこれとか言って、あんたの所に来ないけど。こんな充実した毎日を送らせてくれる、魔術を学ぶ事に寛大な王様に感謝しなくちゃって」
「お嬢さんの魔術論文は、この城の魔術師達も感心していたからな。場合によってはお抱えにして給料も出るだろうな。そういった話になれば、俺の所まで伝わってくるわけだが」
「お嬢ちゃん、やりたい事でお給料もらえるようになるのか! お嬢ちゃんがやりたい人生を送るのに大事な一歩だな!」
「……」
おれがお嬢ちゃんの事でうれしくてにこにこすると、イシュトバーンはおれを抱え込んだまま、おれに回す腕を少し強める。
「どうした?」
「やきもちだ。お前はお嬢さんの事になると、とびきりきらきら笑うからな。俺の方面でその顔にさせたくてたまらなくなる」
「無理だろ。だっておれお嬢ちゃん見てる時と、あんた見てる時じゃ心臓の動き違うし」
「なんだと?」
それからしばし、おれとイシュトバーンは椅子の上でじゃれあいをしていたわけだが、そこに有能な腹心であるウォレンさんが現れた。
「イシュトバーン、婚約者と大変に仲がよろしいのは結構ですが、人間の国からの来訪者です」
「来訪者というだけで、お前は呼びに来ないだろう。相手は?」
「薔薇の国の王子一行です」
「……ふうん。薔薇の国と言えば、俺の婚約者の大事なお嬢さんの、出身国だな」
「そうですね。お会いになりますか? 会わずに追い払う事も問題はありませんが」
「いいや、友好的に尋ねてくるとは珍しいからな、会っておこう。ノーシも来い。人間の王族がやってくるなんて変わっているからな」
「今すぐか?」
「……あなた方は身なりを整えてもらいますよ。またどこかでじゃれ合ったんでしょう。衣類の乱れがすごいですよ」
おれの問いかけに答えてくれたのは、いつでもしっかりしているウォレンさんだったのであった。




