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「恋愛っていつの時代も自殺を選ぶ奴が出るくらい、怖いものなのはかわんねえか」
おれはぶつぶつ言いながら、とりあえず、この家の中の飛び散った血痕は掃除しなければ、と頭が動いた。
明日もお嬢ちゃんは仕事があって、それに血痕なんてほうっておいたらこびりついて落ちないしみになる。
そんなのが大家に知られたら、掃除の代金でどれだけ請求されるかわかったものではない。
おれはしばし考えたのだが、天井まで飛んでいる真っ赤な色を、踏み台があったとしても、お嬢ちゃんの背丈じゃ拭き取れないという現実に思い至り、仕方がないから、包丁になってしまっている、自分の元本体を握りしめて、意識を集中させた。
「……洗いたまえ、清めたまえ……」
確かこんな感じの言葉だったような気がする。おれは大昔、刀身に血だの体液だのもっと醜悪なものだったりがこびりついた時に、当時の持ち主が唱えていた言葉を口の中で転がした。
そしてその言葉は正解だった様子で、元本体である包丁から光の波が部屋に広がって、血の跡はきれいに消え去った。よし。
「使えないと思ってやってみたけど、案外使えるもんだなこれ」
だが残念ながら、洋服に付いた血痕は落ちる気配がないので、コレは捨てるしかないとあきらめ、体についた血も洗い流すべく、おれはさっさと服を脱いで、かろうじて体を布できれいにしたのだった。
「この役立たず!! 芋の皮むきも満足に出来ないなんて、今まで何を修行してきたんだ!!!」
……仕事場に誰よりも早く来て、熾火をちゃんと起こして、パン種の面倒を見て、他の料理人が使う道具を準備して、行商から野菜を仕入れて、それからそれから……大量の雑用をこなしおわって、やっと芋の皮むきに至ったおれに、料理人が大声を出して怒鳴った。
あのな、熾火をちゃんと使い物になる炎まで育てるのだって、時間と手間がかかるし、パン種だって毎日様子は違うから、微妙に与える栄養の調整だって違うだろ。昨日の夜に働いていた他の料理人達が使い、洗い場担当が雑に洗ってほうっておいた仕事道具を、きれいな状態に洗い直したあたりで、その頃にやってくる行商を相手に、野菜の目利きをしてって、たくさんの雑事に忙殺されているおれに対して、その怒鳴り方はどうなのさ。
なんだか、お嬢ちゃんが仕事に行く前にいつも、苦しそうな顔をしていて、帰ってくると八割の確率で泣いているの、こう言った事が詰みあがっていたせいじゃないかと思うの、おれだけじゃないよな。
な?
「お前はろくに役に立たないんだ! 雑用くらいは完璧に仕上げろ!! 私達料理人を待たせる事をするんじゃない!! 手間取るとわかっているならその分、早く仕事場に来て、きりきり働くべきだ!!」
料理人と言われる職業には、意外かもしれないが、想像以上に厳格な階級が存在する。とはお嬢ちゃんが愚痴っていた事である。
上の人の指示が絶対。反論は許さない。
そういう職場だと。
そんな厳しい世界で、必死にたくさんの経験を積み、上の階級の料理人に努力や実力を認められて、少しずつ階級をあがっていって、洗い場担当とか、雑用係とか、そう言ったものから、胸を張っていい料理人と言う肩書きになると聞いていた。
事実他の、お嬢ちゃんと同じような年齢で入って来て、働いている同僚達は、お嬢ちゃんよりも階級が上になっている。
中には、料理人の花形とも言われる、味付け担当になっている同僚だっているのだ。
だがおれは、お嬢ちゃんの愚痴から知っている。
そいつ等の大半が、お嬢ちゃんの努力を自分のものにして、階級をあがっていっていると言う事を。
今日だってそうだった。パン種の面倒が終わったあたりで、他の同僚が来て、いかにも自分が育てていると言わんばかりに、後から来た上司達に
「今日もパン種はいい具合ですよ!」
「いつも面倒をありがとう、お前はすっかりパンの専門家だな」
「いえいえ!」
と上司に報告するやりとりをして、ぴっかぴかに仕上げた仕事道具達を、おれが拭き上げたあたりでやってきた他の同僚の一人が、上司に
「今日も準備万端です!」
「いつも世話になってるな、お前のおかげで仕事をするのも気持ちがいい」
「当然の事をしているまでです!」
なんてやりとりをしていたわけだ。
これ、お嬢ちゃんの仕事を横取りして、いかにも自分が役に立つって見せかけているだけじゃねえか。
おいおいふざけてんじゃねえよ、と言いそうになった口を閉じたのは、上司にいくら言ったところで、お嬢ちゃんはどうやら、役立たずの不真面目下働き、と思われているから、信じてもらえねえな、と判断したからだ。
おれは言いたい事を飲み込んで、とりあえず芋の皮むきの続きをしようと芋に手を伸ばした。
そんな時だ。
「お前はまともな事も出来ないだめな奴なんだから、上司の話くらいはきちんと聞け!!」
どんがらがっしゃん!! と盛大な音を立てて、芋その他が入れられていた容器が吹っ飛び、おれも衝撃を受けて厨房の床に体を打ち付けた。
この体ってのは、お嬢ちゃんの体の事である。
そろそろ包丁の部分は本体、お嬢ちゃんの体の方は、体、と呼び分ける事にする。えらくわかりにくいからだ。
体が床に打ち付けられたのは、上司の一人が、おれが話を聞くというよりも、芋の皮むきを優先させた事に激高したためだ。
仕事しろとか、話を聞けとか、どっちだよ。おれは痛む体を起こして、さらに罵倒する言葉を聞かされる羽目になった。
「まったく!! 亡くなったお前の父親が、娘を頼むと言っていたから、こうして役に立たなくとも使ってやっているというのに! 何も進歩しないし、役に立つ事もろくにしない! 他の同じ時期に入ってきた人達を見習え! パン種の面倒も、仕事道具の手入れも完璧だぞ!!」
上司はそう言っておれの事を蹴り飛ばす。厨房の世界ってのは昔から、暴力的な側面があると言うが、これちょいとばかり過激過ぎやしないか?
内心では思いつつも、おれはとりあえず、蹴るつま先が急所には入らないように受け身をとって、何度も続く蹴りをやりすごした。そして上司が呼吸を落ち着かせたあたりで、身を起こす。
「……」
いってえな……これ絶対に体、痣だらけになるだろ。何でお嬢ちゃんが、いつでも長袖の服を着て、スカートを着るおしゃれの時には、分厚いストッキングとかを手放せないのか、よくわかった。
そりゃ、痣の散らばる体は、好きな男には見せられねえな。
手足を庇いつつ、起きあがったおれは上司の料理人を見上げて、しかしこの目つきが、料理人には気に入らなかったらしい。
「なんだ? その目は? 辞めたいなら辞めていいんだぞ? 出来損ないの役立たずのお前に、他に行く宛があるならな! こちらも役立たずがいなくて清々する!」
「料理長、だめですよ、彼女は他に行く宛がないんですから、そんな脅すような事まで言っちゃあ」
そう言って止めてきたのは、パン種を仕上げていると思われている同僚だ。
「そうですよ、師匠。行く宛のない女の子に、そんな追いつめるような事を言っちゃだめですよ。……ね? あなたもほら、早く謝って芋の皮むきとか野菜を洗ったりとかしましょ?」
そう取りなすように言い出したのは、仕事道具を完璧に仕上げていると、他の料理人達に思われている同僚で、お嬢ちゃんはこんな事が日常で、いつも帰ってきてから、包丁のおれを使いながら
「皆優しいの。私の事を気遣ってくれるし、庇ってくれるの、本当にいい人達」
と自分に言い聞かせていた事を、ここでふと思い出した。
そうか。
おれはわかった。わかってしまった。
お嬢ちゃんは、こうしてどんどん追いつめられていったのか。
お嬢ちゃんの祖父母どころか、両親も昨今の魔族の侵略で死んでしまっていて、両親と暮らしていた家も、伯父夫婦といとこに乗っ取られてなくして、料理人が都合してくれた、やけに家賃が高いのに、古くて雨漏りのするアパートしか、帰れる場所も逃げられる場所もなくって。
料理人のところを辞めたら、仕事も見つけられなくなって、詰むから、逃げたくても逃げられなくて。
一生懸命努力すれば報われるって信じようとして、すてきな男との恋と言う甘い夢で、ぎりぎり正気を保っていたのだ。
その夢がなくなって、苦しくてつらい現実だけになって、心がぽっきり折れちまって、お嬢ちゃんは人生を捨てたのだ。
そう思うと、おれは、お嬢ちゃんの振りをしてまで、ここにいる理由はない、と思ったのだ。
ここで、お嬢ちゃんがこんなにもひどい目に遭っていなければ、お嬢ちゃんがいきなりいなくなった事で、仕事先が困らないように、転職の相談とかをしようとか、気を使おうとか、思っていたのだ。
こいつらに、そんな優しさを使う必要がどこにある。
おれは全員を見上げてにらみつけて、口の中に溜まってしまった血を飲み下して、吐き捨てるように言った。
「じゃあ、辞めるわな」
「は?」
「え?」
「な?」
おれが、というか。お嬢ちゃんが、今までどんな理不尽を受けても、大変な事をされても、辞めるなんて絶対に言わないから、辞める、と言われる事は絶対にないと思っていたのだろう。
こいつは何をしても辞めないのだから、何をしても大丈夫。逃げない、と思われていたに違いない。
残念だな、おれはお嬢ちゃんみたいな、普通の女の子の人生送ってねえから。
こんな場所にすがりつくわけがない。
「じゃ、辞めるわ。今月お給料まだもらってないから、これでさよなら。あばよ!」
おれは立ち上がり、仕事のために用意されていたお仕着せのエプロンとか頭巾とかをその辺にたたきつけて、問答無用だと、厨房を後にしたのであった。
呆気にとられた連中を残して。
ああ、気分壮快だ! ……でも、家賃の支払いどうしよう。




