15
それからのイシュトバーンの行動はきっと、速かったんだろう。
おれの頭を雑な動きでなで回して、
「後でまた来る。顔くらいは洗っておけよ」
「失礼だな、顔を洗うくらいの身だしなみは知ってる」
というやりとりをして、颯爽と東の間を出て行ったのだ。
残されたおれの方は、顔を洗ったらご飯をどこで食べればいいか聞かなくては、と言う事に意識が集中した。
用意してもらえないとは考えなかった。
おれはイシュトバーンが入れた客人というもので、朝ご飯を出さないという嫌がらせは、さすがにされないだろうと考えていたのだ。
「何食べられるんだろう」
だってここのご飯、すごい美味しいんだ。軽食という名前の豪華な奴も、すごい美味しかったし、新鮮な痛んでいない物を使っていた。
お嬢ちゃんが、毎日もらってきた野菜屑とは雲泥の差のような野菜たっぷりのスープとかもあったし、お嬢ちゃんの感覚でも、おれの感覚でも、贅沢なごちそうなのだ。
おれは今は一休みの時間なので、ちょっと贅沢なご飯を食べても、悪い事じゃない。
一人で生きていくようになった時に、もっと質素な物にはなるだろうけれど、ごちそうをごちそうだと思える心で居続けたい。
顔を洗って、寝間着から着替えるものがない、おれの着ていた軽くて丈夫な縫い目の服はどこに行ったんだと、誰に聞くか考えていた時だ。
丁寧な動きで叩かれているとわかる音をたてて、扉が叩かれて、そして二段の棚に車輪がついたもの……なんだこれは……を持って、女の魔族がやってきた。
昨日の人とも、夜にいた人とも違う。皆交代で来てくれているのだろうか。
となると、この城の雇っている人数ってどんななんだ。莫大な人数って言う答えが出てきそうで、おれはお城の巨大さに、まためまいがしてきそうだった。
「お食事を持って参りました。お食事の後は衣装合わせになりますから、お腹がはちきれるほどは食べないでくださいね」
「イショーアワセ」
なんだ、あきらかにおれには縁のなかった言葉が向けられている。
「そうですよ。ウォレン様が、お客様にもぜひ、イシュトバーン様のご帰還を見ていただきたいとおっしゃるので」
「いや、連れてきてもらった身の上なんで、イシュトバーンが帰ってきている事は知っているんだけど……」
ウォレンさんが、イシュトバーン帰還のお披露目をするって言ってたけれども、おれにはあまり関係がなくて、関係があるとしたらそのあとの、恩人紹介ってところだけだと思っていたので、その言葉はかなり予想外だった。
「お客様にも、是非、我らのイシュトバーン様を見ていただきたいんですよ、ウォレン様は。あの方はこのときを心待ちにして数百年でしたから」
「……あー」
ちょっとわかったような気がする。きっとウォレンさんは、おれにも、自分の親友がいかに人気者なのかを自慢したいのだ。
自慢して、すごいだろうと誇りたいのだ。
そう言う考えはちょっとだけわかるから、おれは納得して、用意してもらった朝ご飯を、一生懸命自制して食べ過ぎないようにして、歯を磨いてから、きっとそんなに時間もかからないだろう、衣装合わせって物に挑む事になったのだった。
まさか、衣装合わせってのが、おれごときでも数時間を使用するもので、衣装が決まった後も、身頃の調整とか、丈の微調整とか、合わせる靴を大量の物から選ぶとか、思いもしなかったんだ。
思いもしなかったから、比較的気楽に考えて、おれは終わった頃には立っていられないんじゃないかと思うほどに疲弊して、座り込みそうになっていたのだった。
さらにおれにとっての面倒は続き、衣装が合わせられた、靴も大丈夫、装身具も問題がきっとない、とあまたの、妙に浮き足立っている魔族の方々の基準で合格になった後に、イシュトバーンが覗きにきたのだ。
「着替えって見に来る物なのか」
数時間が経過していたから、さすがにイシュトバーンも着替えていた。そこは納得できる。でも納得できなかったのは、おれだって何度も何度も見事の調整だとかなんだを行って、体型にぴったり合わせたのに、イシュトバーンの服は豪華なのにぶかぶかで、見苦しかったのだ。
おれが見苦しいって言うから相当だってわかってほしい。
「心配になってな。似合いの物は選べたらしいな。でもこれはお前らしくない」
イシュトバーンはそう言って、おれが重たいな、必要あるわけ、と内心で思っていた耳飾りを気軽な調子ではずして、代わりに自分の耳に付けられていた物をあてがった。
それでどう納得したのか、満足したのかわからないが、うん、と頷いた。
「お前にはこれの方が似合う」
「似合うも似合わないも全くわからない。鏡見てもわからない」
「お前の美人の基準と一致しないからか? 他に何かあるのか?」
「人間の美醜の感覚がわからない。多少肉が付いているとか、がりがりにやせているとかはわかるんだけどな。適正とか、綺麗とか、まったくわからない」
「苦労するな、お前は」
イシュトバーンはおれが元々は包丁だった事を知っているから、すぐに納得してくれて、頷いた。それから、おれを上から下までまた眺め回して言う。
「靴は大丈夫か。踵の高い靴は慣れていないだろう」
「おれが選ぶわけがないだろう。みなさんが、これの方が綺麗に見えるって選んだのを信じてる」
「慣れない靴で転ばれて、足をくじかれる方が問題だ」
イシュトバーンはそう言って、おれと大悪鬼のやりとりに目を丸くしている魔族達に指示を出す。
「踵の低い、歩きやすい物に変えろ。俺はそろそろウォレンに見つかって説教されそうだからな、戻るが、何か問題があったら言うんだぞ」
「遠慮して言わないとかは、しないかな」
「よしよし」
満足そうにイシュトバーンは頷いて、部屋から去っていった。
そこで話を聞いていた魔族達が、興奮したように言う。
「いよいよって事かしら」
「楽しみ!」
「イシュトバーン様って一回も見た事がなかったけれども、あんな樹木のようなお姿だったのね」
「背丈も高いし、本当に樹木みたいだったわ、私はちょっと理想と違っていて残念」
「でも、お優しいに違いないわ」
「わかります。気に入らないからといって、私達に怒鳴るなんて言う事もなさいませんし」
「きっと、最盛期は大変にすばらしい方だったのだわ……」
彼女達は興奮した調子でそんな事を言い続けた後に、おれの靴をなおしてくれて、それまで笑顔なんて向けてこなかったのに、おれに友好的な笑顔を向けてきてくれて、こう言った。
「これからもよろしくお願いしますね! お方様はお綺麗だから、飾りがいがありますもの!」
「オカタサマ」
また訳の分からない単語が出てきた。おれはもしかして、辞書という物を携帯していなくちゃいけないんだろうか。
誰か意味を教えてくれる相手はいないものか。
雰囲気的に明らかに勘違いされてそうなんだよ。何かわからないけれど、何か面倒なものを。
そう思いつつ、おれはそろそろ時間になるのだと言われて、部屋を出たのだった。
踵のひくい靴に変えてもらって良かった。ただでさえ華奢で綺麗な靴は気を使うのに、踵まで高くて歩きにくかったら、おれはよちよちとしか歩けなかったに違いなかったから。
城には、外から見ただけでもわかるほどに、でっかいバルコニーが城下を見下ろすように広がっていたんだが、イシュトバーンはそこに姿を現すのだという。
派手な帰還だな。と思いつつも、偉い人が帰ってきたってそんな物なのかもしれないので、特に笑ったり、大げさに過ぎるのでは、とは言わなかった。
待っていた魔族は、待ちこがれるほど待っていたんだろうしな。数百年は人間にとってはすごい時間の流れだけれども、魔族だって待つには長い時間だっただろう。
そう言うわけで、おれはバルコニーの出入り口で、イシュトバーンが悠々とした足取りで、バルコニーから、大量に押し寄せているのだろう魔族や魔物達の間に姿を見せるのを見守っていた。
イシュトバーンは長いマントを着た姿で、服はとても豪華で、これが枝きれじゃなかったらな……と思えそうな豪華絢爛さだ。
まさに盛装とか正装とか言われそうな見た目をしている。
そんな、衣装に負けていそうなイシュトバーンが城下に姿を現した事で、それを待っていた魔族達が、おれにまで伝わってくるほど……困惑した。
伝説の大悪鬼が、枝というか樹木というかなんて、普通は戸惑うよな。
でも本人なんだよ、納得してくれるかな……とおれが心配した矢先の事だった。
イシュトバーンが、威風堂々とした調子で、マントを払ったのだ。
びょう、と強い風が吹いて、真紅のそれをひらめかせた。
それと同時に、起きた事を、おれは一生忘れられないだろう。
どんっ、と。
普通は立っていられなさそうな、あまりにも膨大な魔力の発露があった。
それと同時に、同時に……イシュトバーンの姿が、一変したのだ。
枝切れや、棒きれ、枯れた樹木、というたとえ表現がぴったりとしか言いようのなかった姿が、雄々しく猛々しい、筋骨隆々としたたくましい姿に。
申し訳程度に生えていて、まるで冬の芽のようだった頭の角が、ばきばきと大きくなり、まるで豪華な飾りのように、漆黒のそれに変わる。
表情はわかっても、とても美々しいとか、凛々しいとか、肯定的な表現の出来なかっただろう、皮を張り付けただけのようだった顔が、誰もが言葉を一度は失いそうな、いかにも大悪鬼らしい、自信に満ちあふれたべらぼうにすばらしそうなものに。
それらがたくさん混ざり合って、身長はいっさい変わっていないのに、イシュトバーンは三倍くらいに膨れたように思えた。
そんな大変身を遂げた大悪鬼が、城下を見下ろし、見回して、ゆっくり腕を振った。
魔力の発露で動けなくて、でも大変身を見届ける事になったのだろう民衆の魔族や魔物達は、しばらく沈黙していたと思ったら……
爆発のような歓声を上げた。
おれはあまりの大きさに耳をふさいだ。大地が揺れそうな程の喜び方で、民衆の魔族達が、魔物達が、歓喜の声を上げて、
「イシュトバーン!!!!」
とイシュトバーンの名前を呼んでいる。
すごいなんて言葉が、陳腐に聞こえそうな程、誰も彼もが喜んで、祝って、感激して……イシュトバーンの帰還を称えていた。
そして、イシュトバーンはそんな彼らに手を振って応えていたんだが、不意にこっちを見たと思うと、悪い子供みたいな笑顔になって、大股でおれに近付いてきて、おれを当たり前みたいな動きで抱き上げて、おれを連れたまま、またバルコニーに戻ったのだ。
「は? あ? はぁ!?」
何も話してもらっていない行動なので、おれは訳も分からないし、迂闊に暴れてバルコニーの下に転落するのも、お嬢ちゃんの体だからつぶれてしまうし、とイシュトバーンにしがみつく。
イシュトバーンはいい笑顔だ。楽しそうな、いたずらが成功したような笑顔で笑っている。
おれは、こんな事をして皆びっくりしないわけがない、と城下を見下ろす事になったのだが、やっぱり誰も彼もが絶句していた。
でも、突然拍手が響いたと思ったら、申し合わせたように拍手の嵐みたいになって、おれはとてもいたたまれなくなった。
皆何を思って拍手してんの。おれが恩人だって事がもう城下いっぱいに伝わってて、お礼の代わりに拍手してるの?
「なあ、どうなってんだよ」
「今はただ、祝われておけ」
「……それだけでいいのか?」
「俺がいいと言っているからな」
今は、この場面に慣れていそうな大悪鬼の言う事を聞いておくか。
おれはとにかく、抱えるイシュトバーンから落とされない事だけを考えて、その場をやり過ごしたのだった。