11
「ノーシさんですか。聞き慣れない響きですね。女性の名前としても珍しいのでは?」
「色々あるんだ」
おれはウォレンさんの、こちらを見抜こうとする眼力にちょっとたじろぎそうになったが、悪い事をしているわけでも、たくらんでいるわけでもないので、ここは堂々としなくては、と平静を装った。
「そうでしたか。誰しも事情という物をもっていますからね。失礼いたしました」
ウォレンさんは人格の出来た魔族のようで、おれに対してそれ以上の追求をしてくる事はなかった。
確かに、包丁って名前の女の子って、普通いないから、訝しむのも不思議ではないだろう。
もうちょっと、おれも女の子の名前に興味を持っておくべきだったか。
それか、お嬢ちゃんの名前を、覚えておくべきだったか。
しかし、お嬢ちゃんを名乗るのはあまり気持ちのいい事じゃないから、結局おれは、ノーシと名乗っている気がした。
「では、こちらへ」
そういい、ウォレンさんが、明らかに普通の身分では通る事も少なそうな、特別な通路みたいな場所を案内してくる。
「ここ、普通の道じゃないんだな」
おれはイシュトバーンにそう言った。
「感じ取れるのか? ここは城への短縮通路だ」
「距離が短くなるわけか?」
「察しがいいな。距離を短縮する術を施してある」
「なんか、魔力を大量に食らいそうな術にしか思えない」
そういった術って、燃費悪いんじゃないのだろうか。おれは魔法使いでも賢者でもないから、詳しくないんだが、そんな事を少し心配してしまった。
「まあな。ばからしいほど食うぞ」
おれの言葉に対して、イシュトバーンはあっさりと肯定した。
そんなに魔力を使うのか。誰か倒れそう。
「使っている奴が魔力切れを起こして、倒れそう」
「逆に倒れる程度の奴は使えないからな。それだけで一種の基準にもなる」
なんだかよく分からない話にも思えたのだが、そうやって特別な通路を進んでいくと、思ったよりもずっと速く、門から遠くに見えていた城の前に、到着していた。
「すごいお城だ……こんな大きなお城、聞いた事も見た事もない気がする」
あまりの巨大さとか、立派さとかで、おれはそんな事しか言えなかった。いや、言葉がでてこないすごさなんだよ。
何これ。人間の世界でこんな建物、今もあるか?
「魔界でも指折りの大きさのはずだぞ、なあ、ウォレン」
「ええ、その通りですね。最近増築を重ねているという、大悪魔の新しい居城の方が、大きいかもしれませんが」
「なんだ、あいつは昔から建築道楽だったが、変わんないのか」
おれの知らない、誰か知り合いの話のようだ。大悪魔って……どっかで聞いたかもしれないが、覚えていないからはっきりともわからない。
「何しろあちらは、日常的にどこかを壊すほどの小競り合いを起こしていますからね」
「聞いてて不吉な気分になってきた」
「こっちまで火の粉が飛ぶ前に、何とかするから大丈夫だぞ」
「そうなのか?」
「国を守るのも、仕事の一つだからな」
……やっぱり、この国でイシュトバーンは、割と高い地位についているんだろう。帰りを待ちわびられるほどには、立派な肩書きがありそうだ。
でもお城の前の警備の魔族達は、ウォレンさんを見てから頭を下げて、それから不思議そうに、イシュトバーンやおれを見る。
確かにこの三人をぱっと見たら、一番偉い地位についていそうなのは、綺麗な服を着たウォレンさんだ。
でも、イシュトバーンのすごい気配に、魔族なのに気付かない物なのか。
それとも、大悪鬼が驚かせる予定で、隠しているのか。
答えはでそうになかったけど、おれは彼等の歩く後を追いかけて、大きくて立派なお城の中に入っていったのだった。
「では、ノーシさんは」
ウォレンさんが、きっとすぐにイシュトバーンに報告したくて、おれには聞かせたくない話をしたいんだろう。さりげない調子で、おれと大悪鬼を別行動にさせるために、口を開いた時だ。
「東の間は使い物になるか?」
ウォレンさんに、イシュトバーンが問いかけた。東の間と聞いて、ウォレンさんが一瞬だけ目を見張った後に言う。
「ええ、いつでも準備を整えられます」
「こいつにはそこを準備してもらおう」
「かしこまりました」
イシュトバーンの言葉に、誰かが準備のためか走っていくのを、目の片隅で見たおれは、聞いてみた。
「東の間って何だよ」
「見てのお楽しみだ。悪い場所じゃないぞ」
「悪くないならそれでいいか」
おれはそれ以上を聞かないで、見てのお楽しみと言うイシュトバーンを信じる事にした。
それくらいは信じられる相手だと、ここまでの道中で、知ったからでもある。
「準備が整うまでは、俺の部屋で待つといい」
東の間の準備に、どれくらい時間がかかるのだろう、と思っていると、待っている間、いても問題がない場所だろうところを、イシュトバーンが勧めてくる。
だがこれに、異を唱えたのはウォレンさんだった。
「イシュトバーン。いきなりあなたの部屋に入れる事は出来ません。お客様なのですから、応接室で、ゆっくりとしていただきましょう」
「わかったわかった。丁寧に頼むぜ」
「では、ノーシ様、こちらに」
そういって、すすっと近付いてきた、綺麗な見ごなしの魔族は、猫みたいな耳をした、美人さんだった。
「ええと、よろしくお願いします?」
何というのが正しいのか、まるでわからないんだが、とりあえず普通は言いそうな言葉を言うと、猫の魔族は微笑んだ。
「はい。ノーシ様はお好きな物がありますか?」
「えっと、美味しいものが好きです」
「そうではなくて、甘いとか、塩気がある物とか」
そう言う事を聞かれているのか、と戸惑いつつ、おれは素直に言った。
「そういった好みを優先する環境になかったんで……何が特に好きとか、わからないんだ」
猫の魔族はそれを聞き、ちょっとひきつった顔になった。それはウォレンさんも同じらしく、一瞬ひきつった反応を見せていたのだった。
まあ、ぱっとこれだけ聞いてみると、おれがかなり悲惨な生活を送っていたように捉えられてしまうだろう。
単に、生き物としての人生を始めたばかりだから、自分の好みとかがよくわかっていないだけ、なんだけれども、それを詳しく言わなかったら、なんもならなさそうだった。
「では、厨房の物に腕を振るって、簡単に食べられる物を用意させますね」
速やかに猫の魔族は態度を立て直し、おれに丁寧にいうものだから、ちょっと背中のあたりがくすぐったかった。
丁寧に喋ってもらうなんて事、未経験だしな。
「じゃあ後でな」
イシュトバーンがそう言って、せかすウォレンさんの後を悠々と歩いていく。
本当に余裕のある態度で、ほとんどの魔族が怪訝そうな顔をしているのに、それを気にするそぶりもない。
事実として、イシュトバーンは自分が何者かわかってて、気にするなんて事が必要ないんだろうな。
そんな風に思ったおれも、猫の魔族が案内するがままに、応接室と言う場所に案内してもらったのだった。
途中の道中でも、おれは包丁として存在している間も、遠い昔剣士の背中に背負われていた時も、見る事のなかった、あまりにも立派な建物の内部に、足を何度も止めそうになった。
知らない世界に足を踏み入れてるって感じしか、しないんだもの。
それくらい、すごいんだ。
何度も足を止めかけて、追いかけてこない事から振り返る猫の魔族にちょっと頭を下げて、を繰り返していたら、彼女がこう言った。
「ノーシ様は、あまりこう行った場所も見た事がないんですか?」
「はい。全くない」
「では、何度も足を止めてしまうのも、仕方のない事ですね。この城はこの国随一の建築家が、技術と才能を惜しむ事なく計画し、建設に当たった城ですから」
「本当に綺麗で、正直に言うと、歩いている床も踏んでいていいのか、悩んでる」
「大丈夫ですよ。毎日磨いてますから」
毎日磨いてたら大丈夫な物なのか。その基準がわからないながらも、応接室に案内されて、そこの立派な椅子を勧められて、言われるがままに座って、思った。
「この椅子、そこら辺のちょっといい宿の寝床より立派だ」
それくらい座り心地がいいのだ。なんでこんなにいいんだ、と口にしたくなるほどにいい。
程良く体を包み込む感じとか、高さとかが絶妙だ。
椅子に座る経験もほとんどないまま、この国に来たおれだけど、経験がなくても、すごいってわかる一流の物だった。
軽食って軽い食べ物って事なんだろ、でもおれからすると、お嬢ちゃんの大事な夕飯よりも豪華で、これを軽いって言う世界が恐ろしい世界だと、ちょっと背筋がふるえそうだった。
肉が挟まっているパンや、新鮮な野菜を使ったもの。とにかく名前も調理法もわからないのに、おいしそうって感じる物を出されて、おれは、まだ体の中にお嬢ちゃんの記憶として、食事作法ってものがあったから、たぶん野生の獣よりは見苦しくなく、軽食を食べられていただろう。
今までは携帯飯を手づかみって事ばかりで、食事を丁寧に食べるなんて場面なかったので、みっともない食べ方しか出来なくなる前に、お嬢ちゃんの記憶だったものを思い出せて良かったのだろう。
おれが一度思い出した記憶は、おれの側にも積み重なるから、完全に忘れるって事もなさそうだしな。
用意された物を食べて、応接室のいろいろを何となく眺めている間に、時間はあっという間に過ぎたんだろう。
応接室の扉が叩かれて。中に入ってきた魔族がこう言ってきたのだ。
「東の間の準備が整いましたので、案内させていただきますね」
「はい、よろしくお願いします」
そう言って、また豪華な城の中を歩き、おれは確かに東の方角に進んでいくから、文字通り東の間って東にあるんだと感心しつつ、その場所に入ったのだ。
「すごい。海が見える!!」
「そうですよ。東の間は、城内でも指折りの、窓から見える景色がすばらしい部屋になります」
おれは扉を開けてすぐに、目に飛び込んできたバルコニーと、その先の海に大声を出し、案内してくれた魔族にそう言われた。
「いい場所なんだ」
「はい。滅多な方はここに案内されないんですよ。ここ数百年もの間、ここに滞在した方はいません」
「そんなすごいところを案内して良かったんだろうか」
「ウォレン様が了承なさったのですから、間違いはありませんよ」
やっぱりウォレンさんは結構、偉い立場なんだろうな。
そう思ってから、おれは、バルコニーを指さした。
「あっちを見に行っても大丈夫?」
「はい。どうぞ心行くまで、見回ってくださいな」
「ありがとう」
そう太鼓判を押してもらい、おれはバルコニーに走っていった。
海なんて、溶かされる前、鍛冶職人の仕事場が海に近かったから、その時に見たのが最後なんだ。
あの海も、海辺の町だから広かったけれど、動く事もできない包丁の身の上だったから、窓からちょっぴり見るだけだったな。
「ふわあああ……すげー! 海って広い! 広くて潮の匂いがする!」
匂いって奴も、お嬢ちゃんの体に入り込んでから体験する物で、色々な匂いがあると体験しまくっているものだ。
とてもたくさんの匂いがこの世にはあって、不愉快とか愉快とか、そんな気分にさせる物から、お腹がすく匂いとか、香ばしいって言われる匂いだとかも、どんどん経験している真っ最中なんだ。
潮の匂いは、どうしてかわからないけれど、心が弾むと言えそうな匂いで、愉快になる。
こんないい場所案内されて、おれは本当に恵まれているけれども、イシュトバーン、ここ案内して大丈夫だったんだろうか。
そんな事をちょっと思いながらも、おれは室内を色々見て回ったのだった。