黒城に叫ぶ 9
一方、城下に屯集した数千もの百姓たちは、興奮しきっていた。
「年貢を下げろ」
「どれだけわしらから搾り取れば気が済むんじゃ」
「ちとはわしらのことも考えてくだされ」
総掘を囲うようにして蓑傘姿の百姓たちが、悪の化身のように黒々と聳え立つ松本城に向かって叫ぶ。
二刻ほどはその飛び交う怒号が続いたであろうか。
義理は果たした、これで家に火をつけられることもないだろう、とぽつりぽつりと帰村しはじめる者も出てきた。
しかし、お城からの返答はまだか、とさらに苛立ちを募らせる者が多数を占めていた。
そんなときである。
「籾様がとやかく言われるのは、米屋が原因ではないか」
「米屋が、武士方に籾様が悪いと言って換金の値を吊り上げているから踏み磨きをせにゃならなくなるんだ」
「米屋憎し」
微かだが加助の背後でそんな声が聞こえたような気がいた。
(まずいかもしれぬ)
加助は己の背筋に一瞬、ひやりと冷たいものが走ったような気がした。
城下に来る道中、御門や木戸冊への手出しはしてはならぬ、と皆に言い含めてきた。
その通り、二刻の間、門や木戸冊を打ち破って城内への侵入を図る者はいなかった。
しかし、百姓たちが町方へ乱暴する可能性までは考えていなかった。
大門橋前で鎮座していた加助は、すっと立ち上がると、何も言わずに南の本町沿いへと駆け出した。
「どこへ行くんじゃ」
彦之丞は、何の前触れもなく突然走り出した兄に向って叫んだ。
「お前も付いてきてくれ」
加助は叫び返すと背後を振り向きもせず、一目散に駆けて行く。
どうしたのかといぶかし気に彦之丞がそれについていった。
善行寺街道が南北に伸びており、松本城はその直線上に立っていた。
街道を南からお城に向かって進む道を本町といい、町人町となっていた。酒屋、味噌屋、たばこ屋、鍛冶屋、桶屋などが軒を連ね、平時ならば商人や職人で活気に満ちている。
その通りは蓑傘姿の百姓で埋め尽くされ、町人たちは店の戸を閉め切って外の異様な様子を恐る恐る窺っていた。
人をかき分けながら少し進むと、向こうから何か木製の物をたたき壊すような激しい音が聞こえてきた。
「何をしておる、やめんか」
加助が駆け付けたときにはもう遅かった。
どこの村の者かわからないが十人ほどの百姓が、本町一丁目の米屋、五郎右衛門の家に押し入り、家財道具のみならず、家や蔵までも壊していたのである。
すでに裏から逃げたらしく、家の者は見当たらなかった。
「年貢が上がるのは、米屋が藩役人に籾の出来が悪いと告げ口するからじゃ。米屋はわしらの敵じゃ」
三十ばかりに見える男が、乱暴を止めさせようとする加助と彦之承に向かって吠えた。
「この訴訟に敵はないのだ。藩の役人にわしら百姓がどれだけ困っているかをわかってもらうための訴訟なんだ。藩の政をよりよくしてもらう。そういう訴訟なんだ」
そう言う加助の表情は、収納日、中萱村でもめごとが起きたときに納手代に向けた冷たい表情であった。
その打ちこわしは、善右衛門ら庄屋たちが来てくれたことで何とかやめさせることができた。
この日、米屋万右衛門宅も被害にあっていた。
騒然とした雰囲気の中、十月十四日の日が暮れた。