黒城に叫ぶ 3
「十年前、松代藩で起きた訴訟の一件についてはご存じか」
取りやめとなった収納の日から二日が立った晩である。
近隣の村の庄屋達を己の屋敷からそれほど離れていない、権現の森の熊野神社に呼び集めた加助は、燭台の灯りに顔を揺らしながら静かに言った。
「助弥様の訴訟かい。そりゃ、ここいらで知らぬ者はおらんでしょう」
答えたのは、中萱村の隣にある楡村の前庄屋、小穴善兵衛である。
それほど齢の離れていない善兵衛tとは、古くから付き合いがあり、此度の会合も二人で話し合って設けた場であった。
「助弥様らの幕府への直訴は、認められたそうだ。我らも直訴すれば、年貢を減らしてくださるかもしれん」
加助は、外に人気がないのを確かめつつ押し殺した声で言った。
「そりゃいかん。その直訴は、傘連判状にして頭取をわからなくして幕府に提出したそうだが、のちに筆跡から三人の首謀者が露見し打首になっておる」
執田光村の望月与兵衛が首を振りながら言う。
松代藩の直訴とは、延宝四年(1674)、二斗八升の年貢を松代藩が三斗に引き上げたのに対し藩領の百姓たちが減免の訴願を行ったが聞き届けられず、高田村の原助弥が中心となり傘連判状で幕府に直訴したのである。直訴の中心となった助弥ら三人が打首の刑になっているが、藩は二斗八升に年貢を戻した。二斗八騒動と呼ばれており、助弥は藩領の農民たちに感謝され、崇められているという。
「しかし、我らがやらねば、誰が百姓らを救えるというんじゃ」
知らぬうちに己の声に熱が入るのを加助は感じた。
加助はすでにある決意をしていた。このように密かに徒党を組み、直訴の談合すること自体が藩に背く行為であることは承知していた。
本殿の中がしんと静まり返る。
集まった十四人の男たちの息遣いが互いに手に取るようにわかる気がした。
「方法はそれしかないんか」
大妻村の小松作兵衛が沈黙に耐えられなくなったのか口を開く。
「皆を巻き込むことになり、すまないと思っている」
加助が声の調子をさらに落として言った。
「庄屋でなくなったいま、皆に頼るしかないんじゃ」
実は以前、加助は二度訴訟を起こしたことがあった。
一度目は延宝二年(1674)、二度目は延宝八年(1680)であった。
両年とも、松本藩は百姓に対し踏み磨きを命じたのに対し、庄屋であった加助らが村を代表し、松本城の代官のところへ行き、踏み磨きの免除を訴えている。
新しい草鞋を履き、足踏みをしてのぎを取り除くことを「踏み磨き」といったが、これは大変な労力を必要とした。
どちらの年も訴訟代表者らは蔵込めの刑になっているが、踏み磨きの免除には成功していたのである。
二日前、納手代が「またお前か」と言ったのにはこうした理由があった。
そののぎ取りの命令が今年またもや復活したのである。
さらには、三斗五升という増徴である。
再び代官に訴えればよいのだが、加助は以前とは立場が変わっていた。
庄屋という肩書がなくなっていたのである。
庄屋とは村役人であり、身分そのものは百姓であった。その土地の有力上層農民であり、村を代表して代官に訴願したり、貧しい村百姓の年貢を肩代わりしていた。
江戸に幕府が開かれる以前、つまり戦国時代、「肝煎」と呼ばれる在郷小領主が存在しており、戦国大名はこれを支配下に組み入れることで、領地を確保してきていた。
肝煎は、江戸時代に入ると庄屋、または名主と呼ばれ、藩はこれらを村の代表役と位置付けた。
加助の先祖は、武田二十四将のひとりである多田淡路守と伝わっているが、はきとしない。
多田淡路守は、武田信玄の佐久郡侵攻の際、小田井原の戦いで活躍したという史料が残っており、永禄六年(1563)に病没している。二十九の軍功を挙げ全身に二十七か所の傷があったことや妖怪を退治したという勇ましい逸話が数多く残っている。
一方で多田淡路という別の人物が史料で確認できる。天正十二年(1584)、松本城を治めていた小笠原貞慶が当時上杉家の支配下にあった青柳城を攻める際、「南のおねさきへ多田淡路、有賀飛騨被仰付、大手を破り申候」という。
加助の祖先はこちらの人物だったかもしれない。武田信玄の五男である仁科盛信が安曇野郡を治める際、甲斐から安曇野へ付き従ってやってきた武士だったのではないか。それが武田家滅亡、天正壬午の乱を経て、南安曇野郡に土着し在郷小領主となったのではないだろうか。
いずれにせよ、六年前まで加助は庄屋であった。
それが天和元年(1681)に「身上罷りならず」という理由で庄屋役を召し上げられてしまっていた。楡村の善兵衛も同様であった。
「身上罷りならず」とは、財力がなくほかの百姓の肩代わりができない、ということである。
それは表向きの理由で、要は藩が各村を支配するうえで加助ら在郷有力農民が邪魔になったということである。
「わしらはこれまで飢饉を何とか耐え忍んできた。村の子供たちにも同じような思いをさせたくないんじゃ。頼む」
ここに集まった庄屋達も加助と同じく、子がそれぞれあった。なかには庄屋同士ということで血縁者が縁組した者もいたのである。
両手と額を床につける加助を見た庄屋達は、それぞれ顔を見合わせて頷きあった。
灼台の灯りに照らされたどの顔も覚悟と緊張で引き締まった表情をしていた。