黒城に叫ぶ 16
10月18日、三斗挽きの回答書に納得しない百姓たちが馬喰町付近の河原で屯していた。
「一揆に参加しない村に火を放つと騒いでおります。本当にそのようなことをしでかせば、一大事でございます。そうならずとも、頭取たちは江戸に直訴に及びかねない様子。十年前の松代藩の例もござりますれば……」
帰村するように百姓たちを促したが、一向に去る様子がない。
それどころか、三日後には江戸へ参る、とまで宣告されたのだ。
博労町から城内に戻ってきた目付の岡島権平が、本丸御殿の広間に集まる藩役人たちを前に言う。
「まずは、この騒ぎを沈めるめ、兎に角百姓らを村へ帰らせるのが先決でございましょう」
相変わらず苦虫を嚙み潰したような顔で黙りこくっている城代家老の鈴木主馬は、もうこのような意見は聞き飽きたとでも言わんばかりに、深い溜息をついた。
歳も七十に近いと思われるが、この四日の間で顔の皺がさらに増えたように見えた。
「いっそのこと二斗五升を認めてみてはいかがか」
年寄の土方縫殿之助が言う。この男、居並ぶ者の中では最高齢であり、実はというとこれまで閉門を言い渡されていたが、是非意見をということで、三日前から登城し評議に参加することを許されたのである。
城代家老の鈴木主馬とは意見が合わず、年貢増徴を託らむ主馬とは幾度となく対立してきており、増税反対派であった。そのため、鈴木主馬に閉門を言い渡されていたのである。
「……」
腕組みをしたたま俯いた鈴木主馬は、沈思したままであった。
三斗が限度である。
勘定奉行にいくらそろばんを弾かせても、これが答えであった。
領域を接する高遠と諏訪の両藩は、籾二斗五升挽き納めである。それに対し当藩はなぜ三斗挽きでなければ財政を保つことができないのか。参勤交代があること、近年不作であることは近隣の諸藩はどこも同じである。要因は、越後高田城の城番務めであった。
越後国の高田藩は松平家が治めていたが、延宝九年(1681)に家臣たちの争いで御家騒動が起こり改易処分を受けていた。空き城となった高田城に次の城主が定まるまで、在番することを松本藩が幕府より命じられていたのである。
人足や武士を高田の地に送り、住まわせることだけでも費用が掛かった。重ねての不作続きである。しかも、天の先のことは誰にもわからぬ。
二斗五升挽きでは、いかんとも藩の財政が保てないのである。
「お主らが三斗五升に納めを増やしたがために、百姓らの怒りがこうして爆発したのだぞ」
己の言葉で圧倒され物も言えぬのだろうと、続けて土方縫殿之助が言う。
(下からの体面のみを気にしおって、我らの苦悩も考えずいい気なものよ)
鈴木主馬は、ふんと鼻を鳴らした。
「いまは一時も早く城下の百姓らを帰村させることが肝要。そのために、二斗五升の布告もやむを得ないだろう。それよりも……」
それよりも先の事だ、と言おうとしたが鈴木主馬は言葉を濁した。
このような訴訟を二度と起こさせないためにはどうしたらよいかを話し合うのは、今でなくてもよいと思ったからだ。
「二斗五升の御達書をつくる」
鈴木主馬の頭の中には、あの加助をいかにしようかという考えだけが渦巻いていた。