ビターチョコレート
「君とはこれまでだ」
そう切り出されても、あまりショックを受けなかった。
私達の恋は熱しやすく冷めやすいものだったらしく、上手くいっていたのは最初だけだった。
花粉症が酷い。ストレスでニキビまでできた始末だ。
何度も鼻を噛んで、私はできるだけ元気に言った。
「ちゃんとした物食べるんだぞ」
彼、青木竜は芸能人のような名前に負けず芸能人のような顔をしていた。
「栞は強い子だな」
別れたばかりのカップルなのに2人共笑っている。泣かないように無理に元気を振り絞っているのかもしれなかった。
夏の虫がマンションを囲っている。蝉が煩いぐらいに喚いていた。
ボロマンションなのに愛おしい。竜が何度も抱いてくれたダブルベッドがあるからかもしれない。
「竜は缶ビールばかり飲むから絶対、料理のできる女の人が必要だよ」
竜の手が伸びて来る。頭を撫でようとして躊躇したようだった。
私はニッコリ笑って、竜の手を頭の上に押し付けた。
竜が安心した様子で、頭をクシャクシャに撫で回す。
「私達、結構上手くいっていたよね」
「ああ。俺は栞のこと、愛してたよ」
痛烈に心に刺さる。
「やっぱり過去形なんだね」
私は竜の白いワイシャツを引っ張った。
「こうして竜を困らせるのも最後か」
竜の唇が動こうとして何度も躊躇う。
「もう終わりなんだ。分かってくれ」
「あの女のところに行くんだね」
竜は否定も肯定もしなかった。ただ、一言「さよならだ」と告げる。
私は自分の心を無視して明るく竜に倍返しで言ってやった。
「さよなら、元気でね!!」
森林浴ができそうなぐらい辺りは鬱蒼と茂っている。蝉達のユートピアだ。
竜が行ってしまう。
私は伸ばしかけた手を抑えてマンションの中に入った。
嗚咽が止まらない。もう誰も信じられない気分だった。
あんなに「愛してる」って言ったクセに。
私の世界を彩らせたクセに。
自分勝手だよ。
会いたい。
私は自分の弱さのあまり驚かざるを得なかった。
一応、自立した女のつもりだった。だが、男1人消えただけで生きてる意味すらあやふやになる。
台所のテレビの横に大きな熊のぬいぐるみがあった。
竜が付き合って2年の記念にUFOキャッチャーで取ってくれたものだ。3500円以上放り込んでやっと手に入れた代物だった。
ぬいぐるみを持ち上げてみる。竜の好きな香水の匂いが纏わりついている。
もう二度と竜に会えないんだ。
携帯が鳴った。
涙をグイッと拭うと乱暴に通話ボタンを押した。心の中で悪態を吐いていた。
「誰?」
年老いた母からだった。
「どうしたの、栞」
「何もないよ」
本当に何もない。意味はそのまんまだ。
母は老いてはいたが、元気だった。
「怒ってるみたいだったから。ごめんなさいね」
私は母に八つ当たりするのを止めた。
「こっちこそごめん。ちょっと仕事のストレスでピリピリしてて」
簡単に嘘がツラツラと述べられる。才能があるのかもしれない。
母はしばらく、地球温暖化のことやプロ野球のことや政治家の失態のことを話していた。
「青木君とは上手くいってるの?」
私は何とか誤魔化そうとした。
「昨日、カボチャパイ作ったんだけど、焦がしちゃって。ハロウィンじゃなくて良かったと思っていたんだよ」
母の勘は鋭かった。
「栞、アナタ何か隠してない」
私はしばらく黙りこくった。時が止まったように感じた。母に言っていいものだろうか。2年半月で終わったビターチョコレートのような恋物語。
「お母さん、私ね、失恋しちゃった」
声が震える。涙は不思議と出なかった。
母は優しく囁いた。
「人生、何事も経験よ。次の男を逃したらお母さん、栞を張り倒すんだから」
母のジョークに空笑いし、電話を切った。
次なんてないと思う。ここ日本では1億人の人がいて、その内5割以上が男だが、こんな私を好きになる人は余程の物好きだ。
貧乏で顔も平均並みで不器用でワガママでーー。
竜は私のどこを好きになったのだろう。
私はまだ竜が好きなままだった。
初めて電話した時の震え声を聴いた時から運命を感じていた。
あの頃から私は変わっただろうか。
竜の隣を歩いているのは私ではない。顔の知らない赤の他人だ。
竜が買い溜めしていたビールを冷蔵庫から出し、一気に呑んだ。
キンキンに冷えていて、夏の鬱陶しい暑さを和らげてくれる。
明日、またオフィスレディの仕事だ。
泣くなら今の内だ。
竜に会いたい。
竜からのプレゼントをかき集め、竜の部屋だった場所に一気に放り込んだ。
心の中で唱える。
ーー封印。
そんなことしても辛いだけなのは分かっていた。だが、竜との時間を思い出すキッカケは少ない方がいい。
夏の暑さに溶けるビターチョコレート。甘くて苦い。私の嫌いな味だ。
竜、アナタの帰る場所はもうここにはないんだよ。
意地悪女がニタリと笑っていた。その眼からは雫が滴っていた。