1話、いきなりの出来事
1話、いきなりの出来事
私は不意に、立ちくらみを感じて尻もちをついてしまった。
グラグラと視界が揺れる感じに合わせて、吐き気にも苛まれる。さすがにこの場で吐いてしまったら、まずい。何せ、ここは人通りが多い大通りの一角なのだ。道を行き交う人々がチラチラと見ては、通り過ぎていく。
(……どうしよう。カバンの中に、確か薬があったはずだわ)
私はのろのろとカバンに手を突っ込んだ。ガサガサと探す。漁っていたら、目的の物があった。それを出すと、ゆっくりと立ち上がる。人々が避けて歩いているから、踏まれたりぶつかったりする危険はない。なるべく、道の端に寄った。紙に包まれた丸薬を口に含む。カバンの中から、竹筒を出す。それの蓋を開けて水を一気に呷る。
ふうと息をついた。竹筒の蓋を閉めたら、カバンにしまい込む。しばらくは、端でじっとしていた。
不意にこちらにやってくる人がいる。よく見たら、背の高い青年だ。
「そちらのお嬢さん、顔色が悪いけど。大丈夫ですか?」
「……大丈夫です」
私が素っ気なく言ったら、青年は眉を八の字に下げた。困惑しているようだ。
「大丈夫そうには見えませんよ。せめて、医師の元へ連れて行きます」
「えっ」
「さ、掴まってください」
青年はよく見ると、かなり良い身なりをしている。パリッとした白いシャツに黒のスラックス、ブラウンのジャケット、磨き抜かれた黒い革靴。シンプルな服装だが、仕立てが良いし何より上品さが隠しきれていない。たぶん、どこぞの豪商の息子か貴族の子息だと思われる。
差し出された手に疑いの目を向けた。
「あの、本当に大丈夫ですから」
「あなたは、医師に診てもらった方がいい。何、お代は私に言ってくれたらいいですよ」
「何が目的ですか?」
私は余計に警戒を込めて、睨みつけた。青年はチッと舌打ちをする。
「……ここだと、人目が多いな。お嬢さん、ちょっと失礼しますよ」
「なっ?!」
青年は初対面のはずなのに。私にぐっと近寄ると、しゃがみ込む。背中と膝裏に両手を差し入れる。そのまま、目線がぐんっと上がった。気がついたら、横抱きにされていたのだ。
「は、離して!」
「暴れんなよ、人目につかん場所に行くだけだ」
「……私をどうする気?」
「なあに、お前さんを宿屋に連れ込もうかと思っただけさ」
「やっぱり、それが目的だったのね」
私は諦めたふりをして、体から力を抜いた。宿屋に着いたら、奴は私を一時的に降ろすはずだ。その隙をついて、逃げるしかない。静かに逃げられる時を待った。
青年は、宿屋に着くと入口の前で私を降ろした。
「さ、俺が鍵を受け取ってくる。ここで大人しく待ってろよ」
「はい」
「じゃあ、行ってくる」
青年が宿屋のドアを開けて、中に入っていく。私は今だと思った。体を低くさせて、一気に駆け出す。カバンが重たくて肩に食い込む。痛いけど、我慢だ。息も切れるし、足がもつれる。それでも、必死で走った。
何とか、宿屋から離れて元の通りに出られたが。まだ、不安で自宅を目指す。背後からまた、声をかけられた。
「あれ、あんた。マチルダじゃない?」
「あの?」
私が振り向くと、そこには栗毛色の髪に淡い緑色の瞳の背が高い女性が佇んでいた。年の頃は20歳を少し過ぎたくらいだろうか。
「あ、久しぶりだからわかんないか。あたしだよ、エレインだよ!」
「エレイン義姉さん?あの、兄さんの奥さんの?」
「そう、旦那からあんたを探すように頼まれたの。まあ、ここじゃ何だから。馬車に乗ろっか」
女性――エレイン義姉さんは私の腕を掴み、引っ張る。大人しく付いて行く事にした。
「ふむ、マチルダ。あんた、確か本屋に行って。小説を買いに行ったんだったわね。それがどうして、あんな大通りから逸れた所にいたの?」
「えっと、大通りを歩いていたらいきなり、気分が悪くなって。それで道の端に寄って、カバンからお薬を出したの。それを飲んだまでは良かったんだけど」
「それでどうしたの?」
「うん、しばらく端っこにいたら。いきなり、見知らぬ男性に声をかけられて。最初は医者に連れて行くと言ってたんだけど。しまいには宿屋に行こうって言われたのよ」
「え、本当に?!」
私は頷いた。エレイン義姉さんは、驚きに目を開いた。
「……危なかったわね、それで隙をついて逃げてきたの?」
「うん、男性が宿屋に先に入って行ったから。外で待ってろって言われて。従うフリをしたの。男性が宿屋に入った瞬間を見計らって、走って逃げてきたんだ」
「成程、怪我がなくて良かったわ。けど、体調が悪いんだし。直ぐに屋敷に行きましょ」
私はまたも頷いた。義姉さんは、御者に馬車を出してくれるように言う。こうして、2人で屋敷に帰った。
私の実家は、この国でもまずまず歴史がある子爵家だ。エレイン義姉さんは4歳上の実兄であるアンドリュー兄さんの奥方で、元は男爵家の出身であった。
ちなみに、私や兄さんの家名はケリア子爵家だ。つまり、フルネームは私の場合はマチルダ・フォン・ケリアとなる。義姉さんもエレイン・フォン・ケリア子爵夫人だ。
現在、私は21歳でアンドリュー兄さんが25歳、エレイン義姉さんは23歳だった。兄さん達には年子で3人の息子がいる。
可愛いが、やんちゃ盛りでもある甥っ子達だ。長男がイアン、次男がウェルター、三男はエクシオという。ちなみに、私にも婚約者がいた。名をエイベルと言い、3ヶ月後には結婚する予定だ。
エイベルとは既に、一夜を共にした仲だが。けど、そのせいで私は実家を出奔する。たった1人でだ。婚前交渉は、この国でだと恥ずべき事だと考えられていた。それが婚約者同士であっても。だから、現在は王都の片隅にあるアパートメントにて暮らしていた。私には幸いにも頼れる親戚もとい、兄もいる。まあ、兄夫婦には凄く心配と迷惑をかけているのは自覚しているが。
「……マチルダ、考え事もいいけど。もうお屋敷に着いたわよ」
「あ、本当?」
「ええ、さっさと降りましょう」
私は頷いて、先にエレイン義姉さんから降りてもらうように促す。後で私も御者に手を貸してもらいながら、降りた。
お屋敷もとい、兄の邸宅に入らせてもらう。エレイン義姉さんは、応接室に通してくれた。
「まあ、ゆっくりしていきなさいな。お茶とお菓子くらいは出すわよ」
「あ、お構いなく」
「それで、マチルダ。あんた、顔色が凄く悪いわよ。今から医師を呼ぶから。すぐ、診てもらいなさい!」
私はとっさに断ろうとした。けど、エレイン義姉さんはメイドを呼んだ。
「ちょっと、いいかしら。マチルダの体調が優れないようだから、すぐにイェール先生を呼んで来て!」
「わ、わかりました!」
メイドは頷くと、走って行ってしまう。エレイン義姉さんは、逃さないぞと言いたげな顔でにっこりと笑った。諦めてため息をついたのだった。
その後、医師のイェール先生がやって来た。40を少し過ぎたくらいの穏やかそうな男性だ。灰色の短く切り揃えた髪に同じ色の瞳、白衣を着ている。
応接室から、義姉さんが客室へ連れて行ってくれた。ドアを開けて中に入る。3人掛けのソファーに義姉さんと私が、向かいのソファーに先生が座った。
「では、診察を始めます。そうですね、体調が優れなくなったのはいつ頃でしょうか?」
「今日の昼頃、2時間も経っていませんね」
「ふむ、症状を訊いてもいいですか?」
私は先程に感じた、目まいや立ちくらみ、吐き気などについて簡単に説明した。先生は頷くと、私のすぐ近くまでやってくる。
「成程、では失礼します。脈拍などを調べさせてください」
「はい」
先生は私の下瞼を引っ張り色などを確認したり、口を開くようにも言う。舌の状態を見る。後で、幾つか触診などを行い、先生は1枚の紙に何かを書き込んでいく。いわゆるカルテを作っているらしい。
しばらくして、先生は顎を擦りながら診断結果を告げた。
「……ふむ、目まいに吐き気。食べ物の匂いがしたりすると、気分が悪くなったりしませんでしたか?」
「そうですね、パンなどの匂いを嗅いだら。気分が悪くなる事は何度か
、ありました」
「やはり、そうですか。あなたの場合、病気ではないですよ」
「え、本当ですか?」
「はい、おめでとうございます。懐妊なさっていますよ」
イェール先生は優しく笑いながら、言った。私は驚きのあまり、二の句が継げない。懐妊だって?!
「あの、イェール先生。マチルダは懐妊していると言いましたけど」
「はい、言いましたが」
「今、何ヶ月かを訊いてもいいですか?」
「そうですね、現在で3ヶ月目には入っていますよ」
「そうですか、わかりました」
義姉さんは、顔をうつむけた。何かを考え込んでいるらしい。私はどうしたものやらと、先生を見た。
「では、屋敷の人達にもお食事などで言いたい事もありますから。奥様、よろしいですか?」
「あ、はい。案内をしますね!」
義姉さんは、一拍遅れて返事をする。先生はそれには、触れずにソファーから立ち上がった。2人で客室を出ていった。
その後、イェール先生は帰ったらしい。義姉さんが戻ってきて、明日も来ると言っていたと教えてくれた。夕方になったので、私はアパートメントに戻ろうと立ち上がる。
「じゃあ、体調は良くなってきたし。私は帰るね」
「待ちなさい、アパートメントの大家さんには私や旦那様から上手く言っておくから。あんたは今日から、こっちで過ごすこと。さすがに1人きりにはできないわ」
「義姉さん?」
エレイン義姉さんは、真剣な表情でこちらを見据えた。
「マチルダ、単刀直入に言うけど。あんたが懐妊していたのは、さっきに聞いたからわかってはいるの。父親は誰なのかしら」
「……父親は、私の婚約者の。エイベルよ」
「そう、彼なのね。ならどうしてわざわざ、王都まで来たの?」
「実家にいたら、いけないと思ったの。エイベルとは婚約を解消するつもりでいたし」
「マチルダ」
私は顔を俯けた。エレイン義姉さんは、私の右手を優しく握る。
「ねえ、1回くらいはちゃんとエイベルさんと話し合ってみなさい。お義父さんやお義母さんとも。逃げてばかりでは、いけないと思うわ」
「義姉さん」
「私達ともね。旦那様が帰ってきたら、話し合いましょう」
私は顔を上げた。義姉さんは、優しい眼差しでこちらを見ている。コクリと頷いたのだった。
宵の始めに、アンドリュー兄さんが帰ってきた。義姉さんが客室を出て、出迎えに行く。入れ替わりに甥っ子達がやってきた。
「「あ、マチルダ姉ちゃん!」」
「久しぶりね、ウェルター、エクシオ。元気にしていた?」
「「うん!」」
2人は同じタイミングで頷く。ちなみに、左側の栗毛色の髪に濃い藍色の瞳の少年が次男のウェルターだ。右側の赤毛に淡い緑色の瞳の少年が三男のエクシオになる。長男のイアンの姿がない。
不思議に思って、ウェルターに訊いてみた。
「ねえ、ウェルター。イアンがいないんだけど」
「ああ、イアン兄ちゃんは。今は王立学園に入っていていないよ」
「そうなの、王立学園は全寮制だったかしらね」
「うん、一昨年の春に寮に入ったって聞いた。イアン兄ちゃん、もう今年で13歳になるんだよ。確か、3年生になったんだったかな」
「ふうん、そうなのね。教えてくれてありがとう、ウェルター」
ウェルターは、ヘヘっと照れ笑いの表情になる。私は確かなと、思い出す。イアンが13歳なら、ウェルターは12歳、エルシオは11歳なはずだ。3人とも、大きくなったなと思う。まあ、会うのは3年ぶりだしね。もっぱら、3人の両親である兄さんや義姉さんばかりと会っていたから、仕方がないとも言える。
「ねえ、ウェル兄。マチルダ姉ちゃんは気分が良くないって、母さんが言ってたよ。もう、そろそろお部屋に帰ろう?」
「んーと、そうだな。姉ちゃん、長居してごめん。僕らは戻るね」
「うん、わざわざ来てくれてありがとう。2人と話ができて良かったわ」
にっこりと笑いながら、言った。ウェルターとエクシオも満面の笑顔で頷く。2人は客室を出ていく。私は見送った。
ドアがノックされて、エレイン義姉さんとアンドリュー兄さんがやって来た。私が書斎へ行こうと言うと、2人は首を横に振る。
「いや、ここで構わないよ。ミリーは体調が優れないと、エレインが言っていたし。とりあえずは座ろうか」
「そうね、旦那様」
兄さんが言ったら、義姉さんも頷く。私は客室にある一人掛けのソファーに座る。兄さん達は、向かい側の三人掛けのソファーに座った。
「さて、ミリー。唐突で悪いが、お前があいつの子を身ごもっているというのは本当か?」
「え、義姉さんから訊いたの?」
「まあ、一通りはな。エイベルには言っているのか?」
私はひゅっと喉から、息が出るのがわかった。エイベルに言えていたら、今ここにはいない。何せ、エイベルは私を酷く毛嫌いしているし。あの一夜だって、お酒に酔った上での間違いでしかない。もし、私が彼の子を懐妊していると言ったって責任を取るだなんて万に一つも有りえないのだ。それでも私はこの子を育てるつもりでいる。
「……まだ、言っていないの。エイベルには」
「ミリー、いや、マチルダ。ちゃんとあいつには言った方がいい。エイベルは、お前を別に嫌っているわけじゃないんだ」
「兄さんは知らないのよ、彼には私以外に恋人だっているわ。確か、騎士爵令嬢のミランダさんと言ったはずだわね」
「……ミランダ嬢と言ったら、ミランダ・カルマ騎士爵令嬢か」
「そうよ、親切にもとある伯爵令嬢が教えてくださったわ」
兄さんは、眉間を指で揉んだ。まあ、ある伯爵令嬢もエイベルの恋人であったはずだが。私がエイベルに不信感を持ち始めたのは、今から5年前だった。当時はまだ16歳だったが、浮気に気がついた際はすごくショックを受けた。婚約者である私を差し置いて何をしているのか。そんな気分にはなっていた。
「ふうむ、マチルダ。あいつにはもう、見切りをつけているんだな?」
「……うん、婚約を解消してもいいと思っているわ」
「わかった、なら。早めにエイベルと話をつける必要がある。あいつをここに呼ぶぞ。いいか?」
「構わないわ、迷惑をかけてごめんなさい。兄さん」
「いや、詫びる必要はないよ。身内として、当たり前の事だしな」
私は顔を上げた。兄さんや義姉さんは、優しく笑っている。
「……謝るよりは、お礼の方がいいわね。ありがとう、兄さん、義姉さん」
「ああ、婚約を解消したら。次は新しいお相手探しもある。やらなきゃならない事は、山積みだぞ。ミリー」
「本当にね、マチルダ。エイベルさんとはきっちりと話をつけないといけないわ」
私は頷いた。アンドリュー兄さんやエレイン義姉さんは、元気づけるように笑みを深めた。