第1話「気が付けば異世界」6
自身の発言から暫く経っても映美の反応は無かったが、この短期間で何度か同様の事を経験したクリスは既にそれに慣れていた。詳しい理由は不明だが、時々固まったり何かを考え込んでしまったりする。それが映美の特徴の一つだと理解したクリスは、それを何だか可愛らしく感じていた。
「……聞いていたかな」
少し間を置いてからクリスがそう言うと、映美は我に返る。先程から何度もぼーっとしてしまって、クリスに迷惑を掛けてしまっている。そう考えた映美は気を強く持とうとするが、やはり現状を意識すると動悸は収まりそうになかった。
「え、ええ。その、どうぞ」
映美が返事をするが、その動揺が発する言葉にも表れていた。ともあれ同意を得たクリスが手綱を軽く引いて合図を出すと、パトリシアがゆっくりと立ち上がる。
「ひゃっ!?」
自らの意思ではなく、自らの身体が持ち上げられて視線が急に高くなる。生まれて初めての経験に映美は思わず悲鳴を上げる。
「大丈夫か?」
「ひゃう!?」
それを聞いたクリスが映美を案じて声を掛けると、映美は再び悲鳴を上げる。これまでは他の何かに意識が行っていた為に気にしていなかったが、自身に殆ど密着した位置からクリスの透き通る様な声が耳に届く。それもまた映美にとっては一大事なのであった。
「どうしたのだエイミー? 本当に大丈夫か?」
そんな事を知る由も無いクリスは映美の事を案じ、今度はその両肩に手を置きながら声を掛ける。その瞬間、映美は身体をビクリと大きく跳ねさせる。同時に大きな悲鳴を上げそうになるが、これ以上の事をされては心臓が持たないと考えた映美は、何とかそれを抑える。
「え、ええ。大丈夫、何も問題は無いわ」
何とかそう口に出すと、映美は実際に気分が少し落ち着いてくる。現状を改めて把握しよう。少し冷静さを取り戻した頭でそう考えて顔を上げた時だった。映美は再び悲鳴を呑み込み、身体を小さくビクつかせる。初めて冷静に見た馬からの視点は想像よりも高く、不安を覚えるものだった。
「不安か? 初めて馬に乗ったのであれば無理もない。私だって最初はそうであったのだからな」
映美の反応からその心中を読み取ったクリスが優しく声を掛ける。映美は微かに身体をピクリと反応させるが、何とか冷静さを保ってその内容について考える。華麗な騎乗を見せていたクリスであっても、かつては今の自分と同様であった。そう思えば、少し不安は和らいだ。
「いえ、大丈夫よ。行きましょう」
パトリシアの鬣を少し強く握りしめながらも、映美が強がる。クリスとの年齢の大小関係は現時点で不明ではあったが、仮にも大人の女性としてあまり弱みを見せたくはなかった。
「そうか。では、先ずはゆっくりとした歩みから徐々に足を速めて行こう。何かあったら遠慮なく言うと良い」
映美の強がりに薄々とは気付きながらも、その言葉を汲んだクリスが言う。その直後に足で軽く合図を出すと、パトリシアがゆっくりと歩き出す。馬上の映美に伝わる揺れはそう大きなものでは無かったが、自らの意思に関わらずにその身が移動していくという初めての体験は、映美には奇妙なものに感じられた。
(うん、大丈夫。馬に乗ると視点がこんなに高くなるなんて思ってなかったし、この感覚はちょっと不思議な感じはするけど、まだ大丈夫)
映美が自身に言い聞かせる様に、心の中で呟く。それが聞こえた訳ではないが、映美の様子から未だ余裕があると判断したクリスはパトリシアに次の合図を出す。パトリシアの足の運びが速くなり、馬術で言う速歩になる。映美達に伝わる揺れは一気に大きくなり、映美は思わず身を屈めて鬣を更に強く握りしめる。
「エイミー、大丈夫か? 恐怖を感じるようであれば、此方に身を預けてしまうと良い。私はこれでも騎士団の長だからな。君を支える事くらいは訳無いし、君を落としてしまう様な事も無いから安心してくれて良い」
その様子を見たクリスが、映美を安心させようと声を掛ける。それに他意が無い事は映美にも分かってはいたが、事はそう単純ではなかった。
(こ……怖い。けど、まだ何とか耐えられる。クリスは身を預けて良いと言ってくれてるけど、実際にそんな事をしたら……私は多分死んでしまうわ。今の時点でも心臓がドキドキし過ぎている位なのに……)
「だ、大丈夫……よ」
実際にはそうでもないのだが、より大きな被害を防ぐ為に映美にはそう答える事しか出来なかった。だが、クリスはそんな事情は当然だが知る由も無い。映美の様子から強がっている事は察しながらも、その言葉を発した意図を汲んで額面通りに受け取ってしまう。そして、目的地である村までの距離と現在の大体の時刻を考えた時、パトリシアの歩調を更に速めるべきであるという事になる。
そしてクリスが手綱を軽く引くと、パトリシアはそれに応えて更に足を速める。映美達に伝わる揺れもまた形を変え、景色の流れも更に速くなる。映美はそれよりも速く移動する物に乗った事が無い訳ではなかったが、その時には必ず自身の周囲は覆われていた。その身に受ける風の強さも、独特な揺れも、全ては映美にとって初めての経験であり、そして恐怖でもあった。