第1話「気が付けば異世界」5
そのクリスの言葉を聞き、映美は慌てて自身の身体を見回して虫が付いていないかを確認する。今までがあまりに常識外れな状況であった為に、そんな小さな存在の事はすっかり失念してしまっていたのだった。映美は虫というものを特別に毛嫌いしている訳ではなかったが、身体に付いていたら嫌だと思う程度には敬遠していた。
「ははっ。その様子だと、どうやら虫の事は頭に無かったようだな」
映美の様子を見たクリスは笑いながらそう言うと、パトリシアと呼ばれた白馬の鐙に足を掛け、華麗な身のこなしでその上に跨る。騎乗したクリスが軽く合図を出すと、それだけでパトリシアは映美に自身の左側面を向けるように移動する。クリスは馬上から左手を映美の方に差し出し、映美に声を掛ける。
「さあ、掴まってくれ。馬上なら虫を気にする必要も無いだろう」
その声を聞いて顔を上げた映美は、思わず言葉を失った。白馬の王子様、もとい白馬の王女様が自身に手を差し伸べている。多くの女性がそうであるように、かつては映美もその光景に憧れていた。それが、比喩ではなく実際の光景として自身の瞳に映し出されている。この時の映美の感動は、その半生に於いて最も深いものであったと言っても過言ではなかった。
(白馬の王子様、いえ王女様が私に手を差し伸べている。その理由が虫絡みなのはちょっとあれだけど、でもこの光景はあまりにも……。いや、勿論此処に来たのは偶然だと言っていたし、私をそういう意味で迎えに来た訳じゃないのは分かってる。でも、この光景はちょっと、絵になり過ぎるわ……)
憧れが実現した事へのあまりの感動と、その光景の美しさに見惚れて固まっている映美を、クリスはその左手を伸ばしたまま見つめていた。声の後に此方を振り向いたのだから、聞こえていない訳ではない筈だ。そう考えたクリスはもう一度声を掛ける事はしなかったが、その姿勢を続ける事には多少の虚しさを感じ始めていた。
「……コホン」
苦笑いを浮かべたクリスが咳払いを一つすると、それを聞いた映美は我に返る。
「あ、ごめんなさい!」
そう言って慌ててクリスの手を取ろうとするが、馬への乗り方を知らない映美は躊躇する。その様子を見たクリスが右手で軽く合図を出すと、パトリシアが姿勢を低くする。だが、それでも映美は直ぐにはその上に乗る事が出来なかった。
(これなら乗れる……けど……。ちょっと怖いかも)
そう思う映美だったが、クリスの騎乗技術やその愛馬の事を信じていない訳ではない。ただ単純に、初めて馬に乗るという事への勇気を出せずにいるだけである。とはいえ、映美も此処で夜を明かさぬ為にはどの道乗るしかないという事は理解しているし、クリスの厚意を無下にするつもりも毛頭無かった。二つ程深呼吸をした後、映美は思い切ってパトリシアの背中、クリスの前方へと跨……ろうとした。
その時、映美は漸く気付いたのだった。自身の服装に。タイトスカートを穿いた状態で馬に跨るのは、どう考えても無理があった。急遽、映美はその脳内に高速で思考を展開する。
(直前とは言え、気付けたのは幸運だと思っておこう。このままでは跨るのは……一応スリットが入っているとはいえ、まあ無理よね。当然脱げば乗る事は出来るけど、論外ね。恥ずかしいのは勿論だけど、クリスが私を見る目が変わってしまうのは間違いないわ。お嬢様座りで……というのも無理よねえ。それで落馬して死んでしまったら、あまりにも面白すぎるわ)
そうして考えた結果、映美には状況を解決出来る方法は一つしか見つからなかった。やや恥ずかしい方法ではあるが、背に腹は代えられなかった。映美は自身のスカートのウエスト部分を両手で持つと、それを出来るだけ引き上げる。低い目線であれば下着が丸見えになってしまう所であったが、幸いその視点を持つ相手は周囲には見当たらなかった。
その映美の動きを見たクリスは不思議に思ったが、直ぐにその意図を汲む。クリスにとっては見慣れぬ衣服である故に当初は気付かなかったが、足の可動範囲が足りなかったのであろうと。騎士団の長でもあるクリスにはその様な動きづらい服装をする意図は分からなかったが、外国から来たであろう相手の文化への配慮は持ち合わせていた。
再度意を決し、映美がパトリシアの背中に跨る。馬も含め、他の生物に跨るという事は映美にとって生涯で初めての経験であった。動物特有の、しっかりとしていながら柔らかさも感じる感触と温かさ。短いながらも毛で覆われた身体の不思議な手触りと鬣のもふもふ感。映美がそれらを堪能していると、ふとクリスが手綱を引く為に手を前に伸ばし、結果として映美はクリスに抱かれている様な状態になる。
(うぎゃー!?)
「良し。それではパトリシアを立ち上がらせるから、掴まっててくれ。何なら鬣を掴んでも良いし、私に体重を預けてしまっても良い」
クリスがそう言うが、映美にとってはそれどころではなかった。見惚れてしまう程の美しさを持った、優しくて誠実な女性が殆ど密着しそうな程の距離に居る。初めて乗った馬の方に意識が行っていた為に当初はそれ程気にしていなかったが、本来ならそれだけでも映美にとってはキャパシティを越える出来事である。その上で更に両腕で抱かれる様な格好になってしまっては、映美には顔を真っ赤にして固まる事しか出来なかった。