第四章 国境の島
対馬は、九州本土の北西方向に浮かぶ島である。なぜ、対馬を「つしま」と呼ぶのか、大斗は子供のころ疑問に思ったものだ。島なのだから、分かりやすく、津島とかでいいじゃないかと思ったが、漢字はまれに、このようなイレギュラーな読み方をするものだと、成長するにつれて、理解してきた。奄美大島、佐渡島に次ぐ、日本では三番目に大きな島らしい。行政区画では、長崎県に属する。島全体が長崎県対馬市だ。昔は、対馬市という地名はなく、上県郡、下県郡などといった地名だったが、いわゆる平成の大合併で統合が進み、対馬市が誕生したとのことだ。
地理的には、九州本土と朝鮮半島のちょうど中間ほどにあり、朝鮮半島の方がやや近い。ちょうど韓国との国境付近にある島なので、「国境の島」と呼ばれている。絶滅の危惧があるツシマヤマネコが有名だが、実はツシマテン、ツシマジカといった、この島特有の動物は存在する。島を縦断する国道には、「猫飛出注意」と書かれた標識が、所々に見られる。海の近くに行くと、リアス式海岸の地形がいたるところに見られ、景観が非常に良い。
大斗はホテルで朝食を頂いたあと、外に出た。この後どうしようかと考える。本当に手がかりを残さずにここまで来られたか不安になる。しばらくは用心して過ごさないといけない。まず、お金を下ろそうと、銀行へ行った。幸いなことに、目の前に二つの銀行があった。そのうちの片方に入り、すぐさまATMにキャッシュカードを挿入した。
しかし、「このカードはお取り扱いできません」というメッセージが出てしまった。大斗が持っているのは、東京を中心とした銀行である新天銀行のカードだが、他の銀行のATMからもお金を下ろせると聞いていたので、大丈夫だと思っていた。だから、窓口の人に聞いてみた。ところが、予想外の返事が返って来た。
「この銀行のカードは、うちのATMでは使えないようです」
そんなことを言われたので、もう一つの銀行へ行って、同じことを試してみた。しかし、結果は同じだった。なんということだ。お金はあるのに、手元に引き出せない。いきなりの試練が訪れた。周りを見渡しても、他に銀行はない。誰かにお金を借りたいが、知り合いもいない。野宿して過ごすには、寒すぎる。今日は、雪は降っていないものの、相当寒い。
大斗は、交流センターの前にあった案内図を見ながら考えた。
そうか、郵便局があった。郵便局なら、全国どこでもあるから、何とかなるだろう。早速郵便局に赴き、同じことを試してみた。しかし、カードを入れると、また同じように、使えないとメッセージが出たのだ。ああ、信じられない。完全に手詰まりだ。こんな事なら、郵便局のキャッシュカードを作っておけば良かった。
正午を過ぎ、晴れた日差しに照らされたアスファルトは、かすかに大斗の体を暖める。無料で困った人を助けてくれる、かけこみ寺みたいなところはあるわけないし。
大斗は役場に行ってみようと思った。役場が何をしてくれるか分からないが、公的機関なので、比較的行きやすいと思ったからだ。受付で、大斗は事情を正直に話した。
「昨日対馬に来たのですが、お金がありません」
受付の係員は困ったらしく、受付から一番遠くで、こちら側を向いた席に座っている人に、相談に行った。やがて、一番奥の人がこちらへやってきて、別室へ案内された。
「ここで係長やっておる山城といいます。お金がなくて泊まれるところは、さすがにないけれど、何かお役に立てるかもしれないので、話だけでも聞かせてもらえませんか」
他に頼るところもなかったし、大斗は一昨日からあった出来事を話した。
「ほう、東京からここまで。お疲れさまでございました。そういう事情だと、ちょっと聞いてみて良いかも知れんなあ」
そう言って、山城は立ち上がり、ドアを少し開けて、誰かに何かを指示していた。
「この近くには、寺があって、旅館のようなことをしている宿坊というものがあるのです。部屋が空いてれば、そこでお手伝いをしながら、少しの間住まわせてくれるかも知れないので、今問い合わせておる所です」
なんと、そんなものがあるのか。大斗は期待を持ち、宿坊について色々山城から聞いていた。少しすると、ドアが開き、先ほど受付にいた女性が入ってきて、言った。
「ここ二週間くらいは、予約で満室なので、とても受け入れる余裕はないと回答されました」
大斗は慌てて言った。
「特に何もお構いされなくても、屋根があるところだけ貸して頂けるだけで、ありがたいのですが、それも難しいのでしょうか」
山城と、受付にいた女性は、うーんと考え込んでしまった。
すると、山城は突然こう言った。
「あんた、いい人そうだし、うちに来るか?」
大斗は驚いたし、申し訳ない気もしたが、他にどうしようもないので、お世話になるしかない。せめて、奥さんとかご家族の方が嫌がられないか聞いてみたところ、心強い言葉が返って来た。
「俺が泊めると言えば泊める。こんな田舎は亭主関白だから、大丈夫さ。悪いが、仕事終わるまで、この辺散歩でもしながら待っていてくれ」
大斗は「本当にありがとうございます」とお礼を言った。
山城の家は、役場から十五分ほど歩いたところにある一軒家だった。庭も広く、離れのような建物もある。街灯一つで照らされた暗い視界から得られた情報はそれ位のものだった。玄関を入ると、奥さんらしき人が迎えてくれた。
「いらっしゃいませ。山城の家内の阿佐子と申します。今日はゆっくりして、よかったら東京の話でも聞かせてください」
東京の話ならいくらでもできる。できるだけ気兼ねしないように、こう言ってくれたのだと思った。なんと良い人だと思った。奥に入ると、囲炉裏があった。いまでも現役で使っている所があるのだと、しみじみ感じた。
台所らしき場所から、若い女の人が出てきた。
「私は、娘の由実と言います。よろしくお願いします」
とても魅力的な人だと思った。もっと見ていたかったけれど、あまりジロジロ見ると、追い出されてしまう気がしたから、「よろしくお願いします」と軽く答えるだけにした。
囲炉裏の横のテーブルに、料理が並んだ。ビールもある。田舎の一家の主は、仕事から帰ってきたら、食べるだけなんて、幸せだなと思った。
「これは、対馬名物のとんちゃんという食べ物だ。口に合えばいいが」
「とんちゃん」は、昔食べたことがある。たしか、豚肉にニンニクやしょうゆベースの独特のタレを混ぜて、焼いたような食べ物だった。口にひとくち含んで感動した覚えがある。あまりに美味しかった。それが今日食べられるのか。
「とんちゃんは、昔来た時に食べたことがあります。美味しかったです」
実際に食べてみると、少し甘い感じがした。美味しいことは美味しいが、昔ほどの感動はない。大人になって、味覚が変わってしまったのだろうか。昔食べたときに美味しかったといった手前、我慢して美味しそうに頂いた。とはいえ、 追加の肉を勧められて「ぜひお願いします」と、つい即答してしまったので、やはり内心とても美味しいと感じていたのだと思う。しいたけの煮物も美味しい。他の場所で、しいたけを食べてみて分かったことだが、ここ対馬のしいたけは、一級品だと思う。
満腹になると、山城は風呂に行って来ると言って、玄関を出ていった。不思議な顔をしていると、娘の由実さんが「うちは風呂が外にあるのですよ」と教えてくれた。
風呂が外というと、露天風呂だろうか。全く想像がつかない。しばらくして、山城が戻ってきて、風呂に行っておいでと言われた。
「五右衛門風呂に入ったことはある?」
「いえ、無いです」と大斗が答えると、山城は奥さんに「一緒について行って、入り方を教えてあげてくれ」と頼んでいた。
奥さんの阿佐子さんと一緒に玄関を出ると、三十メートルほど歩いた先に、小屋があった。入ると、大きな鉄釜の風呂があり、釜の下にあるカマドでは、焚き木が燃えていた。煙で目が痛い。奥さんは、横に積まれた木を四本ほど、カマドの下に放り込んだ。そして、風呂のフタを開けて、厚めの木製の板を手にもって言った。
「お風呂の底が熱いので、この板を足の下に敷いて入ってください。あとは、お湯が熱い時はこの水を足して、終わったらまたこのフタをして戻ってきてください。石鹸などは自由に使ってくださいね」
大斗が礼を言うと、阿佐子は小屋を出ていった。大斗はまずお湯を触ってみた。とても熱かったので、びっくりした。四十五度近くあるんじゃないだろうか。服を脱ごうとしたら、寒かった。この風呂小屋の壁は木板で、所々に隙間があいている。風呂小屋の中も、外気の温度と同じなのだ。大斗は、蛇口を最高まで回し、水を大量に足すことにした。何とか入れそうな温度になった頃、急いで服を脱いでお湯に入ればよいのだ。 服を脱いで、体を流して、湯船に浸かろうとしたとこまでは良かった。しかし、簡単に入れなかった。底に敷く板が軽いので、お湯に浸かっている途中で、バランスが偏り、すぐに板が浮かび上がってきてしまう。五回目くらいのトライで、何とか浸かることができた。少しして、湯の中にいると熱くなってきたから、石鹸を付けて体を洗い始めた。裸で風呂釜の外にいると、また寒くなってきたので、洗うのはサッと済ませ、すぐにお湯に浸かった。風呂釜から出ると、体がポカポカしていた。風呂小屋に歩いて来る時は、寒くて縮こまる感じだったが、風呂小屋から玄関のある母屋へ戻るときは、外気が気持ちよかった。こんな風呂も最高だと思った。その日はそのまま床について、長い一日が終わった。
翌朝になると、山城はすでに出勤していて、家にいなかった。居候のくせに、一番起きるのが遅いなんて最悪だと、自己嫌悪に陥りながら、朝食を頂いた。
ご飯と味噌汁と納豆と海苔。シンプルだけど、心に染み入る感じでおいしい。忘れていたものを思い出すような懐かしい感じもする。
昨日は泊めてもらったけれど、今日はどうしようかと心配していた。疲れて寝てしまい、何も考えていなかった。阿佐子さんが、目玉焼きを持ってきてくれた。
「ああ、目玉焼きも焼いていただいて。ありがとうございます」
「はい、ゆっくり食べてください。それと、主人とも話したのですけど、行き先が決まるまでここに居ても良いですからね。行き先が決まったらいつでも出て行ってください」
大斗は驚いた。自分にできることなら、何でもしたい気分だった。
ここから、山城家での国境の島生活が始まった。
大斗はまず、お金を何とかしたかった。初めて名前を聞く地方銀行よりも、郵便局の方が、安心感があるから、郵便局に行って相談した。よく見ると、ゆうちょ銀行と書いてある。郵便局もいつの間にか、銀行になったのかと思った。「対馬で生活するなら、ゆうちょ銀行のキャッシュカードを作って、今お持ちの口座からお金を移したらどうですか」と提案された。確かに、ゆうちょ銀行の口座があれば、いつでもお金を引き出せる。そこで、口座を作ってもらうことにした。
ここで口座を作ったことで、足がついて、キリンソフトの人たちに見つかってしまうだろうかと恐れを抱いたが、その可能性は高くないだろうと思った。「住民票を移せば居場所がばれやすい」と聞いたことがあるが、それは公的機関が正当な請求に対して、情報を開示しなければならないからだ。例えば、代理人と偽って、本人が車の取得申請に必要だからとか嘘をついて、住民票を取得できてしまいそうだ。一方、ゆうちょ銀行に対して、そんなことは難しいだろうと思った。「おたくの銀行に牛山大斗の口座はありますか?」という情報が請求できる正当なものは、犯罪の捜査をしている警察ぐらいのものだろう。だから、仮にキリンソフトが調査に来ても、ゆうちょ銀行は「プライバシーに関するので答えられない」と、突っぱねてくれる可能性が高いように感じた。色々考えてみたものの、今は口座を作らないと生活できないから、作るしかないのだ。
問題は、どうやってお金をここに移すかだ。電話で受け付けてくれるだろうか。ゆうちょ銀行の人が「インターネットバンキングでお金を移すこともできますよ」と教えてくれたので、その言葉を手がかりに、インターネットを使える場所を探すことにした。
なんと、近くに図書館があって、インターネットを自由に使わせてくれることが分かった。しかし、図書館に利用者登録して、予約申込みが必要らしいので、対馬市に住民登録がないといけない。行き詰まって、山城邸に戻ったところ、由実さんが「私のパソコン使っていいですよ」と、あっさりと許可してくれた。
昔登録していたユーザーIDやパスワードが書かれた紙は、持ってきた重要な書類箱に入っていたので、無事にお金を移すことができた。しかし、ここで山城家を去り、ホテル暮らしになると、すぐにお金が尽きてしまうので、もう少しお世話になることにした。申し訳ないので、奥さんがやっている、焚き木運びを手伝った。風呂を焚くのに使用する焚き木を、近くの森から運んで来るのだ。皿洗いもしようとしたが「男の人にそんな事はさせられない」と断られた。田舎では、台所仕事は女性の役割らしい。
ぼんやりと、縁側に座ってこれからどうするか考えてみた。見渡す限り山がある。たまに鳥の声が聞こえる。それ以外は静かだ。人の声も滅多にしないし、お店が周りにないので、スピーカーから聞こえる宣伝の声もない。時間だけが経っている。いや、時間が経っているというより、何も変わっていない。何も変化していない。十年後も三十年後もここはずっとこのままの様な気さえする。
お腹が空いて来た。時計を見るとまだ午後四時だ。一人でいるならば、すぐに何かを買いに行って、小腹を満たしただろう。しかし、ここではそれは許されない。夕飯の時間まで待つしかないのだ。こんな感覚は久しぶりだ。子供のころ、好きな時に好きなものを食べることなど、出来もしなかったから、ご飯の時間まで我慢して過ごしたものだ。その感覚を思い出した。
その日の夕飯も、とても美味しかった。刺身も野菜も、きっと近くで採れたてで新鮮なのだろう。お腹が空いていたことも、美味しさを後押しした。ご飯を食べることが、こんなに幸せなことだったなんて、しばらく忘れていたように思う。食後にハチミツを頂いた。家の裏に蜂が集まる箱を設置されており、そこで採れたものだという。スプーンで掬って口に入れると、とても甘く、密度の濃い蜂蜜だった。
翌日は、これからの行動のヒントを求めて、図書館に行った。まず、最初に見たのは、退職や転職に関する本だ。田舎だけど、結構話題の新刊も揃っていて、有意義な情報が得られそうだ。つい最近話題になった、本人に代わって会社の退職手続きを代行してくれる退職代行について書いてある本もあった。
大斗は「お金持ちになるには起業すべき」という流行りのフレーズに載せられて、起業のネタを考えたことがある。色々考えたけれど、うまくいくイメージが湧かず、全てボツになった。そして、そのまま忘れてしまっていたが、その思いついたネタの中に、退職代行はあったのだ。つまり、話題になる前から、大斗はこのサービスを思い付いていた。
どうやって思い付いたかというと、困っている事から探していった。大斗は毎日会社に行きたくないと思っていたから、同じように行きたくないと思っている人に対し、行かなくて良くなるサービスを提供すれば、うまく行くかも知れないと思ったのだ。とはいえ、辞めさせるだけじゃ、その人が幸せにならないから、もしやるのであれば、転職斡旋業者や弁護士などと連携して、トラブルにならずに、その人の将来が描けるサービスにすべきだと思っていた。そして、そんなサービスを始めたら、多くの企業にとって迷惑な存在になるから、色々な批判を受けて、妨害されそうだと感じてもいた。だから、本当にこのようなサービスを始める人がいるとは思わなかった。
最初は退職代行の会社が一つ出来て、話題になったのに、最近は乱立して、十個くらいはあるようだ。その中で弁護士がやっているサービスがあったので、後で問い合わせてみようと、電話番号を控えた。他にも、退職に関係する法律の本をいろいろ読んでみた。父親に身元保証書を書いてもらったけど、身元保証の有効期間は一般的に三年らしい。ただし、有効期間を明記してあった場合は、上限五年まで有効らしい。たしか、有効期限を五年とするとは、あの身元保証書には書いていなかったはずだ。だから、大斗は永遠に有効だと思っていたのだ。とすれば、あの身元保証書の有効期間は、法律上三年になるから、父親は、もしキリンソフトから賠償を求められても断ることが出来ることになる。早めに父親に連絡を取って、このことを教えておかないと、父親はお金を払ってしまうかもしれない。
大斗は、近くの公衆電話に行き、父親に電話した。家の電話番号は、小さい頃から頭に入っている。父はすぐに出た。
「はい、牛山です」
「あの、大斗だけど」
「おお、やっと連絡してきたか。お前の勤め先のキリンソフトの人から電話が来て、お前を探していたぞ。どうなっているんだ?」
「事情を話せば長くなるけど、あまりに酷すぎるから逃げてきた」
「そうか。最初にキリンソフトから電話がかかって来た時は、黙って居なくなるなんて、お前は何やっているんだと思ったよ。相手はとても丁寧な口ぶりだったし、変な会社だとは全く思わなかった。けど、ここ数日、お前の会社の人間っぽい奴らが、家の近くをウロウロしている。徹底的にお前を探し出したいのだろうなという感じがする。こういうのを見ると、あまりまともな会社じゃなかったのかも知れんと思うようになった。お前の言い分はたぶん正しいのだろうな」
大斗は、話が通じてうれしかった。身元保証書のことも話した。
「ああいうのって、一度払いますと言ってしまうと、身元保証書の三年の期限に関係なく、払わなくちゃいけなくなるみたいだから、気を付けてね」
「お前に言われなくても、俺はお前より長く生きて、それなりに法律が必要だった時もある。そのくらい知っているよ。タイミングのいいときに、弁護士に相談するなりして、あのキリン何とかという会社と片を付けんといかんぞ。お金には困ってないか」
「今は大丈夫、ありがとう。また連絡するよ」
大斗は、暖かい気持ちになって、電話を切った。
次は、メモした退職代行業者に電話してみた。名前や会社名などを聞かれた。電話番号も聞かれたが、電源をオフにしているので繋がらないと伝えた。住民票登録してある東京の住所も伝えた。しかし、今いるところは、念のため伝えなかった。
五万円を振り込んでくれたら退職の代行を実施するというので、早速振り込んで、もう一度電話した。引継書のテンプレートを送るので、覚えている範囲の全てを書いてほしいと言われた。大斗は自分のパソコンが手元にない事と、引き継ぐべき内容が多くない事を伝えた。すると、口頭で内容を話して、それを業者が、引継書に転記してくれることになった。
今後の状況の報告はどうしたら良いか聞かれたので「明日の同じ時間ぐらいに電話するので、その時に教えてほしい」と伝えた。
公衆電話は、どこから架けているか、簡単には分からないはずだし、振込してもどこの支店から振り込まれたかは、振り込まれた方は簡単に分からないはず。だって、自分の口座に振り込みされる時は、たしかカタカナで振込元の名前が書いてあるだけだったから。
今日できる事はこれで終わり。大斗は頭を切り替えた。
まだ、十一時半でお昼にもなっていない。しかし、昼ご飯を準備してくれているので、一度山城邸に戻って、居着いている猫たちと、少しの間たわむれた。
昼ご飯を済ませると、大斗は近くをぶらついた。ここ厳原の町は、対馬で一番大きな町だ。昔は城があり、城下町だったらしい。スーパーに入ると、名物の「かすまき」があった。カステラの生地の中に、たっぷりと粒あんが詰まった食べ物だ。大斗は一つ買って、お腹が空いたときに食べようと、カバンの中にしまった。
対馬で有名な場所として、万松院、万関橋、和多都美神社、韓国展望所、美女塚などが思いつく。これらの場所のキーホルダーを、土産物屋でよく見かけた記憶がある。このうち、万松院だけは、歩いていける距離にあるので、行ってみることにした。
行ってみると、他の客は誰もいなかった。平日の何もない日に、あえて訪れる人はいないのだろう。受付に人がいて、入場料を取られることが分かり迷ったが、一度は入ってみてもいいかと、入ることにした。多くの石でできた墓があった。きっと有名な人の墓なのだろうが、大斗は誰も知らない。刻まれた没年や名前を見ながら、何百年か前に、ここ国境の島で、国と国とのいさかいがあり、そんな時代に暮らしていた人たちに思いを馳せながら、ゆっくりと時間を過ごしてみた。一時間くらいして、万松院を出た。あまり収穫はなかったように思うが、心が洗われたような感覚がある。山城邸に戻って、そのことを話すと、奥さんの阿佐子さんは「よくもまあ、一時間もいられましたねえ」と言い、娘の由実さんは「私は入ってみようと思ったことがない」と言った。有名でも近くだと、なかなか興味は持てない物なのだろう。東京の人があまり東京タワーに行かないのと、似ていると思った。
翌日は、朝の十時に役場へ行った。司法書士の人が無料相談をやっていることを山城が教えてくれたのだ。十時十五分に予約してくれていたが、他に客がいなかったようで、すぐ話を聞いてくれた。
ここで得た一番の発見は、法律上労働者の権利が強く守られているということだった。自分のような普通の正社員が、退職を申し出て十四日で退職できるという法律上の規定は、強く主張することも可能だということだった。会社側が、引継ぎの時間がないとか、会社に損害が生じるとか言う理由で、労働者の退職日を自由にずらすことが出来るのだとしたら、一般的に立場の弱い労働者を守るために作られた労働基準法の規定を、有形無実化することになるからだそうだ。円満退社が理想だが、会社と話が折り合わない場合は、法律を盾にして、身を守ることもできるとアドバイスを受けた。
会社の就業規則に「法律にかかわらず、退職日の一か月前に退職願を提出すること」等と記載してあっても、就業規則より法律の方が、効力が強いから「退職届を出して十四日」の方が、優先になるのだそうだ。奴隷ではないのだから、辞めたい時に辞められる、これが今の時代なのだと思った。憲法の職業選択の自由は、法律で担保されているのだ。戦時中の徴兵制について、教科書で学んだことがあるが、その頃に比べれば、なんと幸せな時代だろうと思った。
また、今からでも思い出せる分の実際に働いた労働時間のメモを取っておくと良いと言われた。会社のタイムカードは、毎日定時帰りの記録になっているので、残業代が支払われることはないとずっと諦めていた。しかし、実際に裁判などで、記録していたメモが、証拠として採用されたことがあるそうだ。自分では何とでも書けるので、信憑性が無いのではないかと思ったが、メモが無いより有ったほうが断然良いのだそうだ。
相談会が終わると、次は昨日の退職代行業者に電話した。
話を聞くと、先方のキリンソフトはだいぶ納得いかない様子だったらしい。とはいえ「やることはやっているので、退職は成立しています。安心してください」と言われた。不安なので、その電話の内容をメールで送ってもらうことにした。先般、パソコンが手元にないと伝えていた手前、「メールを確認するのは、いつになるか分からないが、送っておいてもらえると安心する」と付け加えて、頼んでおいた。
山城邸に戻って、すぐに由実さんのパソコンからメールを確認すると、メールは既に届いており「退職は成立しています」と書かれていた。
気持ちがすっと楽になった。
午後は、山城邸の縁側に座って、ボーッと遠くの山と空を眺めていた。
今は自由にいろんな場所に行けるのだと思った。別に鎖で繋がれている訳でもないのに、今までは自宅と勤務先を繋ぐ線ばかり、いつも往復していた様な気がする。その線から外れると、失うものが多そうで、外れる勇気が無かったのだ。でも、外れてしまった今となっては、外れない事で今まで失っていたものも多かった気がする。
そして、山城家の人たちを見ていて、こんな生き方も本当にいい気がした。常に何かに追われて、忙しくしているのではなく、身近なものを大切にして生きている。東京にいるときは、都会が勝ち組で田舎は負け組だと思っていたけれど、全くそんな事は無い気がする。「分をわきまえる」という言葉があるが、この悠久の自然の中にいると、自分の分がよく分かる。とてもちっぽけな存在だと思う。この空気も食べ物も適度な重力も、もし自分の周りに存在しなければ、自分は全く生きていけない。絶妙な自然のバランスの中で生かされているのだという感じがする。
生きる意味って何だろうと考えたことがある。何かしらの使命を自分は持っていて、それを果たすことなのか。勤労して、誰かに貢献することなのか。お金持ちになることなのか。神様に感謝しながら生きることなのか。その時は、できるだけ正しい生き方をしたかったから、生きる意味が気になったのだと思う。
誰に相談しても、まともな答えは返ってこなかった。「そんな事考えず楽しく生きよう」とか、「そんな事考える暇があるなら勉強とかスポーツに打ち込め」とか、「何だろうね?」とか。思えば、そのころから、一人でいることが多くなっていったのかもしれない。
でも、今自分がちっぽけな存在だと感じたら、特に生きる意味は気にならなくなった。
目の前に大きな銀杏の木がある。この木が存在する意味は、きっと、俺にとっては目の癒しだし、小鳥たちにとっては重要な休息ポイントだろうし、地球全体にとっては、二酸化炭素を吸収して酸素を供給することで、バランスをとってくれる存在だろうし。
俺の存在する意味は、きっと、父親にとっては大事な息子だろうし、妹にとっては頼りないけど居るだけで寂しさを紛らわす存在だろうし、将来の彼女にとっては、……思考が飛びすぎた。きっと他にも役割はあるはず。会社にとっては、便利なお金を稼ぐ道具だったのかもしれない。俺が大事に思うものを大事にしよう。いま忘れているだけで、自分が電話一本するだけで喜んでくれる人がいるかも知れない。
大斗は、明日からレンタカーを借りて、対馬の島を旅してみることにした。こんな風に、様々なことを考えたり、思い浮かべたりしながら、今後の生き方を探すのだ。
大斗が、以前に対馬に来たのは十五歳の高校生の時だった。父と一緒に、祖父母に会うために、父の実家だった場所を訪れたのだ。対馬の厳原港に着いてから、バスで島の北の方、比田勝という所へ向かった。高低差の激しい山道を、二時間程度バスで揺られた上、一人五千円くらいの運賃だった。それから二泊して、元の道を同じように戻った。その時の体験から、対馬に来るのは大変なのだというイメージが、大斗の意識に刷り込まれていた。
今回の旅では、大斗はレンタカーを借りた。想像していたより楽であった。途中でバス停にも止まらないし、欲しいものがあれば止まって、物を買えるし。ほとんどの場合が山道で、店は無いのだが、あればすぐに止まれるところがとても良い。しかも、カーナビも付いている。目的地まで一人でも困ることがない。快適な旅だ。
今は昔と違い、バスの一日乗車券が千円で販売されているらしい。絶対お得だ。お得すぎて、バス会社の経営が成り立たないのではと心配になる。そもそも、田舎で乗る人は多くないから、採算を度外視して、生活の足としての役割を重視しているのだろうと思う。高くてバスに乗れなければ、遠くに住んでいる人は困ってしまうから、バス会社には市からの補助などが出ているのだろうと大斗は推測した。
役場や山城邸のある厳原から北上し、有名な万関橋を通った。ここは、リアス式海岸できれいな島並みが見えるはずだが、運転中の大斗は、よく見ることができなかった。また、遠くから見たら赤くて綺麗な橋のはずなのだが、渡っている当事者として、その光景を見ることは出来なかった。そのため、何も収穫はなく通過した。
少し行くと、次に目指していた和多都美神社の案内板が見えてきた。くねくねした山道を登っていくと、目的地に着いた。なんと、広島の厳島神社のように水の上に鳥居がある。しかも、一つだけでなく、二つも三つも直線に並んでいる。人影もなく、もの寂しさも感じるが、それがまたよい。対馬でなく、日本の本土にあったら、有名な観光スポットになっているに違いなく、ゆっくり見ることが出来なかっただろうから。
大斗は、子供のころ以来の水切りを試してみた。平たい石を選んで水平に投げ、水の上をジャンプさせるのだ。子供の頃と同じように、やはり下手だった。あの頃上手な人は、五、六回ジャンプさせることができたのに。
参道を登ってお参りした。完全に森の中。心が洗われた気分になった。あたり一帯がパワースポットだ。
車に乗り、また北上した。峰町という所に、温泉の案内板があった。左に曲がると温泉があるらしいが、大斗は対馬にも温泉があるのに驚いた。迷わず、左にウインカーを出して曲がった。温泉は、建物は小さいものの、しっかりとした施設だった。休憩所は十分なスペースを確保してあり、サウナもあり、肌がつるつるになりそうな泉質だった。大斗は温泉に浸かって、冷え切った体の芯まであたたまった。
十二時を少し過ぎ、車に乗った大斗はさらに北上しながら、お昼ご飯を食べられる場所を探した。しかし、全く見付からない。そもそも田舎は外食の文化が根付いてないから、飲食店が少ないのだ。とりあえず、コンビニで買っておいたパン二つを食べて、空腹をしのいだ。飲食店が見付かったのは、それから二時間くらい後、対馬北端の比田勝に着いた時だった。
比田勝は、かつては寂れた港町の印象を受けたが、今もそうは変わっていない。しかし、新築の国際ターミナル港が出来ていたり、ロコモコやタコライスのような流行に乗った店があったり、韓国語の案内があったり、大きなホテルが出来ていたりなど、少し都会化している気がした。
老舗の洋食屋で昼食を摂ったあと、港で無料のリーフレットを拝借し、広告が出ている旅館に電話した。混んでいる時期ではないので、すぐに予約が成立し、今夜の宿が決まった。
近くの名所は、海水浴場だというから、車を五分くらい走らせ、行ってみた。冬だから、もちろん誰もいなかったが、海はきれいだった。沖縄まで行かなくても、こんなところでエメラルドブルーの海が見られることに驚いた。
旅館に着いたら、畳の上に大の字で寝転んだ。水平線の見えるベランダから降り注ぐ、強い日射しを浴びながら、大斗はまどろみ、そのまま眠ってしまった。
目覚まし時計もなく、夕食の十分前に目が覚めたのは、奇跡だと言っていい。急いで夕食会場に駆け込み、なに食わぬ顔をして、夕食が出てくるのを待った。
夕食は豪華だった。お刺身や天ぷら、蕎麦まで出てきた。蕎麦は、おいしいが、麺が柔らかすぎて、ぷつぷつと切れる。あー、思い出した。これは、婆ちゃんがよく作っていた対州そばだ。これも対馬の名物で、そば粉百パーセントで作っているから、すぐ千切れてしまうのだ。おいしくて懐かしい感じがして、おかわりを頼んだら、ウェイターは、少し考えている感じだったが、その後すぐに、笑顔でおかわりを届けてくれた。本当はおかわりはできなかったのかもしれない。
心と体が解放され、ぼーっと何かを自由に考えていた。「頑張る事は大事だけど、頑張り過ぎてはいけない」とよく言われるが、そのラインはどこなのだろうと思う。誰かに意見を聞いたら「それはバランスの問題だよ」と言われそうだ。しっかり、突き詰めて考える人が中々いないのは、突き詰めて考えなくても、生きて行くには支障が無いからだろうと思う。いまこの瞬間は、何も頑張ってないけれど、色んな発見があって充実している。
きっと、世の中繰り返しなのだろう。戦後からバブル期は、頑張ったら幸せになれると皆が信じて頑張った。バブルがはじけて、過労死の問題が取り上げられ、頑張っても給料の上がりにくい情勢にもなって、頑張らなくて良いという社会の風潮が出てきた。そして最近、日本の国内総生産は、中国に抜かれるなど低迷しており、頑張らないといけないという風潮が再度出て来ている気がする。
世の中の風潮とうまく折り合いをつけて、頑張りたくないときは休んで、頑張りたいときに頑張りたいと思う。どうして頑張っているのか、よく分からなくなった時は、こんな風にちょっと離れて休んで、当初の目的や守りたいものなど、頑張る理由を思い出しても良いかもしれない。ひょっとしたら、事情が変わっていて、頑張る理由なんて、もう無くなっている可能性もある。
最後の徹夜続きの仕事を思い浮かべながら、あの時自分が倒れていたら、どうなっただろうと、想像してみた。人間の体は、日中起きて夜に寝るように出来ており、日中に損傷した細胞などを、夜の睡眠中に自然治癒力で回復しているのだと思う。損傷した細胞などの回復の暇を与えなければ、悪性の腫瘍が出てきたり、精神的に不安定になり、発作的に線路に飛び込んだりするのだと思う。北東京システムサービスやキリンソフトが、申し訳なかったからと、入院費や慰謝料を払ってくれることは、ありえないだろう。いかに自分たちに責任がないかを理屈付けて主張し、何も無かったことにするに違いない。労災保険への申請をすれば、就労中の事故であれば保険金が給付されるはずだが、あの会社は事故歴が付くことを嫌がり、申請をしない気がする。
夜に風呂に入り、ふらふらとフロントに行くと、絵ハガキが置いてあった。切手を貼らずに、そのまま送れるらしい。大斗は、妹の愛子に連絡していない事を思いだし、筆を執り近況を書いて、ポストに投函した。返信先の住所は書かなかった。また近いうちに連絡すると、書いておいた。
翌日も、同じ旅館に滞在した。車で比較的近い場所に韓国展望台があったからだ。ここでは晴れた日に、水平線のかなたに韓国の本土が見えることがある。天気は快晴だった。しかし、韓国は全く見えなかった。小学生の頃にこのあたりから韓国が見えた時のことを思い出した。とても晴れていたが、何時間も見えなかった。帰ろうとした時に、やっとぼんやりと見えて来たのだ。天候だけでなく、空気の状態など、様々な要因があるのかもしれない。だから、きっと今日も待てばチャンスがあると思い、夕暮れまで粘った。しかし、その日に韓国を見ることは叶わなかった。
大斗は、小学生の頃に、爺ちゃんに魚釣りに連れて行ってもらった場所に行ってみた。地元の人しか行かない海岸だ。爺ちゃんは「ここら一帯はうちの海だ」と言っていた。縄張りでもあったのだろうが、そのルールはよく分からない。土地の売買はよく聞くが、海の売買など聞いたこともない。田舎独自の取り決めでもあったのだろう。
昔と変わらず、海岸には、韓国のハングル文字で書かれた酒の空き瓶や、サラダ油の空き容器や、石油などが入っていたようなポリ容器が流れ着いている。ごつごつした石には、確かゲジゲジといった名前の、ダンゴムシに毛が生えたような生物が異様なほど多くいる。石を一つ持ち上げると、隠れていたゲジゲジが大量に散って出てくる。とても気持ち悪い。
家から釣り糸と針、それとバケツとビニール袋だけ持って、魚釣りに出発した。釣り竿は途中の竹やぶで、丈夫そうな竹をボキッと折り、現地調達した。エサは、海岸にある石にへばりついた小さな貝を叩き割って、中身を取り出し、針につけた。十一匹釣れたが、九匹はフグだった。フグは毒があるから食べられない。爺ちゃんは、フグが釣れたら石で叩いて殺していた。心の幼い自分が、かわいそうだと言ったところ、爺ちゃんはこう言った。
「海に逃がしたら、またそのフグが釣れるぞ」
大斗は、それもそうだと思ったけれど、フグは何も悪くないのに、かわいそうだと思っていた。爺ちゃんは、次に釣れたフグから、水面から遠い石の間に投げ入れるようになって、叩いて殺すことはしなくなった。
二匹は、きれいな魚が釣れた、とても綺麗な色だ。スーパーなどでよく見る青魚が釣れると思っていたが、一匹は赤を基調とした熱帯魚のような色で、もう一匹は緑を基調とした同じような魚だった。二匹とも「くさび」という魚だと教えてくれた。初めて聞いた名前だ。石の間の水溜まりに入れておき、帰る時に二匹ともビニール袋に入れようとしたら、緑の方の一匹はするっと逃げて、海に帰ってしまった。ビニール袋の中で泳いでいる、かわいそうな方の「くさび」を見ていたら、爺ちゃんの声がした。
「韓国が見えるぞ」
来た時から、水平線しか見えなかった海の向こうに、島が見える。蜃気楼みたいに、ぼんやりしたものでなく、はっきりと見える。あれが異国の町なのかと、いたく感動を覚えた。
帰ってから婆ちゃんに、魚を焼くか、味噌汁にするかの、どちらが良いか聞かれた。焼いた方が良いと思ったが、袋の中で元気をなくして生きている魚がかわいそうだと思って黙っていたら、婆ちゃんは「味噌汁にしようね」と言って、台所へ戻っていった。
味噌汁の中の変わり果てた姿を食べるのは、大変苦労した。正直食べるのはしんどかった。しかし、頂いた命なので、こうなってしまった以上、食べない方がかわいそうと、自分に言い聞かせて、きれいに食べた。スーパーなどでパックに入った魚を食べる時は、あまり感じないけれど、命を頂いて、生かされているのだという事を強く感じた。
こんな昔のことを思い出しているうちに、東京で働いていた時の、周囲の人たちを思い浮かべた。「これだけの仕事をしているのだから、良いものを食べて当然」という考えで生きている人も多い気がした。ひょっとしたら、それは勘違いなのかもしれない。日本で人口が集中している東京の人々が、ほぼ勘違いで過ごしているとしたら、日本は間違った方向へ進んでいくのではないか。いや、これは考え方が極端だ。そんな風に自由に考えを巡らせた。それから一週間近く、展望所で韓国が見えるのを待った。良かったことは、ずっと快晴で、今日こそ見えるかも知れないと、期待を持ち続けていられたことだ。悪かったことは、それだけ待っていたにも拘らず、韓国は見えなかったことだ。
韓国が見えたことを希望の糸というか、心の支えにして比田勝を去りたかったが、これ以上待っても難しいと思えたので、厳原へ帰ることにした。旅館に着いて、レンタカー業者に電話して、明日の午後四時に返却したい旨を伝えた。借りるときに「自由気ままに旅をしたい」と伝えたところ「返す時間は前もって決めておかなくても良い」と言ってくれていたのだ。厳原港のロータリーで、待ち合わせして車を返すはずだったが、レンタカーの担当者が、次のように言った。
「山城さんの家に直接行ってください。車は後で取りに来ます。内地からあんたを追い掛けて来ている人が、近くまで来ているみたいだけん、気を付けてください。山城さんには話は通じています」
内地というのは島の人が本土を指して言う言葉で、東京だろうが、福岡だろうが、島外ならばほとんどの場所を内地と呼んでいる。
大斗は、とりあえずお礼を言い「その様にします」と伝えた。
大斗の顔は青ざめて、思考は現実に戻って来た。まさか、キリンソフトが、対馬に大斗が来ている事を突き止めたのだろうか。全てにおいて、ボロを出していないとは言い切れない。あとは覚悟して厳原に戻るしかない。そう思った。
大斗は、翌日車を走らせ、島を南下し、厳原の街に入った。怖かったので、途中あまりどこにも立ち寄らなかった。無事に山城邸の駐車場に入り、車を降り、家の中に入ることができた。大斗にとって、山城家は安全地帯だった。そこに無事にたどり着くことができたのだ。