亡き愛を求める(1)
「もういらないの? まだ全然食べていないじゃない」
「ごめんなさい。あまり食欲がなくて……」
同僚の侍女からの案じるような視線に、居心地の悪さを感じてしまう。それを申し訳なく思いながら、女は自分の部屋に逃げ帰った。椅子に腰かけながら、大きく息を吐く。絶えず続く吐き気のせいで、食事も喉を通らない。
これから自分はどうすべきなのか。仕事をこなしている間も、そのことばかりを考えてしまう。
『こんなもの』、とっとと捨ててしまえばいい。他の者に知られてしまう前に、早く。そうしなければ、この後宮に居られなくなってしまう。
「うぅ……っ」
そして、自らの浅はかさを呪っている時だった。
──それ、じゃま、だよ、ね。
どこからか聞こえた幼い声に、女は周囲を見回した。
「……っ、どこ?」
室内に自分以外の姿は見当たらない。ならば、今の声は一体どこから?
恐怖を覚えた女は、部屋から出て行こうとしたが、錠を下ろしていないはずなのに扉が開かない。
「な、なんで……!」
──いら、ない、よ、ね?
耳元で問いかけられ、女は身を震わせた。得体の知れない『何か』が今、背後にいる。決して振り向いてはならないと、本能に訴えていた。
何度も何度も扉を叩きながら、助けを求めて叫び声を上げた。
「開けて! お願い! ここから出してぇ!」
──わたしが、すてて、あげるね。
あくる日、いつまでも姿を見せない同僚を心配し、部屋を訪れた侍女達が見たもの。
それは口から血を流し、絶命している彼女の亡骸であった。
◐
近頃、警護兵たちの間では『蒼鈴』の話題で盛り上がっているらしい。庭を散策していると聞こえて来た彼らの話し声に、蒼燕は眉間に皺を寄せた。
「昨日、蒼鈴様をじっと見ておったら、こちらを振り向いてくださったのだ」
「蒼鈴様は俺に気があるのかもしれぬ」
「いや、俺に決まっておる」
「俺だ」
全員違う。気などあってたまるものか、と心の中で蒼燕は言い放った。
視線を感じたので、振り向いただけである。確かに目が合ったような気がするが、ここまでくると勘違いも甚だしい。後宮では男女の仲になることを禁じられているため、彼らはろくに色恋沙汰がなかったのだ。その弊害が思わぬ形で生じている。
前を歩いていた主は作り物の微笑みを浮かべ、ちらりと後ろを振り向いた。が、彼女が何を考えているかは何となしに分かる。
望まずして、警護兵達を虜にしてしまった蒼燕を面白がっているらしい。
「……玲華様もお人が悪い」
「…………」
「ぐ……っ」
玲華は体を寄せたかと思えば、侍女の脇腹に肘を叩き込んだ。臓物が揺さぶられる感覚に、蒼燕は小さく呻いた。
「蒼鈴様、少しだけよろしいかしら」
数人の侍女を引き連れた妃賓に呼び止められた。が、蒼燕にとっては全員、見知らぬ顔である。玲華でさえ覚えがない。
妃賓が多ければ、当然、侍女の数も多い。
四龍妃、もしくはそれに次ぐ位を持つ妃賓とその侍女でなければ、顔などいちいち覚えていられない。
「わたくしに何か御用でございますか?」
「あなた大丈夫なのかしら?」
わざとらしい口調で訊ねられ、蒼燕は首を傾げた。
「玲華様の侍女になられて、苦労も多いでしょう? 何か困ったことがあれば、いつでもわたくしに相談してちょうだい」
「は、はい。ありがとうございます」
「あなたのような美しい子なら、いつでもわたくしの侍女として迎えて差し上げるわ」
本心はそれか。蒼燕は心の中で呆れた声を漏らした。
妃賓は気付いているだろうか。自分の侍女達が、たった今、こちらを凄まじい形相で睨み付けているのを。
「近いうちに、わたくしの茶会に招いてあげるわ」
「はい……」
「では、またお話しいたしましょうね、蒼鈴様」
妃賓達が去っていく。その時、侍女の一人がふらついた。
「う……」
「大丈夫?」
「ごめんなさい。あまり気にしないで……」
他の侍女に心配され、笑って誤魔化しているが、どうも顔色が悪い。蒼燕がその様子を見ていると、視線に気付いた彼女にきつく睨まれてしまった。
小さく溜め息をつくと、玲華が蒼燕の耳元に口を寄せてきた。
「おぬしも苦労しておるな」
「はい……玲華様のおっしゃる通りでございました」
蒼鈴もとい蒼燕を迎え入れようとする妃賓と、嫉妬の視線を向けてくる侍女。そのような者達に、ここのところ毎日出くわす。
いつになれば、収まるのだろうか。ぐったりとしながら、蒼燕は玲華との二日前の会話を思い返す。
『今におぬしを欲する者が、妃賓の中から現れるであろうな』
主からの言葉に、蒼燕は床掃除をする手を止めた。
『……妃賓が私を?』
『おぬしのような美女を伴っていたら、それだけで皆の視線を引き付ける。目立ちたがりの妃賓には何よりも美しい装飾品に見えるのだ』
『かざり物……でございますか』
それは少し複雑だと、蒼燕は眉を顰めた。すると、玲華が顔を近付けてきた。
『そのような表情をするな。美しい顔が台無しではないか』
『物のような扱いを受けるのかと思うと、あまりよい気分ではございません』
『私はお主を物扱いすると申してはおらぬ。それと、もう一つ』
ここからが重要だと、玲華が強い口調で告げる。
『おぬしを最初に気に入ったのは、私だ。そこらの妃賓なんぞには絶対にやらぬ』
その言葉に気恥ずかしくなり、蒼燕は顔に熱が集まるのを感じた。
『……私がお仕えすると決めたのは、玲華様だけでございます』
『承知しておるならよいが。よいか。絶対に、やらぬぞ』
『はい』
この主は、意外と独占欲の強い性格らしい。強く念を押され、蒼燕は首を縦に振った。
冥龍宮に戻ろうとすると、その扉の前に人だかりが出来ていた。蒼鈴目当てかと思いきや、妃賓や侍女が顔を赤らめて、ある一点を見詰めている。
彼女達の視線を追った蒼燕の目に映ったのは、自らの護衛兵と会話をする若い男であった。
高い背丈と涼やかな顔立ち。宦官や兵ではないことは、その贅沢な衣装ですぐに分かるが、官吏とも異なる高貴な雰囲気を放っている。
そして、その双眸は固く閉ざされていた。一年前、何者かに毒を盛られ、一命は取り留めたものの、視力を奪われてしまったという。
「白金様だわ……」
彼の名を呟きながら、妃賓や侍女が甘い吐息を漏らした。少し離れた場所からも、下女達や宦官がこちらを眺めている。どうやらこの人だかりは、彼を一目見ようと集まった者達で出来ているようだ。
白金。凛でその名を知らぬ者はいないだろう。
彼は現皇帝の側近にして、従兄弟に当たる。更には、この後宮の管理を一任されていた。
そして、独断で蒼燕を後宮へ引き入れた人物であった。
「警護に充てるべきではない」、「何者かに雇われた暗殺者ではないのか」など、それらの意見を退け、火傷の痕で素顔が分からない蒼燕を警護兵に任命したのだ。
──この者の『光』はとても美しい。良からぬことを企てておるとは思えぬ。
そのような理由をつけて。
蒼燕は白金の手の甲へ視線を向けた。
彼の手の甲で輝く円形の模様。太陽、月、星、あらゆる星の光を司り、世界を照らす力を持つ光龍の紋である。
本来、光龍は、四龍妃を誕生させるため、その代の主上によって選ばれた女へ加護を授ける。
しかし、今回はどういうわけか、白金がその加護を授かることとなった。
「それにしても、何故白金様は冥龍宮へお越しになったのでしょうか……」
首を傾げながら、蒼燕が疑問を口にした。そのような予定は聞いていない。「如何しましょう?」と玲華に問いかけていると、白金が小さく微笑んでから歩き始めた。まっすぐ、蒼燕に向かって。
「私はそなたに会いに来たのだ、蒼鈴」
甘い声で蒼燕へ語りかける白金に、周囲の女達が色めき立った。