冥龍の裁き(7)
静寂の夜、後宮の庭を一人の娘が歩いていた。
月光を浴びて輝く銀の髪。愛らしい顔立ち。
娘からは果実の香りが漂い、それに誘われるようにして、鳥の姿をした女が近付いていた。
だが、その体はあまりにも痛々しい。片翼と尾羽を斬られ、ふらつきながらも娘との距離を縮めてゆく。
「いい香り……私の、大好きだった……林檎の……」
掠れた声で呟きながら、少しずつ娘へ迫る。あと、もう少し。そう思ったのと同時に、娘が女の方へ振り向いた。
娘の右目は人のものではなかった。縦長の瞳孔と、薄紅色の虹彩。その眼に女を映しながら、娘は悲しげに口を開いた。
「もう、楽になりましょう。あなたは苦しみから解放されるべきだ」
その言葉の意味が分からず、女は困惑する。
解放? 一体何から? 何故、憐憫を向けられているのだろう。
それよりもと、女は娘へと哀願した。
「ねえ、あなた私の大好きな香りがするの、私とお友達になって。ずっと、私と一緒にいて……」
「……それは叶いません」
「そんなこと言わないで。火蘭様も……あの子達も……私の側から離れてしまったの……」
女の赤い瞳から一粒の涙が零れる。
「ねえ、どうして? 私は寂しかっただけ……なのに、皆が私の邪魔をする」
「はい。あなたは火蘭様と友になりたいと望まれていただけでした。そこに他意など在りはしない。ですが、そう思わぬ者に命を奪われてしまった……」
女は娘の言葉に涙をはらはらと流す。
「……あなたは分かってくれるのね。私のことを……」
「ですが、あなたは火蘭様の侍女や下女を我が物にしようとし、兵の命を奪った。その報いを受けねばなりません」
「え……?」
その時、女は背後に何者かが立っていることに気付いた。
「……そなたは後宮に入るべきではなかった。或いは、違った人生がそなたを待っていたであろうに」
自分の翼と尾羽を斬り落とした者の声だった。哀れみが込められているその声に、女は背後を振り向こうとする。その刹那、黒い刃によって体を斬り裂かされていた。
「冥龍の裁きを受けよ」
仮面で顔を隠し、黒衣を纏った者がそう言い放つ。
斬られた体は白い光の粒へ変じてゆく。痛みはない。
これで楽になれる。何故か、そう思っている自分に、女は戸惑っていた。
「私……消えるの……?」
女が問いかけると、銀髪の娘は目を伏せながら、小さくかぶりを振った。
「消えるのではありません。行くべき場所へ向かうだけでございます」
「そう……だったら、怖くないかしら……」
そう言い残し、ふっと笑みを浮かべた女の体が全て光の粒となり、夜空へと舞い上がってゆく。とても化生の最期とは思えぬ、美しい光景であった。
「……玲華様、あの厄はどのようになったのでしょうか?」
「冥龍の力により、浄化された。二度と現れることはないであろう」
娘に問われ、玲華は剣を鞘に収めながら答えた。
「左様でございますか……」
玲華の言葉に安堵の溜め息をつきながら、娘は夜空を見上げる。光の粒は既に消えていた。消滅する間際、厄は穏やかに微笑んでいたが、妃賓も生前、あのように微笑んでいたのであろうか。
「それにしても、それがおぬしの本来の顔か。驚いたぞ、蒼燕」
玲華の声は困惑の色が滲んでいた。
くすくす、と袖で口元を隠しながら娘、いや、蒼燕は花が綻ぶような笑顔を見せた。
「あの火傷の痕は化粧で作ったものでございます。己を化かすことは慣れておりますので」
「何故、そうせねばならぬ?」
「この顔では男と見られぬ時がございます。色々と問題が生じて困るのです」
表向きは禁じられているが、宦官や若い兵に手を出す官吏は多いとも聞く。火傷の痕はそれを防ぐための偽装であった。
「だが、おぬしのおかげで厄を誘き寄せることが出来た。感謝しておるぞ」
「いえ、私には勿体ないお言葉でございます」
「謙遜するでない。それで、何が望みだ?」
玲華からの問いかけに、蒼燕は首を横に振った。
「望みがあると申した記憶はございません」
「おぬしのことだ。事が上手く運んだ暁には、褒美をせがむと思っておったが」
図星である。はぐらかしても無駄だろうと、蒼燕は玲華を見据えた。
「私をあなたのお傍に置いていただきたい」
「……狙いは何だ」
「ある厄を探しております。どのような厄なのかは、まだ見当がつきません。しかし見つけ出し、殺さねばならない」
蒼燕の声には、並々ならぬ覚悟が秘められていた。それを聞いた玲華は暫し考え込むと、やがて答えを返した。
「断る。警護兵を贔屓して側に置く妃がどこにおる。怪しまれるに決まっておろう」
「常にと申しているわけではございません。私が求めているのは、厄の情報なのです」
「ふむ……」
玲華は再び考え込み始めた。そして、何かを閃めいたのか、蒼燕へ顔を向けた。
「皆に怪しまれず、おぬしを私の側に置く方法が一つだけあるぞ」
「まことですか?」
「おぬしにとっては、造作もないことであろう。中々の名案だと思うのだが……」
こちらをやたらと見つめる玲華に、蒼燕はやや顔を引き攣らせ、後ずさりをした。何故だろうか。良からぬ予感がしたのだ。
◐
数日後、一人の娘が後宮に足を踏み入れた。
名は蒼鈴。詳しい素性は明かされていないものの、玲華妃の侍女として抜擢された。
そして、蒼鈴の存在は、後宮中に瞬く間に知れ渡ることとなる。
上級妃賓に勝るとも劣らぬ美貌。病によって視力を失った右目を覆い隠す、透けるような白銀の髪。
玲華妃が美しく夜空に輝く月ならば、蒼鈴は可憐に咲き誇る花のようであった。
更に、これまで玲華妃に仕えていた侍女は紅梅を除き、全て解雇となった。当然、不服を申し立てる者もあったが、これまでの行いが仇となり、即座に後宮からの退去を命じられた。
そんな騒ぎの裏で、蒼燕という警護兵が後宮を去った。先日、同僚が宦官に殺された事件で、心を病んだとのことだった。
「……玲華様、ただいま戻りました」
憔悴しきった顔で蒼燕が言うと、玲華は心なしか呆れた様子で声をかけた。
「顔色が優れぬな。暫し休め」
「お言葉に甘えさせていただきます……ですが、久方ぶりに人というものが悍ましいと思えました」
蒼燕は椅子に腰をかけながら、深く溜め息をついた。
「主を置いて出歩くおぬしが悪い。私と共におれば、無闇に呼び止められることもなかろうに」
「訪ねたい場所があると申した私に、『面倒だ。一人で参れ』と仰せになったのは玲華様ではありませんか……」
「しかし、蒼燕。主上のお手つきとなるのも、もう間もなく、と言われておるそうだぞ」
どこか楽しげな様子の主に、蒼燕は再び溜め息をついた。現在の彼は顔にうっすらと化粧を施し、侍女の衣装を着こなしていた。
蒼鈴とは蒼燕の女装した姿である。
「まさか、このようなことになるとは」
「よいではないか。よく似合っておるぞ」
「そのようにお褒めいただきましても……」
それにしても、これほどまでに皆の注目を浴びるとは思いもよらなかった。どこに行こうが、取り囲まれてしまう。
ようやく冥龍宮まで逃げ帰れば、そこでは玲華が紅梅の淹れた茶を穏やかに飲んでいた。
「で、どこに行っておった?」
「……あの妃賓が暮らしていた部屋でございます」
厄はあくまで妃賓が残した思念によって生まれたのであり、既に彼女ではない。蒼燕はそう分かっていても、悲しい最期を遂げた妃賓が、安らかに眠れることを願わずにはいられなかった。
こっそり部屋へ向かうと、既に二人の女官がいた。厄に狙われていた火蘭の侍女と下女である。
「二人は妃賓が開く茶会に、よく招かれていたとのことでした。彼女が亡くなった後は、あの部屋で度々弔いをしていたとも」
「厄があの女達を欲していたのは、絶えず自分を悼んでくれておったからか……?」
この二人なら、ずっと共にいてくれる。そう思ったのだろうか。
玲華は窓の外に視線を向けた。雲一つない晴天を一羽の鳥が飛んでゆく。
「……友を求める。そんな在り来たりなことでさえ、この後宮では容易にいかぬ。自由に何かを思い、何かを為そうとすれば、それが命取りとなることもある」
それでも、様々な女が様々な事情から妃賓となり、この場所に足を踏み入れる。
この玲華妃のように。
「……ところで、何故私を側に置こうと決めたのですか?」
「……? 側に置けと申したのはおぬしではないか」
「そうでございますが。……拒まれると思っておりましたので」
女装の件は気が引けたが、こうもすんなり話が進むとは。蒼燕が秘密を口外せぬよう、見張るつもりなのだろうか。
蒼燕が頸を傾げていると、玲華の両手に両頬を包み込まれた。女性らしい白い手だが、その掌や指にはごつごつといくつもの剣だこがあった。
夜の月を思わせるような美女の唇が弧を描く。
「私は美醜にはさほど拘らない性格だが、どうせならば、身も心も美しい方がよい。つまり、おぬしのことが気に入った。それでは理由にならぬか」
「……私の心は穢れております。あなたの思うような者ではございませんが」
「そう申すな。主の言葉は素直に受け入れるものだ」
玲華からの言葉に、蒼燕は躊躇しながらも笑みを浮かべた。
冥龍の加護を授かった妃と、龍の眼を持つ青年。
二人の出会いが齎すもの。
それは五百年余にわたり続いてきた凛という大国の滅亡か、それとも。