冥龍の裁き(6)
「おぬしの右目……それは龍神の眼であるな?」
「はい」
玲華からの問いかけに答えながら、蒼燕は布を顔に巻き付けた。この顔を見ていても気分が悪くなるだけだろう。
「それをどこで手に入れた」
「……申し上げられません」
「何者かに口止めをされておるのか」
「いいえ。私の意思でございます」
玲華を完全に信用しているわけではないのだ、今はまだ明かすわけにはいかない。この右目を見せただけでも、相手を敬ったつもりだった。
その意が伝わったのか、玲華は追及をやめた。
「まあ、よい。だが、それならば私の術が効かなかったのも頷ける。鉄仁という武官が、昨晩の出来事に居合わせた者の様子が、おかしいと申しておったそうだ。その時は、もしやと思っておったが」
「鉄仁様の記憶がすり替わっていたのは、やはりあなたの御力によるものでございましたか」
「厳密に申せば、冥龍の加護による術だがな。厄の存在は、世間に伏せておかねばならぬ。漏れれば、皆が恐れて宮を去ってしまう」
そう話す玲華に困惑している様子はない。蒼燕の記憶が変わらぬままであることは、彼女にとって都合が悪いはずなのだが。
「……ですが、記憶を弄る術でございますか」
「地味であろう? 火を起こせず、水も出せず、風も吹かせることも出来ぬ。だが、これは厄という存在が公になることを防ぐためのものだからな。大いに役に立っておる」
記憶の書き換え。蒼燕は小さくそう呟きながら思っていた。玲華の言う通り、その術は地味ではあるが、使い道によっては大いに重宝する。例えば主上を手玉に取り、その寵愛を手に入れることが可能だ。いや、疎まれ、蔑まれている現状ですら変えることも出来るのだ。
「術は龍神の加護を持つ者には効かぬ。それに他の者に、『置物の妃』という印象を植え付けたのは故意だ」
蒼燕の考えを見抜いた玲華は、壁に凭れながら言った。
「厄を斬る者、黒月になれるのは冥龍の加護を授かった者のみだ。つまり、我が一族の当主にあたるが、様々ないきさつによって現在は私がその役目に就いておる。しかし、一族では、女が剣を握ることは禁じられておってな。それに、私の役目は厄に関わることのみで、夜伽はせぬ。そのことを周囲に悟られぬようにあのような心を失った妃を演じておるだけだ」
「それは何故です? 女が剣を振るえぬというわけではないでございましょう?」
蒼燕は疑問を投じた。女がてらに剣を握り、槍を振るう者はいる。事実、玲華の剣の腕は相当なものであった。手練れの将軍に匹敵、いや、それ以上の力量に思える。
首を傾げる蒼燕に、玲華は溜め息をつきながら答えた。
「女の役割は子を生すこと。男の真似事をするのは恥なのだ」
「ですが、あなたが冥龍の加護を授かったのは、一族の方々が殺されたからだと伺っております。ですから、あなたは本来のご自分を隠し、剣を握ることを決めたのでしょう? それのどこが恥だとおっしゃるのです」
玲華は一族に課せられた使命を果たすために、黒月となったのだ。彼女が責められる道理はないだろう。憤りを覚えながら蒼燕が問い質すと、玲華は一瞬だけ視線を逸らした。だが、すぐに再び彼に目を戻し、口を開いた。
「……私の身の上話など、どうでもよいであろう。おぬしがここにやって来たのは、他に尋ねることがあるからではないのか?」
「お伺いしても、よろしいのですか?」
「何故におぬしが来るのを待っていたと思うておる。それにここで断り、その腹いせに私のことを後宮中に言い触らされては敵わん」
その物言いに蒼燕は小さく笑った。
「私とて、そこまでするつもりはございません」
「では、どこまでしようと考えておったのだ?」
「言いふらすことと揺する程度でございます」
多少なりとも、気分を害されるだろうか。そう予測しながら蒼燕は正直に答えた。
だが、玲華が見せた反応は意外なものであった。僅かに微笑を浮かべ、皮肉げに語りかけた。
「おぬし、中々面白い性格をしておるようだな。泥水をかけられそうになっていた妃賓を助けたかと思えば、今度は脅すと申すのか」
「はい。今のあなたは、四龍妃ではなく黒月としての玲華様でございますので」
「構わぬ、話を聞こう」
玲華はどこか楽しげに言った。
「感謝致します。では、単刀直入にお尋ねいたします。……厄とは何なのですか?」
「人の思念より生まれる化生だ。夜になると後宮を彷徨い、面妖な術を以て人を襲う」
そう言いながら玲華は鞘から剣を引き抜く。その漆黒の刃を目にした途端、蒼燕は身震いを起こした。何故、と自身でも理由が分からず、当惑する蒼燕を見て、玲華は剣を鞘に戻す。
「無意識に冥龍の気を感じ取ったか。怯えるな、おぬしを害するものではないぞ」
「……そちらは昨晩使っておられた剣でございますか?」
「ああ。冥龍の力を宿した剣だ。厄を消し去るには、この剣で斬る他ない」
確かに、あの厄に蒼燕達の攻撃はまるで効かなかった。玲華が駆けつけるのがあと少し遅ければ、蒼燕は捕えられていただろう。あまりにも無力であった。あの者を救うことも出来なかったのだから。
悔しげに手を握り締める蒼燕に、玲華は淡々と話を続けてゆく。
「恨み、憎しみ、怒り、悲しみ。誰しもが持つ負の感情。それらが厄となると謂われておる。昨晩の厄もそうだ。あれは恐らく、かつてあの部屋の主だった妃賓の怨念が、厄に変じたものであろう。……蒼燕、おぬしもそのことに勘づいておるのではないか?」
「……何をおっしゃるのです。私も何も存じません」
蒼燕がはぐらかそうとすると、玲華が深く溜め息をついた。
「昼間、おぬしがその妃賓について調べていたと聞いておる。隠しても無駄だ」
一体、いつどこから。観念して蒼燕は答えた。
「妃賓は下級の位でしたが、常に品行方正を心掛けており、温厚な御方だったとのことです」
四龍妃の一人、火蘭妃とも交流があったらしい。横柄な振る舞いを見せることは決してなく、下女からも慕われており、人として立派な方だった。それが蒼燕の彼女に抱いた印象である。
しかし、彼女はある日、夕餉に毒を盛られて命を落とした。罪人は他の下級妃賓の侍女だったという。主への強い忠誠心が引き起こした一件であるが、結局、主が指図したのかは分からなかった。
火蘭妃に媚びへつらい、便宜を図ってもらうのを阻止するためだった。そう言い残し、侍女は自らも隠し持っていた毒を飲んで自害した。
「だが、いかに人徳のある者であろうと、怨念は生ずる。そして、あのような悍ましい厄となるのだ」
「……怨念だけでしょうか」
蒼燕が疑念を口にすると、玲華は首を傾げた。
「違うと申すのか」
「私には、あの厄が憎しみだけで生まれたものとは思えないのです……」
自分の邪魔をしたという理由だけで、兵を躊躇もなく殺めた。玲華の言葉通り、厄とはそのような存在なのだ。
だが、火蘭妃の侍女への執着を見せた声と表情は、真の人のようであった。そのことを思い返す蒼燕に、玲華は抑揚のない声で言い放つ。
「おぬしがどのように思おうが、厄は厄だ。あれはまだ、どこかに潜んでおる。再び被害が出る前に今度こそ斬らねばならぬぞ」
「しかし、厄の居場所をどのようにして、突き止めるおつもりでございますか?」
蒼燕が訊ねると、玲華は眉間に皺を寄せた。
「さしあたり、向こうから現れるのを待つ他ない。だが、何時、何処に姿を見せるのかは私も見当がつかぬ」
と言って、玲華はどこかきまりが悪そうに、視線を逸らした。
「でしたら、その役目は私にお任せいただけないでしょうか?」
蒼燕は自らの胸に手を当て、そう申し出た。
「厄を捜すのではなく、こちらから厄を誘き寄せればよいのです」
「何か、策があると申すのか」
「はい。厄は私の匂いに強く惹かれておりました。そして、その匂いの元はどうやら、あなたからいただいたものと思われるのです」
「……おぬしに渡した飴のことか?」
玲華は暫し考えた後、訝しげに訊ねた。
「あの飴には果汁が含まれておりました」
「ああ。林檎の汁を混ぜ込んでおると紅梅が申しておったが」
「………………」
蒼燕は言葉を失う。あの異常なまでに甘い飴は紅梅が作っていたらしい。舌が痺れる感覚を思い出していると、玲華がどこか誇らしげに問いかけてきた。
「紅梅の作る飴は、美味であったろう? 他の者は甘すぎると申して、誰も口に入れようとせぬが」
「は、はい。……厄が反応していたのは、恐らく林檎の香りでしょう。妃賓は林檎を好んで召し上がっていたそうです。これを利用しない手はございません」
「だが、上手くゆくのか? 林檎の香りにつられたとしても、あの厄は一度おぬしの姿を見ておる。まんまと罠にかかるとは思えぬが……」
「私だと悟られなければよいのです」
出来れば避けたい手段であるが、四の五の言っている場合ではない。