冥龍の裁き(5)
「あら、あなたも私を邪魔するの……?」
女が尾羽を伸ばして捕らえようとするが、剣士はその動きを上回る速さで、難なく避けていく。ならばと、詰め寄って速さを増しながら何度も尾羽を伸ばすが、剣士の素早い動きに翻弄され、虚しく空を切る。
次第に、女の顔に焦りの色が見え始めた。
「何なの、あなた……」
「厄を斬る者だ」
そう答えながら剣士は高く跳ね上がり、女の懐に飛び込んだ。女は翼で薙ぎ払おうとするが、それより速く漆黒の剣が左の翼を斬りつけた。
「うぁぁぁ……!」
斬り落とされた翼は白い光の珠となり、消えていった。片翼を失った女の体は大きく傾き、傍らで浮かんでいた火蘭妃の侍女の体が落ちてゆく。剣士は侍女を抱き止め、床に下ろすと、蒼燕へ視線を向けた。
「この者を頼む」
「……ああ」
蒼燕は侍女へ駆け寄り、様子を確かめた。侍女はぼんやりと虚空を見詰めている。血の気のない頬を軽く叩いてみたが、応えはなかった。不安を覚えていると、女が顔を歪め、蒼燕を睨みつけながら喚き立てた。
「返せ……! その子は私の……私のものだ……!」
単なる気まぐれで攫ったのではないのか? どこか切なげな声と姿に、蒼燕は困惑した。恐ろしい化生であるはずの女の様は、人そのものだった。
女は侍女を取り戻そうと、尾羽を伸ばした。しかし、二人の盾となり、目の前に立ちはだかる剣士によって尾羽は斬られ、光の珠へ変じて消えてゆく。
剣士は、狼狽し怯える女に、冷淡に告げた。
「この者は貴様のものではない。火蘭妃の侍女だ」
「……っ」
その言葉の意味を理解したのか、剣士に斬られた痛みのためか、女は何も言い返すことが出来なかった。剣士へ強い眼差しを向けると、自らの周囲に黒い靄を作り出す。その中に包み込まれてゆく女に、剣士が舌打ちをした。
「逃げるつもりか」
その呟きを耳にした蒼燕が、素早く弓を引き、矢を放つ。
矢は女の右胸に命中した。翼で薙ぎ払う余裕も残されてなかったのだろう。痛みに呻く女へ剣士が迫り行く。
しかし、女の体は黒い刃が届く寸前、完全に靄へ飲み込まれていた。靄が消え、室内は深い静けさに包まれる。蒼燕は自らの右目に布越しに触れてみた。焼けつくような痛みが引いてゆく。
だが、女が消えても侍女の様子に変わりはなく、蒼燕は剣士へ訊ねた。
「この者は、一生このままなのか」
「厄の瘴気に当てられておるだけだ。時が経てば回復するであろう」
剣士の答えに、蒼燕は安堵した。恐らく先程の下女も暫くすれば我に返るだろう。
しかし、女から生気を奪われて殺された兵は、蘇ることはなかった。干からびた体を抱き上げ、鉄仁が彼の名を呼び続けている。その光景を悲しげに見詰める蒼燕を一瞥し、剣士は口を開いた。
「仲間の死に苦しみたくなければ、今宵の出来事は忘れよ」
その言葉に、蒼燕は首を横に振った。
「……そうはいかぬ。あの者は私を庇い、化生に殺された」
「ならば、尚更忘れてしまえ。己のせいで命が消える悲しみなど辛いだけだ」
剣士が蒼燕の額に手を翳す。その刹那、見えた手の甲に、蒼燕は目を見張った。
「あなたはもしや──」
蒼燕の言葉が最後まで続くことはなかった。視界が黒く染まり、意識が遠退いてゆく。
「う……」
ゆっくりと瞼を開く。蒼燕は療養部屋の寝台で寝かせられていた。窓の外から目映い日の光が差し込む。頭が鈍く痛むが、昨晩の右目の痛みに比べれば大したことはない。
あの者に手を翳されたところから、意識が途絶えている。鉄仁達は、侍女は、あの後どうなった?
寝台から身を起こそうとすると、鉄仁が療養部屋に立ち入ってくるのが見えた。
「鉄仁様」
「目覚めたか、蒼燕」
嬉しげに声をかける鉄仁に、何ら変わった様子はない。安堵しかけた蒼燕だが、脳裏に虚ろな顔の侍女と死んだ兵の姿が蘇った。
「火蘭様の侍女はご無事ですか?」
「ああ。暫く意識の混濁が続いておったが、現在は受け答えが出来るまでに回復しておる。あの下女もな」
「では、私を庇った者は……」
その問いに、鉄仁は表情を曇らせる。安易に希望を抱くべきではなかった。彼の顔を直視出来ず、蒼燕は視線を逸らす。
「左様でございますか……」
「気を病むな。あやつも思慮を欠いていた。相手が宦官だからと油断をしたのだ」
「……今、何とおっしゃいました?」
蒼燕は我が耳を疑い、答えを求めた。その様子に、鉄仁は訝しげに訊ねる。
「覚えておらぬか? 宦官が隠し持っていた刀子で刺されたのだぞ」
日頃、陰湿な虐めを受けている宦官が、鬱憤を晴らすため、侍女や下女へ暴力を振るう。さして珍しくないことである。火蘭妃の侍女と下女に、怪しげな薬を飲ませ攫った宦官も、そんな一人だった。
偶然、女達の囚われている空部屋を見付けたものの、宦官が懐に忍ばせていた刀子で襲いかかり、兵の脇腹を刺した。傷が深く、すぐに手当てをうけたが、明け方に息を引き取ったのである。
それが、昨晩の見回りで起こった『出来事』であった。
眉根を寄せながら説明する鉄仁に、蒼燕は自身のこめかみに触れる。頭の痛みが酷くなった。
『今宵の出来事は忘れよ』
剣士の言葉が脳裏に蘇る。
◑
冥龍宮の警護は、不自然に思えるほど緩かった。他の四龍妃の住まう宮に比べ、警護兵が少な過ぎる。それに加えて、冥龍宮には龍珠が埋め込まれておらず、深い闇の中に聳えていた。
冥龍は龍珠の輝きを嫌うという謂われがあるらしい。おかげで、蒼燕は暗闇に乗じて容易に立ち入ることが出来た。
「玲華様」
宮の主は蒼燕の呼びかけに応えず、窓から覗く月夜を眺めていた。聞こえていないのか、聞き流しているのか。こちらに背を向けているため、表情は窺い知れない。勝手に後者と捉えて、蒼燕は話しかけた。
「昨晩は命を救っていただき、感謝申し上げます」
玲華が振り向く。その顔からは笑みが消えていた。夜色の瞳がじっと蒼燕を見据えている。
故意に警護を手薄にしていたのかもしれない。他の侍女だけではなく、紅梅の姿すらも見当たらなかった。
蒼燕がここにやって来ることを既に予測していたのだろう。手早く本題に入ることにした。
「……黒月があなただと気付いたのは、この目によるものです」
蒼燕は、自らの頭部を覆う布を解き始めた。次第に晒されてゆく熱傷の痕。玲華は眉一つ動かさずに見詰めていたが、蒼燕が右目を開くと僅かに反応を示した。
瑠流妃に見せた時には、閉ざしていた右目。それは薄紅色の瞳だった。その瞳孔は蜥蜴のように細長い。
人の眼ではなかった。
「玲華様もご存知のことでしょう。龍神の加護を授かった者は、その証として『ここ』に紋が刻まれる。私の右目は布越しであっても、それを見ることが出来ます」
そう言いながら、蒼燕は自らの右手の甲を撫でさすった。
「瑠流様は渦巻き状の紋を、玲華様は剣の紋をお持ちでございます。そして、あの剣士は──」
「私と同じ紋を持っていた。そうであろう?」
昨晩耳にした涼やかな声だった。
「まったく、龍神も要らぬものを押し付けてくれた」
眉を顰めながら、紋が刻まれた手の甲を見せる玲華に、蒼燕はつい笑みを零してしまう。静かに微笑んでいた妃と同じ人物には思えなかった。
「そちらが、あなたの本来の御姿ですか」