冥龍の裁き(4)
「面白いご冗談をおっしゃるのですね」
「田舎の奴らは皆耳にしたことがないと申しておったが。厄については、どこまで知っておるのだ?」
鉄仁が意外そうな表情で問うので、蒼燕は小さく笑いながら答えた。
「正体不明の化生でございましょう? 『厄について深く知ろうとすると、厄に喰われてしまう』との言い伝えがあるそうですが」
「では、『黒月』については?」
「いいえ。それは初めて耳にしました。厄と繋がりがあるのですか?」
「黒月は厄を斬る役目を担う者だ。漆黒の剣を振るい、厄を斬り裂く後宮の守護者らしい」
「……守護者? まるで後宮に厄が出るような言い回しではありませんか」
蒼燕は、怪訝そうにしつつ、自分が求めている情報が得られるかもしれないと、内心では歓喜していた。
蒼燕の思惑など知る由もなく、鉄仁は硬い面持ちで口を開いた。
「この後宮では時折、人が消えるのだ。高貴な家の生まれである妃賓や、将来を嘱望されていた宦官。そんな者達がある日突然姿を消すという。彼らは厄に襲われたのではと囁かれておるのだ」
「つまり、火蘭様の侍女達も、友人は厄によって攫われたと思っているのでしょうか?」
「俺はさほど信じていないがな。後宮は龍珠によって守られている聖域だ。化物が現れるとは思えん。……む?」
鉄仁の足が止まる。前方に人影が見えたのだ。
他の見回りの兵ではなく、若い娘だった。簡素な衣装を見るに宦官同様、雑用を主な仕事とする下女だろう。
下女が、夜更けに無断で部屋から抜け出すことは、固く禁じらている。
「そこの者、こんな時間に何をしておる」
「…………」
鉄仁の呼びかけに下女は反応を示さなかった。覚束ない足取りで近くの部屋に入ろうとしている。その様子を見ていた蒼燕は首を傾げた。
「自らの寝部屋に戻る途中だったのでしょうか……?」
「しかし、あそこは下女ではなく、妃賓に宛がわれる部屋だ。それに今は空室になっておるはずだが……蒼燕? どうした?」
「う……」
蒼燕は自身の異変を感じていた。
下女が部屋の扉を開いた途端、右目が痛み出したのだ。激しい痛みに小さく呻き、布の上から右目を押さえる蒼燕に鉄仁が声をかける。
「蒼燕!?」
「私のことはお気になさらないでください。それよりも下女をあの部屋に入らせてはなりません」
「どういうことだ?」
「胸騒ぎがするのです」
痛みで荒くなる呼吸を整えながら、蒼燕は下女を一瞥した。
「……あの者を部屋に入れさせるな」
「はい」
部屋に踏み入ろうとする下女を兵が取り押さえる。下女は抵抗を示さないが、虚ろな瞳でぶつぶつと呟いていた。
「いかなくちゃ……」
「おい、しっかりしろ!」
「いかなくちゃ……わたしも……」
「……様子がおかしい。この部屋に何があるというのだ?」
「私が確認して参ります」
「俺も行こう」
兵の一人と鉄仁が部屋に入って行く。残りの二人は蒼燕を案じていた。
「右目はまだ痛むか?」
「はい……痛みにある程度は慣れてきましたが」
「お前はこの下女を連れて療養部屋へ行け。あとのことは俺達に任せておけばよい」
蒼燕を残し、彼らも部屋へ入ろうとした時だった。
「うわぁぁぁぁ!!」
先に部屋へ立ち入った兵の悲鳴が聞こえてきた。
「!」
下女を廊下の壁に凭れさせ、蒼燕達も部屋に駆け込む。兵は怯えた表情で腰を抜かし、鉄仁は天井を見上げたまま硬直していた。彼の視線を目で辿り、蒼燕は『其れ』を見付けた。
「ふふ……」
上から聞こえる笑い声。
「……貴様は何者だ」
鉄仁は、僅かに震える声で『其れ』に問いかけた。
巨大な黒い翼。
足には、如何なる獲物も捕らえて離さない鋭い鉤爪を持ち、黒髪は足元まで伸びている。
体は無数の鳥の毛で覆われ、細くて長い尾羽は床に届くほどである。
妖艶な笑みで蒼燕達を見下ろす女の瞳は赤く光っていた。
そして、女の傍らには一人の女官が浮かんでいた。
「あの服……火蘭様の侍女か」
「可愛いでしょう? 私のものなのよ……あの子も私のものにするつもりだったのに、あなた達が邪魔をするから……」
「……誰でもよい、今すぐあの者を連れてこの場から去れ。奴の次の狙いはあの者だ」
鉄仁の言葉にいち早く動いたのは、腰を抜かしていた兵だった。どうにか立ち上がり、部屋の外にいる下女の手を引いて去っていく。下女を守るためではなく、この場から一刻も早く逃げるために。
女が下女を追いかけようとするが、険しい目付きの鉄仁が立ち塞がる。
「その者を返せ、化生!」
鉄仁は、背中に背負っていた弓を構えて叫んだ。その顔は恐怖と緊張で強張り、声と手も震えている。それでも、ここで退くわけにはいかないと自らを奮い立たせていた。
その姿を見た他の二人の兵も武器を構える。だが蒼燕は、自分達ではあの化生を倒せないと、鉄仁へ撤退を促した。
「お待ちください、鉄仁様! ここは一旦退くべきでございます!」
「だが、あの者を救うことが出来ん!」
鉄仁が矢を女へ射かける。
胴体を狙ったはずだった。だが、女は嘲笑いながら翻した翼で矢を弾き飛ばした。こちらへ跳ね返ってきた矢が鉄仁の腕を僅かに掠り、床に突き刺さる。
「くそっ!」
「し、死ね化生!」
狼狽しながら二人の兵も無作為に矢を放ってゆく。
狙いを定めずに放たれたそれらは次々と翼で弾かれ、そのうちの一本が兵へと向かってしまった。
だが、その矢は他方から放たれた別の矢によって弾かれた。安堵した兵が周囲を見回すと、その矢を放った位置で蒼燕が弓を構えている。
「蒼燕……」
「闇雲に矢を射るものではございません」
「あ、ああ……済まない」
右目の痛みを気にかけている場合ではない。蒼燕は女を鋭く睨んだ。
「お前が……厄と呼ばれるモノか?」
「ふふ……ねえ、あなた……」
「……何だ?」
女はうっとりと微笑んだ。
「とてもいい香りがするわ……」
「…………?」
「私の大好きな香り……もっと近くに来て頂戴」
翼を羽ばたかせ迫りくる女に、蒼燕は素早く矢を射かける。狙いは女の胴体ではなく、顔だった。
「うっ!」
矢が右目に命中する。続けざまにもう一撃。左目に突き刺さる。小さく呻きながら動きを止めた女を見て鉄仁が声を上げた。
「仕留めたか!」
「……いいえ」
蒼燕は目の前の光景に眉根を寄せた。
「ふふ……こんなもの……」
両目に刺さった矢が粉々に砕け散り、目の傷も瞬く間に塞がってしまう。愕然とする蒼燕を捕えるため、女が再び迫りくる。
「あなたも私のものにしてあげる……!」
「く……っ」
より速さが増し、矢を射る間もない。苛立たしげに舌打ちをする蒼燕へ、細い尾羽が伸ばされる。
捕まる。そう思った時、先程矢を弾いて救った兵に、蒼燕は突き飛ばされていた。
「ぐっ!」
女の尾羽が兵の体を絡み取る。
「逃げ、ろ、蒼燕……!」
女は捕らえた兵を自らへ引き寄せていく。その光景に、蒼燕は声を張り上げて訴えた。
「貴様の狙いは私だろう! その者を離せ!」
「あなた、邪魔だわ……」
「やめろ……!」
「死になさい」
逃れようと必死に藻掻く兵に女が口づけをした途端、兵の体から力が抜けて動かなくなった。
蒼燕は彼の姿に見て言葉を失う。生気を奪われ、まるで木乃伊のように干からびていった。
兵を床へ投げ捨てると、女は愉しげに笑い声を上げた。
「うふふふ……あはははは!」
「くそ……!」
蒼燕は直ぐ様兵へ駆け寄るが、既に事切れていた。開かれたままの彼の瞼を手で下ろしてやる。
兵の亡骸を見下ろしながら、蒼燕は怒りで体を震わせる。
人の命を弄ぶ、醜悪な化生。これが厄という存在なのか。
「さあ、今度こそあなたを頂戴……」
女が蒼燕に視線を移して、舌なめずりをした時だった。
「そうはさせぬ」
颯爽とした声が澱んだ夜の空気を震わせ、黒い風が蒼燕の横を通り過ぎた。
風の正体は仮面で顔を隠した黒衣の剣士であった。
漆黒の剣を片手に、女へ駆け走っていく。
「人の闇より出でし厄よ、冥龍の裁きを受けるがよい」