3.
「疲れました」
朝起きて、直後に彼が訪ねてきて、ベッドの上で半眼で座り込んだままありのままの事実を告げる。
「え、なに寝るの遅かったの?」
「これは寝不足なんてチャチなもんじゃあねえ」
「何時に寝たの?」
「9時くらい」
「お子様かよ」
「ふはは、健康的だろう?」
彼は呆れたっぷりにため息をついてリビングに引き返す。もうしばらくぽけっとしてから起き上がると、ふんわりとコーヒーの香りが漂ってきた。
「ううっ、キミはまるでわたしの嫁のようだ。好き」
「頼むからお前が嫁になってくれ。‥‥‥‥あ」
単なるツッコミのつもりが思いがけずプロポーズになってしまい、彼は気まずげに視線を逸らす。
半分も開いていなかった瞳がぱちっと開いて、ぬへへと彼に詰め寄った。
「ふむふむ、つまりキミはわたしに奥さんになって欲しいと」
「‥‥くそ、こんな時だけ活き活きしやがって」
「で、どうなのかね? わたくしとご結婚したいのかね?」
「もう何回も言ってるだろ」
「何度でも言いたまえ」
「すきけっこんしたい」
開き直ってわたしの目を見ながら、だけどちょっとおどけた口調で言ってくれる彼に、わたしはうんうんと頷いてみせた。
「よしよし。素直に言えてエラいエラい」
彼はそんなに背が高くないから、手を伸ばせばすぐ頭に届く。たとえ寝起きで寝ぐせだらけですっぴんでしわくちゃのパジャマでも、わたしのほうが年上のお姉さんなのだ。
いつもは嫌そうに振り払う彼だけど、今は何も言わずわたしのナデナデを受け入れていた。
――わたしの顔に浮かぶ、わずかな翳りを感じ取って。
「‥‥疲れてんなら、座れよ」
呆れながらも、椅子を引いて促してくれる彼。うへー優しいぜ愛してるぜと告げる前に、用意してくれていたコーヒーをすすった。彼の淹れるコーヒーは美味しい。なぜならウチに置いてある豆は高いからだ。
「ちょっと変な夢見ちゃってね」
前置かずに唐突に言うと、彼は悲しげに眉尻を下げる。わたしは「ぬはは」と笑いながら、ずぞぞぞとコーヒーをすすった。
「いや、昔の夢とかじゃないよ。ただ、なんか長くてよく分かんなくて、寝た気がしないだけ」
彼はしばらく困ったようにわたしを見ていたが、諦めたようにため息をついてコーヒーをすすった。
そりゃ、たまには昔の夢を見ることもある。汗だくで目が覚めたりもするけど、それだけだ。誠に遺憾ながら、苦しむことには慣れてしまった。
やがて彼は立ち上がって、勝手知ったる様子で台所へと向かう。そしてそのまま朝食の準備を始めてくれた。
そう、彼は家事が出来るのである。うーむ、やはりお嫁さんになってほしい。
食前にコーヒーを飲んだのに合わせて、彼はサンドイッチを作ってくれているようだ。パンを切って、レタスとチーズとハムを挟んで、卵を焼きながらトマトを切っている。棚の奥からジャムを見つけて、賞味期限を確認してからわたしの皿に乗ったパンにだけ塗っていた。おやおや、どうして自分では食べようとしないのかな。
「なんか、包丁の扱いがこ慣れてるよねー」
冷蔵庫に入れていた覚えのない果物でフルーツサンドまで作っているのを眺めながら、何の気なしに口にする。
彼は一瞬皮を剥く手を止めてから、呆れたような視線を向けてきた。
「いつもご飯作らせていただいてるからな」
「へへー、ありがたや」
なるほど、わたしが料理しなさすぎなだけらしい。よっぽど下手ってことはない、と思うのだが。多分。
刃物を持ったのはいつが最後だったかあまり覚えていない。最近何かしたような、してないような。
やっぱりわたしは、お嫁さんには向かないようだ。
「やっぱりキミは素敵だね。家事も出来るし気遣いさんだし背もちっちゃいし」
「おっと、ジャムとわさびを間違えそうだ」
言いながら、色とりどりのサンドイッチのお皿が目の前に置かれた。ジャムを塗ってるのはやっぱりわたしのだけだった。ま、見た目大丈夫そうだし、問題ないだろう。
ムシャアとジャム入りサンドに齧りつく。美味しい。彼がちょっと気遣わしげにわたしを見ていた。いや、なら出すなよと今ばかりは全力で突っ込みたい。
食べながら、ふと顔を上げて彼を見る。
「指、切ってる」
「え、ああ、うん」
彼の左手の指先が赤く濡れていた。彼はどうでもよさそうにそれをぺろりと舐める。
「てか、よく気付いたな」
「ふふふ、彼氏の一挙手一投足から産毛の数までわたしは把握しているのだ」
「ごめん愛が重すぎてしんどい」
わたしは立ち上がって彼の隣に行き「うぞぞぞぞぞぞぞ」
「うわ気持ち悪りぃ!」
可愛い彼女が舐めて癒してあげているのに、酷い言われようである。
「もっもわへへへやひゃへへ」
「喋る前に離せ! 吸引力凄すぎて怖い!」
きゅぽん、と指を引き抜くと、彼は乙女のように腕を抱えて身を引いていた。
その指先を見て、わたしはにっこりと笑う。
「血、止まったね」
「血の気が引いたんだよ」
素直になれない彼もまた愛しいのである。
わたしは自分の席に戻って食事を再開する。彼はまだ訝しげにわたしを見ていた。
「何事もなかったかのように日常に戻るのやめてくれません?」
「ふふっ、わたしたちにとってはこの程度のじゃれ合いは日常だ。そうだろう?」
彼はしばらく嫌そうに口を噤み、「否定できないのが嫌だ‥‥」と嫌そうに呟いた。まったく、素直じゃない。
「てか、今日は何かご用事だったの?」
彼が朝から来ることは特別なことではないが、用もなく来るのは珍しい。何の気なしに尋ねてみると、彼は若干口元をひん曲げて、「いや、まあ」と曖昧な返事を寄越した。
「‥‥昨日夜、連絡しても反応なかったから」
なるほど、わたしに何かあったのかもしれないと心配してくれたらしい。なかなか甲斐性のある彼ではないか。
「ふふふ、お姉ちゃんの声が聴けなくて寂しかったのかね?」
彼は全力で眉間に皺を寄せて嬉しさを誤魔化している。わたしには分かるんだ。
「‥‥でも、色々物騒なことも多いから、ホントに気を付けろよ」
なんだかやけに心配してくれているようだが、そんなに心配されるほどわたしは危なっかしいだろうか。
「うーむ、でもわたし、命を狙われるような恨みは買ってないと思うんだけどなあ」
「世の犯罪全てに正当な理由があるなら苦労しないよ」
なんだか思わせぶりな台詞だけど、確かにその通りだ。
平和な毎日ってヤツは、唐突に、理不尽に、無慈悲に、終わりを迎えるものなのかもしれない。
――だけど同じくらい、そうやって終わりを迎える日常は滅多にないってこともまた事実だと思う。
「じゃあ、コーヒーのおかわりを淹れておくれ」
だからわたしは、いつも通りなにも考えずに怠惰な日々を貪るのだ。
「‥‥ホントお前は、アホの化身だよな」
なんだかんだと言いながら絶対にわたしを見放さないでいてくれる、彼がいるから。