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2.

 重い、重い足取りで、私は道を歩いていた。


 私は先日、妻と娘を失った。

 事故だった。


 あれから少し時が経って仕事には一応復帰しているが、今まで通りの業務はしていない。出来るわけがないし、周りの人たちも同じように思っているようだ。

 多分、しばらく休んだところで文句を言う人は、いや、直接言ってこられる人はいないだろう。それでも仕事に行くのは、今の私には今まで通りの生き方しか出来ないからだ。


 仕事に行きたいわけではない。だが、行かなければ他に出来ることなど何もない。死んだように立ち止まってしまうことを恐れて、今まで通りの生活を維持することで私はどうにか私という存在を維持している。


 だが、私の中にあるのは絶望と虚無感、それだけだ。

 朝起きて、ご飯を食べ、仕事に行き、しつこいマスコミに応じ、帰り、ご飯を食べ、寝る。

 それだけ。


 動いているだけで、本当に生きているのか疑わしい。出来ることなら、ふたりの後を追いたいと思うこともある。けれど、そんなことをふたりが望んでいるとは思えなくて、いつもギリギリのところで踏みとどまる。


 何よりも大切なものを失って、私は何のために生きているのだろう。

 そんな自問を繰り返すだけの毎日だったが、先日、そんな私の心を揺さぶる出来事があった。だが、それに対して私は何を思い何を求めているのかが分からず、決定的に何かが変わることはなく今に至っている。


 夜の更けた街には私以外ほとんど人がいない。まるで、私の胸中をご丁寧に表現しているかのようだ。かつかつと響く私の足音はあちこちにぶつかって跳ね返り、存在の輪郭を曖昧にしていた。


 細い路地を歩いて大通りに出ると、道の向こうからタイミングよくタクシーが走って来ていた。手を上げてそのタクシーを止め、ふらふらとした足取りで乗り込む。覇気のない声で行き先を告げると、運転手は短く応答して車を走らせた。


 どうやら寡黙らしい運転手は、黙々と車を走らせる。タクシーといえば話好きなイメージが強いが、今の私にはそれがありがたい。応答のひとことだけだが、声が若かったので年長者ほど会話を好まないのかもしれない。


「ねえ、オジサン」 


 が、不意に運転手が前を向いたまま、声をかけてくる。

 なんだか、ひどく馴れ馴れしい。それに先程聞いて感じた以上に声が若い。

 顔を上げると、運転手の後頭部が見える。帽子を目深に被っているため、バックミラー越しにもその顔は見えない。


「ずいぶんと暗い顔をしてるね。何かあったの?」


 そう尋ねる声は、どこか弾んでいるように聞こえる。知っていて、わざと尋ねているようにしか聞こえない。


「あはは、ごめんごめん。怒るかと思ったけど、怒らないんだね。すっかり、心が死んじゃってるのかな。まあ、これが普通の反応なのかもしれないね」


 運転手は少年のような声で、重苦しさとはあまりにも無縁な調子で笑っている。

 今日まで見てきたどこ反応とも違うそれに、私は怒るよりもむしろ、興味を持った。

 そしてその声と喋り方には、どこか聞き覚えがあるような気がして、それがひどく引っ掛かった。


「キミ‥‥運転手さんは、私のことを知っているのですか?」

「当たり前じゃん、何言ってんのさ。オジサン有名人なんだから、顔見ればすぐ分かるよ」


 あっけらかんと言ってのける運転手。私のことを知っていながらこれだけ軽い調子で話してくるのは、やはりあまりにも異質だった。


「ところでさあ、オジサン。前置きとかめんどいから率直に聞くけど‥‥ムカつかないの?」

「‥‥‥‥何に、ですか?」


 あまりにも唐突な質問に尋ね返すと、運転手はなぜか大きな笑い声を上げた。


「何にって、ひとつしかないじゃん! こんな時までお行儀よくいられるなんて、ある意味すげえ図太いんじゃないの?」

「加害者に、ですか‥‥」


 さすがに少しだけムッとして返すと、運転手はクスクスと愉快そうに笑う。


「ほら、マスコミとか周りの人間とか、ホントはムカツク相手なんて他にもいるけど一番にそれが出てくるってことは、やっぱムカついてるんじゃん」


 当たり前の話だ。何よりも大切なものを奪われて、明るい感情を抱くなど不可能だ。


「‥‥それは、そうですが、だから何だというのですか。彼はもう、裁きを受けました。これ以上、どうしろと‥‥」


 運転手は、再び大きな笑い声を上げる。さらに苛立ちそうになり、しかし、私はその笑い声に、とあることに思い至ってしまった。バックミラー越しの彼の口元が、ニイッと笑みの形に歪む。


「どうするって、それはボクが決めることじゃあないかなあ‥‥」

「‥‥き、キミは‥‥まさか」

「オジサンさあ――悔しいって思わなかった?」


 言葉を遮って唐突に投げられる問いが何のことか分からず、答えあぐねる。


「腹が立つのは当たり前だよ。どうにかしてやりたいって思うのも、当たり前だよ。だからオジサン、本当はスッキリしたでしょ? ボクが――アイツをボコボコにして」


 今度こそ、確信した。今目の前に居るのは、あの動画に出てきた少年だ。今、警察が必死になって探している少年が、ここにいる。

 けれど私は、通報しようと思うことは出来なかった。


「人前では言えないだろうけど、本当は嬉しかったでしょ? 死ねばいいって思ってた男があんなことになって、ざまあみろって思ったでしょ?」


 少年の言葉に、私は返す言葉を失っていた。彼は気にした風もなく、言葉を続けた。


「喜んで、だけどちょっと、物足りないって思ったでしょ? 本当は――自分の手でぶっ殺してやりたいって思ったでしょ?」


 何も答えず、彼を疑う。


 彼はいったい――どこまで私の心を読んでいる?


「本当は自分がやりたかったことを、見ず知らずの他人のボクなんかに奪われて悔しかったよね。ごめんね、悪かったとは思ってるよ。けど簡単に他人に任せられることでもないからさ、許して欲しいな」


 言葉とは裏腹に悪びれない様子の彼は、「そこで本題なんだけど」と、その話を切り出した。


「オジサン、アイツを殺すのをボクに依頼してみない?」

「‥‥‥‥‥‥‥‥え?」


 何を言っているのか、すぐには理解できなかった。

 ようやく言葉の意味が脳内に馴染んで来ても現実的な言葉として受け入れられず、しかしすぐに、彼にとっては荒唐無稽な話ではないのだろうと思い至った。


「前回のアレはさ、ボクが勝手にやったことだから、オジサンとは無関係。だけどもしここで、オジサンがボクに殺してくれって言ってくれればさ、それはオジサンの意志によるもの。つまり、オジサンがアイツを殺したと言っても過言じゃないってことさ。どう? 悪い話じゃないと思うんだけどなー」


 ぐらりと視界が揺れる。

 そんなこと、許されない。許されない、はずだ。


 けれど、拒絶できない。沸き起こる感情が否定の言葉を押し留めている。

 恐怖や、不安。それだけじゃない。


 私は今――高揚している。

 あの男を、殺せることを期待して。


「‥‥けれど、キミは動画で、殺さないのが良いと言っていたんじゃないのか」

「あははっ! なんだよ、やっぱりあの動画、しっかり見てくれてるんじゃん」


 わずかに燻る道徳心が、感情を押し留めるための理由を探すように心にもない言い訳を紡ぎ出す。しかし少年は笑いを収めると、ひどくどうでもよさげに鼻を鳴らした。


「まあ、あのジジイが苦しむ姿は滑稽で面白かったよ。けどさ、これからアイツが死ぬまで見てるだなんてヒマなことする気もないし、ボクはあの日楽しんだだけで満足してるんだよね。惨めな余生を送るのは確定なんだから、その想像だけで十分だよ。ふふっ、あははっ」


 動画の最後で見せたような、抑えきれない愉悦の笑いを上げる少年。破滅を喜ぶその残虐性は、あまり受け入れられそうにない。


「それで、どうする? オジサン」


 バックミラーの向こうで、少年がニヤリと笑った。


「殺して欲しい? 欲しくない?」


 少年の声が、鋭い刃となって突き刺さる。そうして身体の内側に潜り込んだそれは、途端にその鋭さを収めて私の心を優しく撫でてくるのだ。


 その感覚に、激しく呼吸が乱れた。

 何よりも大切な妻と娘を奪った男を、殺せる。

 それは、魅力的な提案だろうか。


 私はあの男のことを恨んでいる。当然だ。殺してやりたいと、思わなかったわけがない。だが同じように、ヤツを殺して何になるとも思った。ヤツが死ぬことで妻と娘が生き返るわけではない。それは、あまりに無意味な行為だ。


 だが――


 そうであれば、この少年が動画で行っていたことも無意味だ。無意味のはずだ。

 けれど私は、あの動画を見て溜飲が下がった。いや、違う。救われた。違う。


 ――感銘を受けた。


 あんなにも楽しそうに、私刑を加えるその姿に。

 そこで私は、ようやく気付いた。

 確かに、あの男が裁きを受けること、死ぬことに意味はない。


 ――〝私が殺す〟ことに意味があるのだ。


 キレイゴトはいらない。報復だ。復讐だ。憎悪だ。怨嗟だ。

 殺してやりたいと思うから、殺す。

 それだけだ。


「――殺してくれ。頼む」


 気付けば、私の口は躊躇いなく、流暢にその言葉を発していた。

 少年の口元が、愉悦に歪む。気味の悪いその表情が、今だけは神々しくすら見えた。


「はいよ、承りました。お望み通り、今度はきっちり息の根を止めてあげるよ」


 そう言って、少年は人差し指と親指で輪っかを作り、私に見せつけるように目の前でひらひらとさせた。


「もちろん、正式な依頼なんだからちゃーんと料金を頂くからね。要はそれで、オジサンのお金がアイツを殺したってことだから」


 なるほど、と合点がいく。私が金を払わなければ犯人が死ぬことはなかった。だから私がヤツを殺した。

 とても分かりやすい。金とは、時に物事をスムーズに推し進めるための道筋となり得る。


「ちなみに、前回の動画の分はサービスだけど、オジサンがどうしてもって言うなら払ってくれてもいいよ。後付けの理由にはなっちゃうけど、それでオジサンもあの動画に一枚噛んだってことになるからね」

「いや、あの動画は気持ちとして受け取らせてもらうよ」

「‥‥ふっ、ふふふっ、あはっ、あははははっ!」


 抑えきれない笑い声は甲高く、まるで少女のようですらある。そしてそんな中性的な幼さを擁していながら、会話の内容とのギャップに歪みを感じずにはいられない。


「それで、いくら支払えば‥‥」

「ん‥‥はい、こんくらい」


 少年は信号待ちで止まった隙を見て、手元にあった領収書をメモ代わりに、金額を書いて手渡してくる。

 そういえば、当然のようにタクシーを運転しているこの少年は、本当に運転手なのだろうか。そもそも、免許を持っているのだろうか。


 不意に沸き上がったその疑問は、次の瞬間に霧散する。

 解消したわけではない。この少年が、常識という枠の中で考えるのが不毛な存在だと気付いただけだ。

 マトモな人間であれば、あんな動画を上げやしない。

 事故でも起こされたらたまったものではないが、危なげなく走っているのであればそれで十分だ。


 思考を逸らすように向けた視線の先の数字を見て、ぎょっとした。

 いや、人がひとり死ぬのだ。これくらいが妥当な金額なのか。いや、相場など全く分からない。これは高いのか、安いのか。いや、そもそもあんな男のために金を支払うというのが不条理だ。死んで当然だというのに。いや、そもそもこんな金額払えるだろうか。


 ‥‥いや、払えるな。妻とふたりで貯めて、使いどころを失った貯金が眠っているのだから。


 いやいやと続いた思考の先に、絶望が待ち受ける。

 そいつはどこにでも現れて、その度に私の心を砕いてゆく。執拗に、何度でも。


「‥‥これだけ払えば、殺してくれるんだな」

「もちろんさ」

「逃げたりするんじゃないぞ」

「安心しなよ。ボクにとってこれくらい、覚悟にも値しないことだって知ってるでしょ?」


 常識と倫理を逸脱した彼の言葉は、今はひどく安心を与えてくれる。上辺だけのお悔やみの言葉より、よほど強烈に私の心に響いていた。


「たっぷりと苦しませてやってくれ」

「あははっ、追加オプションかい? オジサン欲張りだね。いいよ、愉しませてくれたお礼にサービスしてあげる」


 言葉通り、とても愉快そうに笑いながら快諾する。


「それでさ、オジサン。もうひとつ、とーっても魅力的なオプションがあるんだけど――」


 ニイッ、と。

 動画の最後に見せた笑みを――愉悦を抑えきれないように溢れ出す笑みを、この世の歪みを吸い尽くしたような笑みを、何の躊躇いもなく泥んこ遊びに夢中になる子供のような笑みを――浮かべて言った。


 メモ帳として利用されるだけの領収書をもう一枚差し出され。

 躊躇いは、ほんの一瞬。

 私は了承の意を伝え、顔を上げるとバックミラーには変わらぬ笑みが映り込んでいた。


 ――そこにあるのは、私の顔だった。


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