国境での出会い
前話と元々一話だったのですが、長くなったため分割した分なので更新しておきます。本日二度目となっています。お気をつけください。
エステルが一番信頼する侍女が持たされていたのは、最も質の良く、強い魔法の込められた魔法石であった。本来は何かエステルに危機が迫ったとき、エステルをその場から離れさせるためのもので、外のある程度の場所からなら城に戻ることが出来るようにとされたもの。
だからそれなりの距離を移動することが可能で、一人であればなおさらであった。エステルは一度では着くことが難しいと踏んでリジーの持っている魔法石ももらったので、もう一つ自分で身につけていたブローチの石部分――同じ魔法が込められた魔法石を以て問題の地へと来ることができた。
「王都へ報告が行ってから、それほど時間は経っていないはず……」
いきなり争いの真っ只中に出ては危ないので、少し離れた場所に出たエステルは急ぎ走る。
「ああもう、こんな格好で来るんじゃなかったわ」
ドレスは良いとして、せめて靴。走り辛いばかりだ。
裸足になりたくなるところをぐっと堪えつつ防衛のための砦へ着くと、そこはもう戦場だった。
「これは――」
独り言が自分の耳にも届かない喧騒。叫び声、怒鳴り声、忙しなく鬼気迫る様子で走る兵たち。
砦はまだ突破されていない。見えるのは全て自国の制服を身につけた兵のみだ。
見えない向こう側では戦いが開かれているはずだ、と敵から砦を守ろうと奮闘する兵の間をすり抜けて、指揮官がいるであろう砦の中の部屋に向かう。
「殿下」
指揮官室に飛び込むと、砦の指揮をしている貴族がいた。
「状況は?」
「悪いです。特にあちらは兵の数もさることながら戦闘用の魔法道具を使用しているようです。飛んで来るのは魔法のみではなく、とんでもない距離を飛ぶ大きな弾ですが――」
地響き、体を激しい揺れが襲う。エステルがよろめいたところを侯爵が腕を掴んで支えた。
砦に攻撃が当たったようだ。
「失礼致しました。魔法防壁が破られ、こちらに見えるのはぶつかる間際ですから、防ぎ切れていません」
「他の貴族は」
「上です」
示されたのは空。
「あちら方の魔法族――貴族が上から奇襲を狙って現れましたので。砦を潰そうと考えたのでしょう。そちらにかかりきりなのです。緑の国は不意を討ち、今回一気にここを突破してしまうつもりだと思われます――倍の貴族がいます」
「報告は城に伝わったからすぐに貴族が派遣されてくるはずよ」
「そこまでもてば良いのですが……かなりの短期決着を狙われています。砦の中へ籠った方が時間を稼げるかもしれません」
それほどの数を投入してきているらしい。エステルは踵を返した。
「殿下、どこへ」
「時間稼ぎに行ってくるわ!」
「お待ち下さ――」
今度は反対側の外に飛び出ると、「駄目だ! 侵入される!」という叫び声が聞こえてますます悪い。
崩れた壁から緑の国が攻めてきた方を見て、息を飲む。もうそこには自国の兵はほぼ臨めなかった。
「駄目よ……」
下はきっと魔法を使えない兵か、魔法を使えても下級の貴族のみかもしれない。空に居続けるための魔法を使いながら戦えるのは上位貴族だ。
それならば、とエステルはまた一つ決断をした。
次の瞬間には見ていた場所に移動し、前方からは敵の軍勢――魔法で大きな風を起こして吹き飛ばした。
「皆、砦の中へ!」
見ていた位置からは見えなかっただけで、自国の兵は思ったよりもいた。しかしこのままでは命を落とすだけだ。戦力の差は歴然で、完全な守りに入る他ない。
エステルが叫ぶと、彼らは躊躇する様子を見せたが、もう一度前方を魔法で薙ぎ払いながら言うと、砦へ向かって走って行った。
彼らが中に入るまでは時間を。
大丈夫。まだ控えている貴族がいても奥に控えているはずだから、来る前には。前方を油断なく見据えて思っていたそのとき、空から魔法が雷のように降ってきた。
「――――ぁ」
やられた、と思った。
気配にとっさに防御の魔法を使ったとはいえ、敵の貴族が上から落とした魔法を完全には防げず、エステルは地に膝をついた。
上方不注意。
これだから自分は注意が足りない。この国の王族には珍しいと度々言われる、穏和さの欠けた勝ち気な性格。国境付近に出向く度に兄からは目の前のものばかり見ていないで重々注意するようにと言われていた。その兄の言葉をしっかり聞きながらも、エステルは幾度もこのような場所に足を運んでいた。
エステルは、一度この国の現状を知りたいと時折起こる国境際の競り合いを見たときから、あの光景が忘れられない。国を横暴にも侵略しようとする周辺国の兵が、来る光景。
この光景。
魔法の影響か、少し見えにくい前方から兵が迫る。一歩、一歩とエステルの生まれた国を奪おうとやって来る。
「まだ貴族がいたとは」
「援軍か? 思ったよりも早いな」
兵がやって来る方向に、突如現れたかのように見えた姿が複数。空から、降りてきたのだ。
身なりは軍服に寄せられたようでも、貴族だと分かる軽装さだった。高い魔法能力を持つ者は物理的な攻撃も魔法の攻撃も魔法で防ぐ。ゆえに、物質的な防具を必要としない。
緑の国の貴族。つまり、引き留めていた者たちは……。違う。数名程度ということはまだ上で戦っている可能性がある。
「あの髪の色――まさかとは思うが、金の国の王族か」
緑の国の数人の貴族と思われる者達がエステルを見て、驚いた声を出した。
「金色の髪は王族以外にもいる。……だが本当だとすれば、王族が出てくるとは」
「運良く当たってくれたようだな。……もしくは『戦を好まぬ金の国』の王族は元よりそれほどの能力は持っていないか」
「確かに、他国の伯爵程度であってもおかしくはないかもしれないな」
未だ思ったように体を動かせないエステルを見ての余裕の嘲笑であった。
その嘲笑がエステルの頭を冷えさせた。
「……やるわよ。やってやるわよ」
小さく呟き、エステルは深く息を吸った。
自分はこの国の王族だ。他の国の一介の貴族には負けないくらいの魔力量は持っている。侮ってもらっては困る。
痺れと共に微かに震えていた手を強く握る。
出来ればこのようには使いたくないが、背に腹は変えられない。自分が最も扱うことが出来る魔法でこの場を切り抜けるしかない。自分が陥ってしまった場なのだから。
出来るだろうか。
目を凝らして、不自然でないように見た貴族の向こうには、同じく緑の国の軍勢がすぐそこにまでやって来ている。この貴族たちがどのくらいの地位かは不明だが、やるしかない。そのあとは兵たちをまた薙ぎ払い、砦へ。
「……?」
着々と進んでくるあちらの軍勢を注視して思考を巡らせていたエステルは異変を感じた。
何かしら、あれは。
より見ようとするのは緑の国の軍勢。何か、土煙の中に赤いものが見えたような気がした。
前にいる貴族たちは勝利を確信しているのか、予想外にこの場にいた王族であるエステルをどうするべきか話している。目はこちらに向いているが、後ろは見ていない。
「――あ」
そうこうしている内にさりげなく目を戻すと、軍勢の先頭が赤い何かに飲み込まれた。
エステルが思わず声を洩らして、緑の国の貴族たちは異変に気がつき背後を見る。
「何だ、あれは」
「炎――?」
本能的に一歩後ずさったときにはもう遅い。正体がわかった真っ赤なもの――炎は蛇のように音もなく忍び寄りエステルを含め目の前の貴族たちを食べてしまった。
反射的に目を閉じたがエステルの瞼の裏は真っ赤に染まり、燃やされたと思った。
しかし敵が前方にいたことで状況を見なければと目を開くと――案の定景色は火の海。前方、敵の貴族がいた辺りで真っ黒になった人形のものが一瞬見え、顔だと直感した部分が悲鳴を上げるかのような動きをして、炎に燃え尽くされていった。熱い。
熱かった。
だが、エステルは燃えていない。地が炎に包まれる中、座り込むエステルの周りには一定の距離を置いて炎があるばかり。
これは、いきなり一体何が起こったというのか。そして自分だけが置かれているこの状況は。
「思ったよりも容易かったな」
炎と同じく、忽然と現れた存在があった。
そこにいたはずの貴族もいなくなった今、炎で遠くの景色も近くの景色も判別がつかないところ。まさに炎の中を歩いて来る一人の男がいるではないか。
堂々と、背後も炎も気にした様子もなく歩き、前にまでやって来てエステルが見上げた顔には笑みがあった。
この人が助けてくれた、と直感した。
「一人であの数を前にするとは中々の度胸だな」
真っ赤な炎を自然な背景としてしまう男が笑いかけた不敵な笑みに釘付けになった。
それもつかの間。微かな空気の動き、炎が揺れ動いたことを感じて上を見ると、上空から何かの魔法が落とされるところだった。
「危ない!」
魔法が男に向けられていると分かり、エステルは腕を引き、同時に防御のための魔法を張ろうとする。……が、「問題ない」と笑いを含んだ声が聞こえた直後天にまで届きそうな火柱が空に向かって矢のように上がり、向かってくる魔法を打ち消し、上空に消えていった。
数秒後、入れ替わりに現れたのは黒い塊であった。それも地上に着く前にはらはらと脆くも崩れ、宙に紛れて塵も残さなかった。
一部始終を見ていたエステルは、視線を傍らに向けて心からの言葉を溢す。
「あなた――すごいわね」
とんでもない力に驚愕すると共に、感嘆した。
「すごい?」
「ええ」
「――あれを見て、今その炎の中にいるというのによく言う」
男は皮肉に見える笑い方をした。
炎の中。この炎は辺りで使われていた炎とは別次元の力を持ち、敵を悲鳴を上げる間もなく蹂躙していったのだ。人の形をしたものを見た。あれは魔法に燃やされた成れの果て。
「そうね。一瞬、燃やされてしまったかと思ったわ。助けてくれて、ありがとう」
危ないところだったので、大いに助かった。
すると男は聞き慣れない言葉でも耳にしたようになって、エステルをじっと見た。
「……なるほど」
自然と男を見つめ返していたエステルは、手を差し出されて軽く我に返る。
「そのようにいつまでも地に座っていることもないだろう。立て」
聞かれて、エステルは自分が地面に座り込んだままであることに気がついた。魔法の影響はもうない。恥ずかしくなって慌てて手に掴まらせてもらって立ち上がると、男はやはりじっとエステルを見ていた。
「なるほどな」
何がなるほどなのか、エステルが首を傾げていると周りにあった炎が急に跡形もなく消えた。
エステルの周りには何もない地が広がるばかりで、前方に臨んでもさっきまでいた敵の兵も貴族もいない。炎が、この男が消し去った。
前に立つ男は、炎に似合わない目立たない茶という凡庸な髪色をしていると気がついた。あまりに凡庸な色で気がつかなかったのかもしれない。けれども気がついてしまえば男自身にも似合わない色。
髪色が冴えないわりに雰囲気が平凡ならざるもので、だからかとても目が引き付けられて、エステルは男を見ていた。いや、敵を消した炎の中から彼が現れたときから意識ごと引き寄せられている。
揺らめく炎の消えた場所。エステルも止まり、男も動かなかったから時というものが薄れたようであった。
するとその場に上から一人降ってきた者があり、エステルの目の前の男の斜め後ろに軽やかに降り立ったことが視界の端に映って、時間が動き始めた。見ている男がそちらを見たのでエステルも視線で追うと、降りてきて新しく現れた男の方は周りを見ているようだ。歩み寄り、エステルの前にいる男に話しかける。
「燃やす区別はして頂けたようで何よりだ」
「当たり前だ。何のためにここに来たと思っている。それにしても見に来た甲斐があった。侵略されるところだったこともあるが」
「あるが?」
「複数の意味で中々見処がある。――それに探し物が見つかったような気分だ」
探し物? と怪訝そうな者をさておき、男がこちらを見たので、いつの間にかまた男を見ていたエステルはそれを誤魔化すみたいに瞬いてしまう。何だろう。見てしまう。
「砦に籠る気なのだろう。新たに敵が来ぬ内に中に入れ。出て来ていた分は一掃した故、しばらくは来ぬ」
そしてここで、場が先程まで確かに戦場であったことも思い出した。
そうだ、砦に。ここでゆっくりしている場合ではない。後ろを振り返ると、砦から走ってくる者がおり、その声にもようやく気がついた。
「そうだったわ。早くあなたたちも中に…………あら?」
自分だけでなく一旦全員砦にと、促そうとしたエステルは呆けた声を出した。たった数秒、砦を見ていた内に現れていた男の姿がなくなっていたのだ。現れたときと同じように唐突に。
本当にどこにもいない。
「上から来たのなら、空に戻ったのかしら……」
一人は空から降りてきたから、上でまだ戦っているのであればそちらに戻ったのだろうかとエステルは空を仰いだ。
空には雲が何重にもかかっており、ずっと上空を見通すことはできない。
「殿下! ご無事ですか!?」
「え? ええ無事よ」
助けてもらったから。
砦へと促されてそちらへ歩む前、もう一度振り返った地上に流れる静けさは数分前と比べると真逆。圧倒的な魔法の炎が何もかもを連れ去り、それをもたらしたであろう人物も消えた。
「……そういえば、誰なのかしら」
まるで幻だったのではないかと思ってしまうくらい、短時間の出来事だったが、紛れもない現実。
一度真っ赤に染まった地に背を向けたエステルの瞼の裏には、炎と共に焼きついたひとつの姿が残っていた。
「きっとまた会えるわよね……」
おそらく国の者だから。改めてお礼を言うために探さなければと無意識に呟いたエステル胸には、場に似つかわしくない高鳴りが宿っていた。