分かっているから
夕刻になってもエステルは未だ落ち着けていなかった。夕陽の橙の景色が外に広がる私室で一人きりになって、テーブルに伏せているだけ。今日は何一つとして手につかず、結局侍女を全員下がらせてこのような状態に至っているのであった。
「エステル」
「…………ノックくらいしてくださらないからしら、お兄様」
すぐ近くから呼びかけられてゆっくりと頭を起こすと、人々からは麗しいと称されている兄王子がいた。
エステルや父と全く同じ金色の髪を揺らし、伏せていたエステルを覗き込むようにしていた兄は「全員下がらせていたようだったから、静かにしたいのだと思って、静かに入った方がいいと判断したんだ」とか何とか言って向かい側の椅子に座った。
「まあお茶を持ってきたから飲んで」
「お兄様が……?」
「皆下がらせていたようだったから。エステルの侍女が一人いつでも出せるようにと外で様子を窺っていたから、ついでにもらってきただけだよ」
お茶一式を魔法で浮かせて静かに持ってきていたらしい兄は王子らしからぬ慣れた手つきで、淹れるときは手ずから白いティーカップにお茶を注いだ。時折お茶を共にするので、妹の好みを知っていると思われる彼は砂糖やミルクも入れてからエステルの前に差し出した。差し出すときも音が立たないので、慣れている。
「……砂糖、いくつ入れたの。ミルクも入れすぎに見えたのだけれど」
「こういうときは甘いものかと思って。お茶を甘くすると、甘いものを効率よく摂れると思わないかい?」
にっこりとした笑顔に促されて一口飲むと、目撃した砂糖の数だけ甘かった。
「ざらざらするわ」
「うんとかき混ぜて。いずれ溶けると思うよ」
努力せよと言われた。当の自分はと言うと、次に淹れたお茶を飲んで「甘いものは美味しいなあ」と同じ行程を辿ったところを見たので、歯が溶けそうなくらい甘いそれを満足そうに飲んでいた。
飲んでと言われて、しばらくは完全にティータイム。元々兄の雰囲気もありのんびりした空気が漂いはじめた頃になり、お茶もそれなりに味わったところで兄がお茶を飲まなくなったことに気がつき、エステルは兄に話しかけた。
「お兄様、気を使ってくださってありがとうございます。そろそろお話を聞きます」
「気を使うも何も兄妹だから。妹の異変とあらばおいしいお茶でもお菓子でも何でも持って飛んで来る」
冗談めいた言い方でお礼には及ばないと言外に言った兄は、それから微笑みを柔らかいものから優しいものに変えた。微妙な違い。これこそ兄妹の中でも、気遣いかもしれない。
「父上から話は聞いたのだろう」
「……お兄様は、いつから知っていたの?」
「うーん、案だけなら随分前から」
「……そう」
始まった話は、エステルが今日父とした話について。話し方に、兄はすでに知っていたのだと当たり前のことを知る。兄は父の補佐もしており、エステルより余程政務に携わっているから、話の内容を考えると当然だ。
「父上を泣かせたろう」
「泣いていたの?」
兄は知らなかったのかと眉を上げてそれに答えた。それを受けてエステルは本当に気の弱い父であり王だとため息をつく。たぶん母の肖像画に語りかけてでもいるのだろう。
「お嫁に行くのは嫌かい?」
父とした話を思い出していたエステルを見て、嫁入りの話を気にしていると思ったのか、兄が首を傾げた。
「赤の国への嫁入りは確定ではない。同盟はどうにか結ぶとしても、あちらの要求がどうかは分からないからな」
「……どんな要求をされるか、分からないわよ」
「そうだな。要求を出来る限り穏便なものにしてもらうのも、これからの交渉次第だ」
そうは言っても、力を請う側なのだから交渉出来る立場ではないはずだ。赤の国がこの国を対等に見てくれるかどうか分からない。
嫁入りの話が問題ではないのだ。鎮まらせることに成功しつつあったエステルの中が騒ぐ。赤の国。同盟。
――このまま自分達だけで戦っても、赤の国に助力を乞うても先に見える未来にそれぞれ異なる暗雲が見える。それが腹立たしくてならない
「……何よ」
「ん?」
「皆して、お父様も!」
テーブルを叩くと意外と痛かったけれど、どんどんと感情に任せて数度叩く。
我慢しないで、感情を出してしまったエステルは止まらない。この場にいる兄にも八つ当たりする。
「お兄様もお兄様もお兄様もっ」
「エステル、お前の兄は一人だぞ?」
「お兄様が次期国王じゃない! お父様がしっかりしていない部分でしっかりしてよ!」
「じゃあエステルがなるかい?」
「じゃあお兄様が赤の王に嫁ぐ!?」
「いや、男は男には嫁げないだろう」
そこじゃないでしょ! 男じゃなかったら嫁ぐの!? とか何とかいうことは置いておき、思いっきり叫んだエステルは軽く呼吸を整える。
そのタイミングで、部屋を取り囲んでいる魔法があったことに気がついた。どうも、外に音を洩らさないように兄がしてくれたらしい。今さらだけれど、今のようなことは大っぴらに聞かせるわけにはいかないことだ。
兄を見ると、優しく微笑んでいるから読んでいて、わざと発散させたのだろうか。溜め込み押し込もうとしていると分かって、吐き出させたのだろうか。
「エステル」
「……何、お兄様」
叫んで溜まっていたものがひとまず無くなったので、まっすぐに兄を見つめ返す。
「ごめんね、って言うのは言いたいけれど止めておいた方がいいのだろう」
「言ってしまっているけれど。何に対しての謝罪? 私をお嫁に行かせることへなら必要ないわ」
「エステルならそう言うと思った。……ただね父上も私も、エステルを差し出したいわけではないんだ」
「知っているわ」
「私や父上がエステルに一番に言いたくなるのはそこでも、エステルが一番気にしているのはそこではないんだな」
三つ歳の離れた兄は、ずっと共に過ごしてきた妹の考えはお見通しだというように目を細める。
「赤の国との同盟自体、かな」
「……」
「あの国は今一番力を持った国だ。それは領土争いを行った結果でもあり、今この国を狙う国々と同じと言えるのかもしれない。だが我々は味方を作らなければ生き残れない。そしてあの強大な国がまだこの国へ攻めてきていない国だということは、とても大きい」
「……」
「赤の国との交渉は、無理難題を突きつけられることもあるかもしれない。それでも、」
「それでもやってみなければ分からない。国民を必要以上に危機に晒さず守ることが出来るのなら、そうするべき。そうできるように努力しなければならない。……分かっているの、お兄様」
あれこれと喚いたけれど、分かっていた。
赤の国は他の国と同じだ。この国にまだ攻めてきていないだけで、きっと。
父との話の中で瞬時に混じった怒りは、確かにそんな国になんてというものへ。けれどこの国の状況はよく分かり、父の考えも気持ちも理解はできる。父がとても悩んで決めただろうことも、分かるから。悩まないはずがないのだ。
だから頭の中に満ちていたのはこの国へ攻めてくる他の国への怒りと、他の国に頼らざるを得ない状況に情けなさ。
でも、もうエステルは俯かない。悩まない。父王が決めたこと、この国の進む方向。国がこの先形を酷く歪められずに生き残るにはその道しかないのだろう。他の国の力が、必要なのだ。
兄を見て、しっかりと言う。
「分かっているから、だから……私が見てきます」
「え」
「使者を送るのでしょう? 私が使者として向かいます」
「赤の国への?」
「他に何があると言うの?」
「いや、だが、……なぜ」
「この国に無理難題を突きつけてくるような国なのか、それに私が嫁ぐかもしれないところよ。赤の国と、国を率いる王を見てくるわ」
王族なら使者として申し分ないはず。エステルが決定事項として述べると、兄は数度瞬き、「エステルらしいな」と笑った。