社畜、アクロバティック転職_その5
つい先程と同じミスをしないように壁に沿ってぐるりと周って次の階への階段を探す。だが、部屋の外壁以外に通路を形成するような壁も何もなく、本当にただ、だだっ広い部屋なので迷うことはなかった。
代わり映えしない壁と暗闇の中を歩くこと、体感時間にして1時間強。実際にはその半分の時間しか歩いていない訳だが、ほんのりと光が点在しているとはいえ暗闇の中、距離も時間も計る物差しがない以上満博がそう感じてしまうのも仕方がない。
距離にして大体4〜5km。2回角に当たり3つ目の壁を歩いている時に漸く変化が訪れる。
姫の居た部屋と同じような壁にぽっかりと開いた穴。
延々と続いた壁と暗闇の中の徒行は、ハイウェイ・ヒプノーシスのように意識を鈍化させており、何の感慨もなく満博は潜っていく。
――眩しい。
強い光が目を直撃した。
手で庇を作り周囲を見渡すと、荒野が広がっていた。
遥か彼方には山や森が見え、地平線も見える。ただただ荒野。
満博の正面前方、300m程離れたところにストーンサークルがあることくらいが、唯一の特異だった。
風が吹くと細かい砂が巻き上がり、匂いに混じる。
今度は間違いなく外に出たようだった。であれば、先ほどのだだっ広い部屋が1Fなのだろうと満博は結論付ける。
背後を確認すると、盛られた砂山に坑道への入り口のようなものがぽっかりと口を開けていた。
満博の背丈より少し高いだけの一回りするのに1分程度もかかりそうにない砂山に、先ほどの部屋がすっぽり入ってしまっているのは謎だが、満博は深く考えない。より一層、ファンタジーな世界に迷い込んだことを実感せざるをえなかったからだ。
「どうなるんだよ、俺」
雲ひとつない青い空を見上げながらそう独り言ちると、先ほどは姫の涙で蓋をされた不安が顔を出す。
出てくるのは、当然元の世界のことだ。
「今日は休みの日だと仮定しても、明日の仕事までに帰れるのかな?」
昨日までの24連勤を乗り越えたのだ。満博が1日以上の記憶が飛んでいたりしない限り、本日が今月唯一の休みだという満博の予想は成立するだろう。
満博は今まで、無遅刻無欠勤を続けてきた。体調不良も、『あなたは何色?』の薬で乗り越えてきたのだ。それが、こんなよくわからないことで途切れるのが悔しい。
それに、満博が出勤しないと店のみんなには迷惑がかかる。それはどうやっても回避したい。
と、此の期に及んで会社のことを考えていた。
「ま、無理っぽいよな」
だが、現実的に考えて明日出勤することは絶望的だと、目の前の風景が語りかける。
現実的に考えるならば、今の状況は既に非現実なのだが、満博にとっては自分の置かれている事象が現実だと受け入れざるを得ない。
頬の部分をぽりぽりと、金属同士カリリと擦り合う音を立てながら掻いて、そこにどっしりと腰を下ろす。
そうして、身の振り方に頭を巡らせる。
満博は携帯電話の代理販売店に勤める雇われ店長だ。
因みにどのような店というか会社に勤務していたかというと、携帯電話を売る店のはずなのだが、それ以外にも色々と取り扱っていた。
スマホのアクセサリーや固定インターネット回線、モバイルインターネット。これらはメイン商材と親和性があるのでまだいいが、健康保険にミネラルウォーター、英語教材にパソコンやTV等一部家電まで、本社が経営する系列店の商品まで取り扱う雑多な店。
突然取り扱い商材が増えることなんて常習的な、無軌道な営業系の会社が経営する店なのだ。
下手したらそのあたりに生えている草を明日から売れと言われるかもしれない、そんな話が従業員の間で笑い話ではなく囁かれているといえば、少しはその無茶苦茶さが伝わるのではないだろうか。
特に最近は、色々と外部の理由が考えられるのだが売り上げが下がってきているので、どんどん取り扱い商材が増え、その結果赤字が膨らむという悪循環に陥っている。
そして、それは販売員努力が足りないからだと『ノルマ、ノルマ』とバカの一つ覚えのように同じことしか言わないエリアマネージャーに怒られる。
時間外の労働も多く、みなし残業という言葉と制度でその分の働きは給料に影響しない。
はっきり言って糞のブラック。疑いようのない真っ黒な会社に勤めていた。
だから毎日転職サイトを見ることで精神の安定を得ていたのだが、突然消えるなんてことなんて出来るはずがない。
「取り敢えず店に連絡するか」
店長の責任として、店に――というよりも従業員に迷惑は掛けられないと、インフルエンザでも何でも理由をつけて暫く店や本社に顔を出せないことを伝えねばならない。そして、他店からの応援も手配しなくては。
そう纏めると、満博は速やかに尻ポケットを探り携帯電話を――
「そりゃそうだよな」
満博は携帯電話を持っていない。
いつものように尻ポケットを探ってみても、そこにポケットはなかったのだ。
全身、鎧姿でいつもの格好では無いのだから当然の事。
それにもし、持っていたとしても電波がつながるなんてことはないだろう。
途方に暮れ、満博はダンジョンの入り口の砂山に凭れ掛かる。
それから暫く店と会社の事を考えていたが、どうしようもないので諦めた。
諦めると不思議と心は軽くなった。
元の世界の気にすることが、会社と店のことだけなんて寂しいと思うところなのだろうが、すっかりと身も心も飼いならされていたようだ。
文字通り社畜なんだろう。
何年も連絡をとっていない母親も、時間のすれ違いが原因で自然消滅してしまった彼女のことも、この時は全く思い出せなかった。
一番考えていたのが、ムカつくエリアマネージャーの声を聞かなくてよくなる。そんなことだ。
余りにも悲しすぎる。
それから、どれくらいの時間が経過したのだろうか。
かなり長い時間、満博はダンジョン入り口に1人座っていた。
太陽も傾き、そろそろ地平線に触れそうな位置まで落ちてきて世界を赤く染めている。
そんな長い時間が経過したというのに、誰一人通らない。
もっというのなら、風に吹かれて舞い上がる砂以外、動くものは何もなかった。
そこでふと、姫の言葉を思い出す。
――もう200年も冒険者が来てないからダンジョンエナジーが無くなりそうなの。
見渡す限り荒野で、村も街も見えないこんな場所。
200年も冒険者が来ていないところに偶々冒険者がやってくるか?
いや、それはない。
気がつくと、満博はダンジョンに入り階段を駆け降りる。