社畜、アクロバティック転職_その1
突如眩い光を受け真っ白になった目を反射的に回復させるように、男は指の腹を使って瞼を揉み解す。
薄く目を開けるが、視界はぼやけ、滲み、何も見えない。
体が怠く、頭もくらくらとしている。
「なんでなんでー。神様の嘘つきー。特別なの出るって言ったのにぃ!」
そればかりではなく、追い打ちを掛けるようキンキンと高く響く声とキーキーと金属同士が擦り合う不快な音も襲ってきていた。
戻ってきた視界に飛び込んできたのは、地面に横たわり手足をバタバタと振り回す漫画で見るような見事な駄々を捏ねている幼女。
深呼吸を3度繰り返し、頭を落ち着かせてもう一度目を開く。
「こんなのどこからどう見てもハズレじゃない。やだやだ。やり直しさせてよー」
居る。見間違いや気のせい等ではなく、男の目の前にはみっともなく寝そべりながら手足をバタバタと振り回している幼女。
それを見た男はぽかんと口を開ける。
理解が追いつかずに放心してしまった。
口を開けて呆けている原因がそうであれば、どれだけ良かったことか。
――可愛い。
みっともない格好でありながら、床に広がった真っ黒で艶やかな髪は、5歩先もぼんやりとしか見えない仄暗さだというのにキラキラとキューティクルが輝き、絹糸のようななど現存する何かで表現することは出来ない。顔はと云うと、触らなくともその手触りはさらさらとして、またぷにぷにと何とも言えない癒しを与えてくれる柔らかそうな頬。間抜けに大きく開けられた口も縁取る唇はぷるんと瑞々しく、覗く八重歯は愛らしさを強調し、そこから筋を引く唾液と口膣は清純と淫美のアンビバレンツ。
細く今にも折れそうな首、肩、腕、足。そのどれもが白磁の器なんか糞食らえと比較することは適わず、美しさだけでも恐ろしいのだが、見るだけで伝わる柔らかさ。
黒のワンピースに上手く隠されているが、太ももは特に素晴らしいだろうと想像を掻き立てる。
平らな胸からなだらかに続くお腹。胸よりお腹の方が出ているといっても肥満ではない。
――イカ腹。
筆舌に尽くし難い、女神も斯くやと言った――いや、天使も斯くやと言った方がこの場合ぴったりの幼女を前にして、吸い込まれるように引き込まれ、ぬらりとした唾液が引いた細い線をじっと見つめて『あー。あの涎を呑みたい。イカ腹に顔と指を今直ぐ埋めたい』と妄想し喉を鳴らしたところで冷静さを取り戻す。
男は目の前の小学生低学年くらいの幼女へ抱いた感情に、罪悪感で心臓がばくばくと脈打つ。
男は小児性愛者ではない。先ほどの様子からは俄には信じられないが、それは事実だ。
自分の内に起こった感情に衝撃を受け、呆然としていると――
「うぅー。もぅいいもん。もしかしたらとんでもなく強いのかもしれない。ねぇねー、1Fに行って冒険者を殺してきて」
まだ冷静さを取り戻していない男に、幼女は落ち着きを取り戻したのかちょこんと可愛らしく女の子座りをすると、小さく美しい唇から涼やかで鈴のような声を発する。
「ちょっと! 聞いてる?」
怒っているのか荒げた声も、不思議と心を和ませる。つい、にこにこと男は表情を崩してしまう。
「なんなのーハズレで不良品って最悪。もうダメダメだー!!」
忙しなく喚き散らす幼女を眺めていると、何故だかとても癒されていく。
そうして良い感じに和んでいると、自分の置かれている状況について思い至る。
――ここは何処だ?
薄暗く、呼吸をするとカビ臭さが鼻をつく冷んやりとした空間。
目が捉えたのは壁、床、天井。そのどれもが一面打ちっ放しのコンクリートのような灰色一色。他に目についたのは不自然なほど大きな、まるで王様が座っていそうな真っ赤な豪華な椅子。そして美幼女。
男の名は佐藤満博。
経験、資格不問で求人していた平均年齢低め、成長出来る職場という今になって考えれば見えた地雷のブラック企業で働いている負け組底辺社畜。
つい先ほどまで帰宅の為に終電に揺られ、変な爺さんから渡されたポケットティッシュに掲載されていた求人サイトにアクセスして、現実逃避のために出せもしないエントリーシートに情報を書き込んで、ため息を吐いたところまでは覚えている。
「ちょっと! いい加減わらわの言うこと聞きなさいってば!!」
だが満博の考えが巡る前に、それは幼女の声で中断された。
考えれば考える程分からない。
「お嬢ちゃん。ちょっと今考え事しているから、少しだけ静かにしてくれないかな」
特にこの、見ているだけで心を掻き乱される幼女。直視すると心臓が高鳴るので、なるべく視界に収めないように出来るだけ優しい声音で注意する。
「えっ!?」
今の今まで足元でギャンギャン騒いでいた幼女が突然静かになる。
満博は直ぐに異変を感じ取り幼女に目を向ける。すると、幼女はまるで油の切れたブリキ人形みたいにギギギと聞こえてきそうな動きで俺を見上げていた。
幼女に声をかけた事案発生か。満博はそう自虐し、心の中で乾いた笑いを零す。
「なんで……なんで喋れれるの」
目をまん丸に見開いた幼女と視線が合う。
「あのねぇ、お嬢ちゃん。喋れたら何か問題があるわけ?」
満博は、『初対面の大人に対して失礼なことを言ってくる。どんな育て方をされているんだ、親の顔が見てみたい』と心の中では悪態を吐きながらも、表面は大人らしく笑顔を取り繕う。
だがこの幼女、一切加減がなかった。
「下級モンスターのソードマンが喋れれるわけないよ」
「下級モンスターってなんの遊びだよ。俺は佐藤満博って名前があるの。ソードマンなんかじゃないぞ」
今はこの幼女に構っている場合じゃない。幼女も謎だが、満博は今ここで何をしているのか思い出すのが先だった。
「何言っているの。やっぱりソードマンだよ。そう書いてあるもん」
半眼でジーっと満博を見た幼女は、呆れたようにそう言った。
「書いているって、どこに書いているんだよ。そんなものどこにも――」
喫驚。満博は自分の体や手足を見たのだが、そこには幼女が言ったような“ソードマン”なんて何処にも書かれていなかった。
しかしばがら、そこには――社会の教科書でしか見たことがない西洋の騎士が着ていたような甲冑があったのだ。