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一般向けのエッセイ

中上健次「枯木灘」をふと読む

 中上健次の「枯木灘」をパラパラ見ていた。青山七恵を論評した後だからか、文章が圧倒的に良い。青山七恵と比べるのも滅茶かもしれないが。


 中上健次と大江健三郎については、ブログの方でもどうして言及しないのかという意見が二つくらい来ていて、僕の信頼する人もこの二人については悪くは言わない。なので良いのだろうとは分かっていたものの、これまでは避けていた。今回は中上健次「枯木灘」について短く取り上げる。


 まず、最も素晴らしいと思う所を引用する。

 

 ・主人公秋幸が土方の仕事をする


 「秋幸は土方をやりながら、自分が考えることも知ることもない、見ることもない口をきくことも音楽を聴くこともないものになるのがわかった。いま、つるはしにすぎなかった。土の肉の中に硬いつるはしはくい込み、ひき起こし、またくい込む。なにもかもが愛しかった。秋幸は秋幸ではなく、空、空にある日、日を受けた山々、点在する家々、光を受けた葉、土、石、それら秋幸の周りにある風景のひとつひとつの愛しさが自分なのだった。」


 「秋幸はそれらのひとつひとつだった。土方をやっている秋幸には日に染まった風景は音楽に似ていた。さっきまで意味ありげになみあみだぶつともなむみょうほうれんげきょうとも聴こえていた蝉の声さえ、いま山の呼吸する音だった。」


 中上健次は土方の経験をしていた事もあるし、また本人が紀州の、おそらくはどうしようもない(悪い意味ではない)民衆的な、極めて土着的な所で生活していた。中上健次は読書して知性を身に着けたわけだが、その知性のある所、つまり知識人的な位相から、土着的な民衆の生活を描いている。しかし、中上健次自身、自分も民衆の一人であり、自然と一体となって暮らしているのだという実感がある。ここには土着的、民衆的な人々の生への中上の「愛」があると言っても良いだろう。


 引用した箇所では、僕は、極めて日本人的な精神が現れていると思う。あるいは東洋的な精神と言ってもいい。自然と一体になり、そこに自分が含まれるという独特な高揚感。こうしたアジア的なものを描く事ができている。もちろん、こういう事は今の作家がやればわざとらしい、いかにも「こういうのが文学なんでしょ?」という物欲しそうな作品になってしまうのだが、中上健次はそれを自然にできている。ここに中上健次の良さがあると思う。


 この作品の主人公、秋幸は小説の主人公だが、それは自然の中の一事物のように作家には認識されている。人は「紀州サーガ」の中で、日々を生き、肉体労働をし、あるいは殺し殺され、男と女はまぐわい、とにかくそのようにして動物的なーーあるいは民衆的、人間的なーー生を営んでいく。人間を見つめる視点において、中上健次は一歩引いた場所から見ているがそこでは、性行為のような事も肉体労働と同じ位相で描かれている。露骨な描写なので引用を避けるが、秋幸の肉体労働と似ているようなものとして扱われている。性行にしろ、労働にしろ、殺人にしろ、中上はそれらをそれ自体で意味があるものとしては見ていない。中上健次はそれを自然の中に埋め込み、人間の生死それ自体も、自然の大いなる変転の一部でしかないように描いている。中上健次を評価するとすれば、この認識の場所を評価するしかないように思う。


 こうした視点は、影響を受けたフォークナーとか、ガルシア・マルケスあたりと共通する事なのだろう。僕は彼らとは縁遠いと感じているし、二十一世紀になった今になって彼らの方法はそのままは使えないと思っている。現在においては民衆的なものは消え、プロレタリアートはいつの間にかブルジョアになり、大衆はいつの間にか知識人となった。こうした社会において「路地」は消失せざるを得ない。


 こうした変化に中上健次が耐えられなかったのは確かなのだろう。しかし、たしかに中上健次が人間を見つめる視点は存在したし、自然と人間とを一つのものとして見つめる視点は僕の中のーーいわば、日本人的感性を蘇らせる。これは重要な事に思える。


 中上健次の手法は彼自身の体験と、また、中上が描いている世界がかろうじて日本にも残存したという社会状況から生き生きとした形式を持つに至った。この中上健次の方法が今になってどういう意味を持つか、それはまた別に再考しなければならないだろう。しかし、僕にとっては「枯木灘」一つでも中上の良さを感じる事ができて、良い経験だった。


                  

                          付 


 中上健次と青山七恵を強引に比べると、青山七恵は例えば「恋愛」において、それだけで意味があると素直に信じている。女の子が駅員の背中を見て「恋をしていた」と書いて、ただそれだけが全てだというのはあっぱれな話であるが、このあっぱれが成り立つのが現代の僕達の社会だ。中上健次は性行為の描写をしても、性行為や殺人それ自体を描く事に意味があるとは信じていない。それらをより俯瞰的に、自然の中に埋め込むように見ている。この透徹とした認識が中上健次の良さだと思う。「恋愛」や「おばあさん」といった事柄を概念としてしか見ておらず、実際のリアルな生活は全く描けないのが青山七恵である。「ひとり日和」のラストで「約束どおり、わたしはあの既婚者と競馬に行く。」という文章があるが、人間を、あるいは男を「既婚者」というレッテルでしか見ないのが青山七恵であり(その事に違和感も持たない)、また現代の僕らの陥穽でもある。中上健次はこんな場所では物事は見ていない。中上は「自然」の位相で人間を見つめている。

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― 新着の感想 ―
[一言] 中上健次を読む時、没入するということを思いました。 一部になるということ、動きそのものや流れそのものになるように溶け込むイメージ。 輪郭が揺らぐような感じがするのでした。 また読み返したくな…
[一言] 中上健次「枯木灘」、もう一度読んで見ようと思いました。 読んだ後で、もう一度、このエッセイを読もうと思います。
[一言] 枯木灘は若い頃に読みましたが、もちろん貴方のように深い読みを入れて読んだわけではなく、そんなに感動もしませんでした。千年の愉楽は迫力にあっとうされたのを覚えています。青山氏についてはしりませ…
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