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仮想インタビュア・無駄に哀愁のある背中1『奇怪な思想の男~I want not to see the brink of death~』

作者: 適度に自信のある腹

まったく趣向の違う作品を作りたかっただけです

 この世には二種類の人間がいる。初めに断っておきたいが、私は二元論が嫌いだ。だからいつもの私はこんな風に“二種類の人間がいる”などいった表現は好まない。だがしかし、今回の話は某事実を体験したか否かなので、あえて二元論で表現する。

 では、それはなんなのか? 簡単に言えば、「死の淵にたったこと」があるか否かである。体験したものたちの感性はそれぞれだし、どう迎えるかも人それぞれで何を得て失うかはそれぞれでまちまちだ。

例えば、大病を患って自分の腕に伸びる点滴のチューブに死の影を見た者。世の中に絶望して部屋から垂れる首吊りようの輪っかの向こうに死を見た者。誰もが同じ死を見たかはわからないし、私個人としてはみんな違うものの形の死を見ている。しかし、これをみたものの感性は酷く変わる。よく転ぶこともある。だが、それは稀だ。大病や事故の人々は本当にそこに死を見ればそのまま死に、絶望して死に向かう人はそのまま自殺する人のいずれかで生きている時点で稀だ。また、生きていたとしても大体の場合で心に大きすぎる埋めることができない傷や穴がザックリそしてポッカリと空く。ここではある男の話をだそう。

 彼は死を見た。いろんな場所で。彼は間違いなく生きている、しかしそこに彼はいない。彼は人間ではない。これは人間を超越したのではなく、人間から堕ちたという表現が近い。彼は世界に絶望し、そして挙句自分に絶望した。病気で言うなら、強迫性障害と言えばいいが、そのレベルじゃない。しかし、彼がそんな一種の境地に立ちながらも生きているのは彼が人間だった時期の最後の信念が生への異常なまでの執着だった。人間でなくなった彼は今もその傷を感じ続けている。心に少しでも闇ができると、その闇がゆっくりじんんわり周囲に広がっていく。そして、全体に広がり、次の瞬間にその空間に文字が浮き上がる。最初には読めないがそのうち「死」と読めてくる。その「死」という文字が沸騰した湯の泡のように沢山浮き上がり、飽和し、心が張り裂ける。

 では、なぜ彼が人間と言えないかの話をしよう。それは前段落の最後を見てもらいたい。「心が張り裂ける」これは心が折れると形容しても差し支えがない。普通に人は心が完全に折れると立ち直るのにかなりの時間がかかる。しかし、彼の心は一般に完全に折れるという現象が週に7回以上起きる。しかし、彼はたった一時間ほどで完全に折れた心を取り戻す。そこが人間らしかぬ点だ。彼は何千何万、何億心が張り裂けて壊れようとも、直すのだ。それは治すよりも直すのだ。修理という言葉がいちばんいいだろうか? 彼は私に笑いながら言った。

「人生はその人間に与えられた最大の玩具だ。なんども壊してなんども直そう」

 私はこの言葉が異常に怖くあやゆく感じた。きっと彼はもはや、違う世界に住んでいるのだろう。

 私は彼に問うた。「君には友人はいないのか?」

 彼はすぐに答えた。「いない」と。私は寂しくないのか? とまた問うた。というと彼はまたもや妙なことを言い出した。

「僕の世界には僕しかいない。でも、僕という存在は不加入性を持たない」

 最初は全く意味がわからなかった。しかし、話を進めるうちに彼の言うことがわかった。彼は心に負った傷のせいで『自他分離』が出来ていないようだ。自他分離とは赤ちゃんが他の子が泣いている時に泣いてしまうこと。つまり、自分と他人の区別がつかず、その人の感情を自分のものだと考え、その人と共鳴することだ。彼はある程度仲良くなった人々を「他人」から「自分」として解釈してしまうらしい。そして、この時、彼の本質に気がつくことになった。彼が人間らしからぬ部分の典型が心の再生速度だ。これはこの自他分離の欠落からくるものだと私は気が付いたのだ。

 自分の心が折れたとしても、他の自分(彼が自分として捉えている他人)は心が折れていない。だから、自分も折れていないのだ、となるということに気がついた。とはいえ、彼には個がある。普通に自他分離ができないとアイデンティティがないはずだが、彼にはそれがある。私ここで彼に一番したかった質問をすることになった。

「なぜ、そこまでの傷を負っておきながら生きてるの?」

 彼はにこやかに答えた。

「ある三人の思想家に出会い、彼らの思想を自分の根幹に注入して新しい思想を作ったんだ。一人は大食漢主義、いわゆるどんな考えや知識も食って自分の物にしようとする思想の持ち主。一人は全否定全肯定主義、他人の存在や生き方、考え、知識をすべてを否定、その後肯定し、部分否定部分肯定をしてその人間を多角的に理解する思想の持ち主。そして最後の人は逆向量否定主義、もの考えの反対は接尾を否定する語句のみ、例えば楽観的の反対は悲観的ではなく、楽観的でないだけ、楽観的と悲観的は共存ができるという思想。彼らが僕にすべてを教えて、僕だけの思想「球面思想」をくれた」

話を聞く限り、1思想だけでもボリュームがありすぎて、飲み込むの大変だ。だが彼は自他分離ができていない。だから、きっとすべてを理解し、合成し、新たな思想を作り、自他分離ができていないのに個を作るのに成功したのだろう。また、私は彼の考えに踏み込むことになった。

「球面思想とは?」

 彼はニヤニヤした。嬉しそうに話しだした。ここから一部を完全に彼の言葉を引用しようと思う。

「形質のない神をも超える思想。それが、一番のわかり易く適切な表現。例えば、客観的ベクトル・楽観的ベクトル・現実的ベクトルが基底の三次元ベクトルがあったとして、それでいろんな面や図形が表現できる。程度は全く考慮に入れない0から最大値は100する。小数なども入れればそのその組み合わせは無限大。それをすべて認める、同時に否定する。この三つの組み合わせはこの三つの組み合わせ以外も無限に取れる、更に素晴らしいのは客観的ベクトルの逆は別に主観的ではない。だから、同時に基底に取れる。そして、どこの誰の考え方も基底として捉えて飲み込み、思想にベクトルとして取り組む。だからこそ、あくまで客観的でしか入れない神の思想を普通に超越する。まあ、完成にはこれ以外にもある能力が必要だけどね」

 私自身もテープレコーダーをなんども聞いてやっと理解し始めた。この思想は異常なまでに危険な思想だ。いや、不定形で不安定な思想だ。時に穏健的で優しいしそうだが、時に危険で厳罰的な思想にもなる。彼はそれを盲信し、理解し、その空間にいる。だから、彼は人間でないのだ。私はこの考えを理解をしきることはできない。だが、この思想は彼の傷ついた、失った心の一部を癒し、埋めるための思想というのはわかった。

 彼は最後にこうしめた。

「この考えは君が今思っている通り、難解な思想だ。同時に未来の君が思うだろうに不定形で不安定な危険で安全な思想だ。でも、これを完全に手に入れるためには推測能力が必要で、どうに僕みたいな他人への同化も必要だ。だから、誰もが手に入れられるものじゃない。だから僕はひとりぼっちでも、世界から嫌われようとも、楠の大木ように一個一個人の考えを栄養にしてゆっくり完成に近づける。君たちのいる世界を侵害する気はないよ」

 彼はそのまま去っていった。ひとり残された私はボーッとしていた。そして、その時の私が思ったのは彼が病気で、ということではなく、その「死の淵」に立ち戻ってきたもの達は普通の人間とは全く違う次元にいて、その次元はその世界に言った人間同士でも次元が異なる。そして、彼の次元に関しては何もかもの次元を包括している。超思想であることが理解し、この考えを彼の言葉を使い「楠ズム」と名づけた。

インタビュは行われていません。但しモデルはいます。私ではありません

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