30−2 達也
一人きりの狭い部屋の中、俺は何もする気が起きず、床に寝転んでいた。引っ越し先の狭い部屋。段ボールが転がり、殺風景で散らかっている。居心地は、良くない。今日はバイトも休みだったから、一日中こうしている。もう夕方に差し掛かった時間だ。
こうしていると、考えてしまう。夏木の言葉。美香の言葉。考えを振り切ろうとしても、できなくなる。急きたてられるままに、気づけば俺は家を出ていた。車を走らせ、あの場所へ向かう。夕方過ぎの公園には、まだちらほらと子どもたちの姿があった。そこに幼い自分と美香を見たような気がして、思わず目を細めた。
あの日の俺たちは、確かにまだ記憶の中に居る。だんだんと姿を、心を変えても、一つだけ変わらないもの。
――いつまでもお兄ちゃんに守られて甘えてるだけの、弱い妹じゃないんだよ?
昨日の美香の声が、ずっと頭の中で回っていた。
美香と一緒に居て、美香に何も背負わせないようにと、一人で頑張ってきた。美香を守ろうと必死だった。けれど、美香の望みは、もしかしたらそうではなかったのだろうか。一緒に背負って行きたいと。
――想いが一緒なら、願いもきっと重なってる。間違えないで
夏木の言ったことの意味も、重なった願いも。本当はわかっていたのだ。
俺たちは、お互いを守ろうとしすぎていたのかもしれない。互いを想うが故に、想いは重なり、同じように考え、同じように守ろうとして手を離した。間違いもある。迷いも、逃げも、すべては兄妹という重さのために。けれどどんなに遠回りしようと、手を離してしまおうと、最後は戻ってくるのかもしれない。
たったひとつの居場所。たったひとりへの愛しさ。大切なのは奇跡じゃない。その後に続く幸せなんだと。
だんだんとうす暗さを増していく公園から、気付けば子供たちの姿は消えていた。広い公園に一人きりでいると、寂しさが募ってくる。俺の心を満たしてくれるのは、美香しかいない。もう一度、手を取ることができるだろうか。今度は二人一緒に。
携帯電話を手にとって、俺は美香にメールを送った。会いたい、と一言だけ。それで十分伝わると思った。するとすぐに美香から電話がかかってきた。慌てて通話ボタンを押すと、切羽詰まった美香の声がすぐに聞こえてきた。
『お兄ちゃん!』
「美香?」
数日ぶりに聞く受話器の向こうの声に、愛しさが強まる。美香は泣いているのか、少し鼻にかかった涙声で言った。
『今どこにいるの? お兄ちゃん。今すぐ会いたい。会いたいよ……』
「うん。俺も、会いたかった。出てこれるか? あの場所にいる」
俺の言葉が全部終わる前に、機械的な電気音とともに電話が切れた。かけ直してもつながらない。充電が切れたのだろうか。公園にいると伝えることができなかった。けれど美香なら、ここに来てくれると思った。根拠があるわけじゃないが、そんな気がしてならないのだ。
ふと空を見上げると、薄暗い空に星をひとつだけ見つけた。あの星は、夜景を見たあの日にも俺たちを見ていただろうか。そんなことを思っていると、誰かが駆け寄ってくる気配がした。振り向くと同時に、美香が勢いあまって抱きついてきた。少しだけ驚いたが、離すまいとするように、美香をしっかりと受け止める。
「お兄ちゃん、お兄ちゃん」
涙声で俺に縋りついてくる妹が愛しくてたまらない。小さく笑いをもらしながら、いつものように美香の頭をなでてやった。
「泣くなっていつも言ってるだろ? いつまでたっても甘えんぼだね、美香は」
しばらくなだめるようにその頭をなで続けていると、やがて美香の涙がおさまってきたようだった。
俺は少し緊張気味になりながらも、そっと美香の体を離して静かに言った。
「美香、聞いて」
俺の真剣な声に呼応したように、美香も表情を引き締めた。たっぷり一呼吸の間をおいて、思い切って俺は話し始める。
「二人の幸せを、一緒に守っていってほしい。きっと、辛い思いをさせると思う。けど……一緒に背負っていきたいと思うんだ」
話している途中から、美香は嗚咽混じりに涙を流していた。その涙の意味を表情から読み取り、俺は幸せをかみしめた。一緒に生きていきたい。二人で、嬉しいことも辛いことも、わかちあっていきたいと。二つの願いは重なり、きっともう離れない。美香は笑い泣きのようになりながらも、微笑みかけてくる。
「そんなの、あたりまえでしょ? だって、お兄ちゃんは私の、たったひとり、なんだよ」
愛しさはとどまることを知らず、俺は心のまま美香の頬にそっと指先で触れた。自然と触れた、夢のような口づけ。想いを守り通すことを、誓うように。その瞬間、二人の心が本当の意味で一つになったと感じた。
「ねぇ、私もお兄ちゃんを守るよ。だから、ずっと一緒にいてね」
美香の言葉に、頬笑みで答える。ここまでたどり着くのに、遠回りもした。誰に何を言われても、大切な愛しさを、隠し通すんじゃなく、信じる道を貫きたい。美香の幸せを守ること。それは俺の幸せを守ることと繋がっているから。
美香のそばで過ごす日々は本当にあっという間で、気付けば今日は、美香の卒業の日だった。振り返れば辛いこともあったが、同じくらいの幸せも感じていた。仕事が終えて、俺は待ち合わせ場所に向かっている。その後卒業式を終えた美香を迎えに行かなくてはいけない。なかなかハードな一日だ。
待ち合わせていた喫茶店に入ると、すでに座っていた懐かしい教え子が振り返った。
「久し振り、先生!」
もう先生じゃないが、夏木は癖なのか俺を先生と呼ぶ。もともと大人びた顔つきをしていた夏木は、今は年上じゃないかと思うくらいに成長した。夏木がいなければ、今の俺と美香の幸せはなかったんじゃないかとすら思える。美香に聞いた話だが、夏木は美香にも色々とアドバイスをしたらしい。それで迷いを捨てたのだと、美香は言っていた。正面の椅子に座りながら、俺は夏木に微笑みかけた。同じものを抱えたもの同士。夏木も、俺たちと同じに思いを貫こうと頑張っている。
「夏木は相変わらず?」
「うん。それなりに。先生はどうなの?」
夏木の表情は穏やかで、とりあえずは幸せを守れているように見えた。
それに少しほっとしながらも、俺は苦労して苦労して、最近やっと決まった、幸せな知らせを夏木に伝えた。
「結婚することになった」
すると夏木は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに満面の笑みになった。
「へぇ。よかったね! あたしもすごい嬉しいよ」
夏木は自分のことのように喜び、そしてはしゃいでいる。できるなら夏木の未来も、幸せであってほしいと思った。
そのまま夏木の他愛ない雑談に付き合っていると、すぐに時間が来た。
「ごめん、そろそろ行かないと……美香を迎えに行かないといけないんだ」
立ち上がり、伝票を取ると、夏木は少し切羽詰まったような表情で立ち上がって俺の腕を掴んだ。
「楽な道じゃないけど……先生今、幸せだよね?」
確かめるように、恐る恐る言ったような感じだった。夏木も強く在ろうとしているが、心のどこかでは不安を感じているのだろうか。確かに楽な道じゃない。けれど大切な想いは簡単に捨てるべきじゃない。想いを強く持つことができれば、幸せもきっと守っていける。
「うん。すごく、幸せだよ」
本心をそのまま伝えてやると、夏木もまた笑顔になった。
美香の大学に向かうと、卒業式はすでに終わっていた。ちらほらと華やかな衣装を着た卒業生たちが出てくる。その中にすぐ、愛しい姿を見つけた。美香の方もすぐに俺に気づいて、まるで子供のように無邪気な笑顔で駆け寄ってくる。
「お兄ちゃん!」
美香の俺を呼ぶ声に、笑顔で答えた。ずっとそばにいた、大切な妹。どんなに辛いことがあっても、二人なら、きっと大丈夫だと思えた。ふと見上げた青空に、俺たち二人を包む幸せの道が見えた気がした。
七カ月ほどの連載でしたが、これは当初思っていたよりも長編となり、とても思い入れのある作品となりました。
たくさんの読者様に読んでいただき、毎回のように感想を書いて励まして下さった方もいらっしゃいました。
一回更新するだけで何百人もの方が読みに来て下さり、私は本当に幸せ者でした。
投票して下さったたくさんの方、本当に励まされていました。
本当に本当にありがとうございました。この作品は私の大切な思い出です。全ての読者様に感謝をこめて。
白雪なずな