3−2 達也
俺の心に隠れている感情は、俺が自分で思っている以上に大きいのかもしれない。自覚のない想いほど面倒なものはないというのに。
「達也先生、お疲れ! 夏木は疲れました〜」
バイトの休憩時間、空いた机に座って休んでいた俺に、教え子の高校生、夏木里香が声をかけてきた。俺のバイトは塾の講師だ。
「何言ってんの。夏木はしゃべってばっかりであんまり勉強してなかっただろ」
「えへへ。――ねぇねぇ、達也先生ん家しばらく親いないって本当?」
「……誰に聞いたの?」
「石橋先生だよ」
石橋の名前を聞いて俺は心の中で舌打ちした。あのおしゃべり男は、会うたびに美香を紹介しろだのシスコンだのと煩いからなるべく関わりたくないのに、同じバイトを始められて心底迷惑している。
「ねぇ、あたし料理しに行ってあげようか?」
「いや、いいよ」
「……妹さんが作ってくれるから?」
夏木から突然美香のことが話題に出て少し驚いた。俺は夏木に美香の話をしたことがあっただろうか。記憶を探っていると、夏木が付け足すように口を開いた。
「あたしと同い年の妹さんがいるんでしょ? 石橋先生が言ってたよ。妹さんがあまりに可愛いから、達也先生はシスコンなんだって」
呆れて言葉が見つからなかった。やっぱり、石橋はろくなことを言わない。そんな俺の内心も知らず、夏木は続ける。
「先生は優しいから、妹さんにはもっと優しくしちゃって、そんな風に見えちゃうんだろうね。いいなぁ妹さん。先生みたいなお兄ちゃんがいたら、あたし好きになっちゃいそうだな。――ううん、きっと誰だって好きになっちゃうよ」
「はは、そんなことないって」
「わかんないよ。もしそうだったら、どうする?」
「どうするって……」
「――ひみつの恋、だね」
夏木は含みのある言い方でそう言って、笑みを浮かべた。冗談で言っているのか、察しがいいのか。測りかねて内心では少しひやりとしたが、俺はその程度で動じたりしない。
「そのくらいにしとけって。宿題増やすぞ」
「あはは、ごめんね。ちょっと言ってみたかったの。じゃ、達也先生、また明日ね」
教室を出て行く夏木の後ろ姿を見ながら、俺は夏木の問いに対する答えを考えてみた。もし美香が俺を好きだったら――俺はどうするのだろう。
しかし俺はすぐに考えるのをやめることにした。有り得ない話だ。それにもしも、仮に美香が俺を好きだった、としても、俺はそれを受け入れるべきじゃない。俺と美香は“兄妹”なのだ。その意味は簡単なものじゃない。拒絶される恐怖ともう一つ、俺の気持ちを歯止めしている記憶。考えたくなかった俺は、それをまた意識の奥へ押し込めた。あり得ないことを心配しても意味はない。そんなことよりいかにこの気持ちを隠すのかを考えなければ。美香に知られて気持ち悪がられるのはごめんだ。
バイトを終えて外に出ると雨が降っていた。傘も持っていなかったから、濡れながらやっとのことで家にたどり着き、玄関の扉を開けると、ただいまを言う前に美香が顔を出した。
「達也、お帰り。……って! 大丈夫!? 雨降ってたの?」
俺を見るなり美香は面白いくらいに焦りだした。服が水を含んで重いほどだから外見的にもひどい有様なのだろう。美香は奥の部屋からタオルを取ってきてくれた。
「ごめんお兄ちゃん。雨だって気がつかなくて……わかってたらバイト先まで傘持って行ったのに」
美香はしゅんとした様子だ。傘を持って迎えに来るのだって大変だろうに、美香はそんなことを気にしている。
「大丈夫だよ、このくらい。ありがとう」
髪を拭きながら美香に笑いかけたが、美香はいつもと違って笑い返してこなかった。ただじっと俺の顔を見てくる。俺の顔に何か付いているのだろうか。――それにしても、何か、美香の表情が……。
「……美香?」
名前を呼ぶと、美香はすぐに元に戻って、再び焦りだした。気のせいだったのだろうか。美香の表情が、夢に見た表情とどこか似ていた気がしたのだが。俺の願望がそう見せたのかもしれない。
「あ、あ、あの、お風呂わいてるから、入ってきなよ!」
「うん、そうするよ」
靴を脱いで家に上がろうとしたその時、窓の外が光って雷が鳴り響いた。瞬間、美香の顔がこわばった。……そういえば、美香は昔から雷が苦手だった。
「きゃぁぁ――!」
美香は叫び声をあげて、目をつむってすがりつくように俺に抱きついてきた。抱きつかれて動揺するところだがその前に、美香に押し倒されたせいで玄関の扉で後頭部を打って、痛みでそれどころではなかった。
「いっ……美香、あのなぁ……」
後頭部をさすっていると、美香が恐る恐るといった感じに目を開けた。半ばきょとんとしたような顔をした美香と目が合うと、状況をやっと把握したのか、美香の顔が見る見るうちに赤くなった。
「ご、ごめん! ごめんねお兄ちゃん」
純粋な美香は兄の俺に対しても純粋だったようで、慌てて体を離した。――少し残念だと思ってしまったことは忘れよう。
そういえば美香は雷が鳴るたび母さんや父さんに抱きついていたが、俺に抱きついてきたのは初めてな気がする。大きくなっても雷を怖がる可愛い妹に、やれやれと俺は微笑んだ。
「いいよ。まだ苦手なんだね、雷」
「だってね! 家はゴムじゃないんだから落ちたら感電するでしょ。だからね……」
「ははは、小学生の時と同じこと言ってる」
「な、何よぅ……。もう高校生だもん」
美香はそう言ってむくれた。いちいちムキになって反応してくれるところが、やっぱり可愛いと思う。俺は笑いながら美香の髪をくしゃっと撫でて、風呂場に向かった。