29−2 達也
バイトから帰ってきても、夏木に言われた言葉が頭から離れなかった。
引っ越しの準備をしていても手につかず、仕方なく昼寝をしたがすぐ目が覚めた。母さんはどこかに出かけていて、一人きりの家の中はどこか淋しい。美香がいれば、そんなことを感じたこともなかったのに。俺が引っ越してしまっても、母さんは家を留守にすることが多いだろう。そんな状況に美香を一人置いておくのは心配だった。きっと今俺が感じているより何倍も、寂しい思いをさせてしまう。
そんなことを考えながらぼんやりと過ごしていると、時間を無駄にしてしまった。美香と離れてしまって、ふと一人になったときに、俺を囲むすべての世界がまるで色を失ったようにすら感じる。何かをしているときはそれに集中していればいい。けれど何もすることがない今のような時間は、本当に意味がないのだ。心が空っぽになったような感覚。
仕方なく外に出て玄関先で車を洗い始めると、やがて美香が帰ってきた。もうそんな時間かと驚いた。時間の感覚すらなくなっている。昨日別れを決めてから初めての対面だった。美香が緊張したような面持ちでこちらを見てくるので、安心させるように微笑んだ。別れてはいても、やはり美香がそばにいるというのはとても安らぐ。いつの間に、美香の存在はこんなにも俺の中で大きくなっていたのだろう。
「ひ、引っ越しの準備は?」
美香がどこか慌てたように言った。美香は俺と話をするつもりらしい。避けられてしまうかもしれないと思っていたので、ほっとした。気まずさもあまり感じない。とりあえず水道の水を止めてくると、タオルで手を拭きながら俺は言った。
「順調だよ。もう二、三日もしないうちにここを出ていく予定」
「そう、なんだ。どこに引っ越すの?」
「大学の近くだよ。歩いていける距離じゃないけど、遠くない。車なら二十分だしね。だからいつでも会えるよ」
微笑む美香に、微笑み返しながら言った。いつでも会える、とは言ったが。それは会おうとすればの話だ。会おうとしなければ会えない。別れてしまった今、あまり頻繁に会う理由は見つけられない。もう美香の一番近くにいることはできないのだ。それがどうしようもなく悲しかった。
それに、心配だった。泣き虫な美香を、今までずっと守ってきたのだ。これから先、美香を一人にすることが心配だ。俺が居なくて、誰が美香を守ってやれるだろう。苦笑しながら、俺は美香に訊いた。
「けど、今までみたいに近くもないんだ。美香、もうあんまり守ってやれないけど……頑張れる?」
すると美香の目が、見たことのない強い光を宿した。凛としたようなその瞳に、思わず見惚れてしまう。
「お兄ちゃん。私ね、年下で妹だけど、いつまでもお兄ちゃんに守られて甘えてるだけの、弱い妹じゃないんだよ?」
美香の口から出てきた意外な言葉に、俺は驚いて目を大きくした。一瞬、ショックを受けた気がしたが、それはすぐに愛しさに変わった。初めて見た、美香の強さ。それは今迄の、頼りなく守るべき妹の姿とは確実に違っていた。美香は外見だけでなく、心も成長していく。ますます想いが強まってしまいそうになる。美香はそんな俺の内心も知らず、まっすぐに俺を見つめながら、言葉を続ける。
「大切な人だから。だから……一緒に笑いたいし、辛いことだって半分ずつにしたいって。お兄ちゃんのこと好きな人たちは、きっとみんなそう思ってるよ」
美香のその言葉に、大きな衝撃を受けた。それは、直接的に言っていないが、美香の気持ちなのだろう。
けれどその意味を深く考える前に、美香が言葉を続けた。
「お兄ちゃんが幸せになれますようにって、星にお願いしたの。だから、大丈夫。どんなことがあっても、きっとお兄ちゃんを守ってくれるよ」
美香がそんなことを言って健気に微笑むので、たまらない気持ちになった。衝動にまかせ、その細い腕を引いた。これで、きっと最後になるだろう。俺の腕の中に美香が居る幸せな瞬間は。俺の幸せは星なんかに願うよりも、もっと身近にある。美香がそばに居ること。けれどそれは、簡単なようでとても難しいことだった。そばに、居てはくれないのだろう。いや、できないのか。一瞬の間美香を抱きしめてから、俺は何も言わずに微笑んだ。愛しい美香の瞳は、俺を映して小さく揺れた。




