29−1 美香
9月に入ったとはいえ、まだまだ暑さは弱くなる気配を見せない。夏木さんと連れ立って入った喫茶店はクーラーがきいていて、少しだけほっとした。それぞれコーヒーと紅茶を頼んで、他愛もない雑談を交わす。見た目通り、良く話す人だった。底抜けの明るさ。けれどそれだけではなく、瞳の奥に何かを隠してる、そんな感じだった。気のせいかもしれないけれど、どこか私と同じものを感じる。
夏木さんが初対面の私に何の用事で会いに来たのか、気になっていた。教え子と言うだけでわざわざその妹に会いに来るなんてよっぽどの用事に違いない。けれどお兄ちゃんがからんでいるとなると、怖さと期待が入り混じって変な気分だった。自分から話を切り出しきれず、ずるずると夏木さんの雑談に付き合っている、そんな感じだ。
「え? 同い年ですか?」
夏木さんに告げられた学年を聞いて、私は驚きを隠さず聞き返した。大人っぽいから学年は上だと思っていた。
夏木さんは少し困ったような目で照れたように笑った後、コーヒーをスプーンでかきまわした。
「よく年上に見られるよ。外見と中身のギャップが激しいでしょ。……まぁそういうことだから、敬語は使わなくていいからね?」
「はい……じゃなくて、うん」
ぎこちない私に少しだけ笑ってから、コーヒーを一口飲んだ夏木さんはまた話し始める。
「でも大変だね、初日から授業なんて。ウチの学校、午前中で終わったよ。それで午後から塾に行ってきたの」
塾、と聞いて少しどきりとした。お兄ちゃんの教え子だと、夏木さんは言ったのだ。つまり今日も塾で会ったのだろう。今日はまだお兄ちゃんと顔を合わせていない。お兄ちゃんの様子を知りたいような知りたくないような複雑な気持ちだったけれど、心配が勝った私は思わず遠慮がちになりながらも聞いていた。
「どう、だった? お兄ちゃんの様子……」
「うん? 今の美香ちゃんと、同じかな」
夏木さんは苦笑交じりにそう教えてくれた。私とおなじ、なんて言われて、心がひどく痛んだ。かよちゃんは私を、抜けがらだと言ったのだ。自分から終わりにした私でもこんなに辛い。私に突き放されたお兄ちゃんは、もっと傷ついてしまったのかもしれない。泣きたくなってしまいながら、私はとうとう夏木さんに訊いた。
「どうして、わざわざ私に会いに……?」
「ほっとけなかったの。なんか……あたしを見てるみたいで」
夏木さんは含みのある言い方で言って静かに微笑んでから、また話し始めた。
「美香ちゃんならあたしよりもっとわかってるよね。達也先生の性格! 塾でもね、なんでもかんでも自分の責任にしちゃうんだよ」
確かに、と私は頷いた。お兄ちゃんはすぐに自分を悪者にしたがる。そうすることで、自分が犠牲になることで、周りを守れるならそれも構わないという性格なのだ。昔からずっとそうだった。今回だって、お兄ちゃんは自分だけが悪いと思っていた。それはお兄ちゃんのいいところでもあり、悪いところでもあると思う。夏木さんも同じことを感じていたようで、少し困ったように笑って続ける。
「優しすぎるから……でもそれじゃ駄目だと思うの」
「私も……そう思う。もう少し、自分のことを大切にしてほしいって」
私が言うと、夏木さんは優しい目をした。私のことを、私の気持ちを、すべてわかってもらえているような、不思議な安心感を感じた。ふと、真剣な眼差しをしたかと思うと、夏木さんは訴えるような声で、ゆっくりと話し始めた。
「重いものをね。一人で全部持とうとするから、辛いの。一人で守ろうって必死になったら、きっとその重さに耐えきれなくなるよ」
その言葉は、私に大きな衝撃を与えた。必死になっていて、気がつかなかった。私はお兄ちゃんの何を見ていたんだろう。お兄ちゃんは私を守ろうと、重さも罪も全部、一人で背負いこもうとしていたのかもしれない。だから、あんなに辛そうだった。それをわかってあげられなかったなんて。ショックを受けた私を慰めるように、夏木さんがやさしい声音で続ける。
「二人ならきっと、重さも半分になるでしょ? 二人で何度でもぶつかればいい。きっといつかは、認めてもらえる日が来るから」
切なく、なった。想いは同じでも、私たちはまたすれ違っていたのかもしれない。お兄ちゃんはすべてを背負おうとし、私は目をそらそうとした。お互いの気持ちがばらばらだった。そして、その結果がこれだ。私は馬鹿だ。どうしてお兄ちゃんの手を離したの。自分を悔いている私に、夏木さんが屈託なく笑って言った。
「大事なのは、二人の気持ちだよ。気持ちを一つにすれば、きっとうまくいく。これ、先輩からの助言!」
「先輩、って……?」
年は同じはずなのに、先輩という言葉がしっくりこなかった私は訊き返した。すると夏木さんは伏し目がちになりながら、口元だけで笑った。その瞳の抱える色が、私とお兄ちゃんと同じなことに気づいてはっとした。
「あたしも同じってことだよ。親が再婚して、義理の弟ができたの。それがあたしの、恋の始まり」
私は何と言っていいのかわからないまま、夏木さんを見ていた。そういえば今まで深く考えなかったけれど、夏木さんは私とお兄ちゃんの関係を知っているようだった。というより、わかって、しまったのかもしれない。同じものを抱える者同士。お兄ちゃんが話すとも思えない。夏木さんも私たちと同じに、ずっと抱えてきたのだろうか。この重さも辛さも。こんなに身近に同じ想いを抱えている人がいるなんて、本当に驚きだった。
「形式とか周りの目に囚われて、結ばれないなんて間違ってる。そうでしょ?」
夏木さんは確かな声でしっかりと言ってから、私の目を見つめてきた。その瞳に強さを感じる。
私にはない、想いを守っていける強さを。
「あたしたちはね、何も悪いことなんてしてないんだよ」
迷いのかけらも感じさせない夏木さんの言葉に、涙がこみ上げた。ずっとその言葉が欲しかった。お兄ちゃんのそばにいて、間違ってなんかいないと信じていた。けれど誰もが私たちを責めたのだ。だから間違っているんだと、そう思いこんだ。自分で答えを見つけることができなかった。夏木さんに比べて、私はなんて弱いんだろう。自分が恥ずかしい。
「ああ、美香ちゃん泣かないで」
とうとう涙をこぼしてしまった私に、夏木さんが慌てて正面の椅子から私の横の椅子にうつってきた。
夏木さんがなだめるように私の肩をなでる。
「お兄ちゃんとかお姉ちゃんはね。どうしても、いっぱい責められちゃうから……守ってあげて? 堂々と胸を張って、逃げないでちゃんと向き合うの。大丈夫、美香ちゃんならできるよ」
夏木さんに、私は涙ながらに何度も首を横に振った。できない。もう遅いんだ。
どうして、立ち向かえなかったんだろう。怖かったんだ。お父さんもお母さんも、私たちを責めた。兄妹という重たい鎖が、周りの目が、怖かった。大事なのはそんなことじゃなかったのに。お兄ちゃんを突き放し、すべてから逃げだした私に、もう一度お兄ちゃんの手を望む資格なんてない。
やがて私の表情から私の涙の意味を悟ったのか、夏木さんが悲しそうに眉尻を下げた。
「美香ちゃん。達也先生の幸せは何なのか、ちゃんと見つめたらわかるはずだよ」
最後の夏木さんのその言葉は、夏木さんと別れて、家に向かっていても頭から離れなかった。お兄ちゃんの、望み。かよちゃんにも言われた、お兄ちゃんは幸せになれたのかということ。考えれば考えるほどわからなくなる。このまま離れれば、もう苦しめないで済むということには変わりないのだ。お兄ちゃんには穏やかに笑っていて欲しい。私のことで、もう心配したり心を痛めたりしないでほしい。
家にたどり着くと、玄関先でお兄ちゃんが車を洗っていた。お兄ちゃんが私に気づいてこっちを向いたので、どきりとする。別れてから初めての対面だった。緊張した面持ちでお兄ちゃんを見やった私に、お兄ちゃんは柔らかく微笑んだ。思わず、抱きついてしまいたくなる。私はまだ、こんなにも好きなんだ。終わりにしたことすら忘れて、駆け寄りたくなるほど。
「ひ、引っ越しの準備は?」
衝動を抑えるように、私は慌てて言葉をかけた。お兄ちゃんは水道の水を止めてくると、タオルで手を拭きながら言った。
「順調だよ。もう二、三日もしないうちにここを出ていく予定」
わかっていたことだけれど、ショックだった。お兄ちゃんがいなくなってしまう。しかもこんなに早くだなんて。もう別れてしまった今、お兄ちゃんと私をつなぐものは何か残っているだろうか。心の中の悲しみをひた隠しにしながら、私はお兄ちゃんに微笑みを向けた。
「そう、なんだ。どこに引っ越すの?」
「大学の近くだよ。歩いていける距離じゃないけど、遠くない。車なら二十分だしね。だからいつでも会えるよ」
言って、お兄ちゃんは微笑んだまま、少し困ったような目をした。
「けど、今までみたいに近くもないんだ。美香、もうあんまり守ってやれないけど……頑張れる?」
お兄ちゃんの優しいまなざしが心配な色を宿して私を包む。こういうところなんだ。今日夏木さんと言っていたのは。私は弱くて、逃げ出してしまったけれど。せめて、守られてるだけじゃなくて、一人でもお兄ちゃんを心配させないだけの強さは持ちたい。もう背負いこまないでほしい。もう苦しまないでほしい。人のことばかりを心配してしまう優しいこのひとを、辛いことから少しでも解放したい。
「お兄ちゃん。私ね、年下で妹だけど、いつまでもお兄ちゃんに守られて甘えてるだけの、弱い妹じゃないんだよ?」
私の揺るぎない眼差しに、お兄ちゃんは少し驚いたように目を大きくした。吸い込まれそうなほどに愛しい瞳が、私を映し出すことすら、うれしい。私はそんなお兄ちゃんの瞳をまっすぐに見つめながら、言葉を続ける。
「大切な人だから。だから……一緒に笑いたいし、辛いことだって半分ずつにしたいって。お兄ちゃんのこと好きな人たちは、きっとみんなそう思ってるよ」
それは私の想いだったけれど、暗に告げるだけにとどまった。そうでなくては、お兄ちゃんを、私自身の心を、惑わせるから。もう泣かないよ、お兄ちゃん。私は強くなる。だからもう、苦しまないで。そんな思いを込めて、私はお兄ちゃんの幸せを祈る。どんな時も、私の心の中にはお兄ちゃんが居る。私だけの「ひみつ」の想いを、もう一度守っていくから。
「お兄ちゃんが幸せになれますようにって、星にお願いしたの。だから、大丈夫。どんなことがあっても、きっとお兄ちゃんを守ってくれるよ」
言って、少しだけ微笑むと、突然お兄ちゃんが私の腕を引いた。幸せな時に何度も抱きすくめられた腕の中に、また包まれる。最後のぬくもり。この人の温かさを、私は決して忘れないと思った。一瞬の抱擁の後、お兄ちゃんは何も言わずに切なく微笑んで、そのまま私から離れていった。