28−2 達也
目が覚めて、あれは嫌な夢だったと笑える朝が来ないかと、願っていた。
けれどそんな願いが叶うはずもなく、目覚めた朝は、明るい朝日に包まれていても、まるで暗闇の中にいる気分だった。昨夜の雨の中の別れから、まだ一夜しか明けていない。今日から、美香は学校に行く。母さんたちがすでに物件を探してくれていたため、俺の引っ越しの準備もすんなり進んで、週末前には引っ越すことになった。引っ越してしまえば、美香とはほとんど会えなくなるだろう。
美香と過ごした夏休みは、すべてが幸せな夢を見ていたような感覚だった。
あれを夢だったのだと、現実に戻っただけなんだと、そう思い込めたら楽だっただろう。けれど、夢のようなあれは夢でなく現実で、だからこそこんなにも辛い。追い求めてしまうのは、まだ、この想いが消えていく気配も見せないからだ。今日は午後からバイトがある。引越しの準備もほどほどに、とりあえず朝食にしようと一階に向かうと、台所で母さんが皿洗いしていた。俺が降りてきたことに気がついたのか、母さんが俺を振り向く。
「達也、おはよう」
「おはよ。……美香は?」
「学校に行ったわよ」
美香のことを少し聞いただけで、母さんの声のトーンが冷たくなった。もう終わってしまったとはいえ、やはりそう簡単に水に流してはくれないのだろう。俺のこの想いも、到底流れて行きそうにもない。こればかりは時間が解決してくれるのを、待つしかない。今はまだ、忘れることはできない。何をしていても、心の中の美香は消えてくれず、油断するとすぐに哀しみにとらわれそうになる。引っ越しの準備をしながら気を取り直して、午後からのバイトに向かった。
塾での今日の担当は夏木だった。学校が午前中で終わったのだろう。美香は、午後まであると言っていたが。そう考えて、自分の考えが美香中心になっていることに気がついた。終わりにしたはずなのに、俺の中ではまだ終わっていないようだ。気持ちを切り替えて、授業の準備をしていると、背中をぽんと軽く叩かれた。
「達也先生、おはよ! あ、こんにちはかな?」
訊き慣れたその声に、俺は心を隠し、微笑みを浮かべて振り返る。我ながら作り笑顔は完璧だった。けれど俺の顔を見るなり、満面の笑顔だった夏木の顔が曇った。
「先生? 無理して笑わないで」
的を射た夏木の言葉に、どきりとさせられた。いつも、この生徒には心の内を見抜かれてしまう。けれどもう終わった事なのだ。美香へのこの想いは、再び「ひみつ」として隠し通していかなければいけない。美香を守るために、決して誰にも悟らせない。俺は余裕を失わないように気をつけながら、苦笑して言った。
「どうして? 無理なんてしてないよ」
「隠してもわかっちゃうよ。だって先生とあたしは、“同じ”なんだよ。言ったでしょ?」
言って、夏木は少し目を細めた。どこかに想いを飛ばすようなその表情が、まるで大人びて見えた。その瞳の抱える、深いようで哀しくもある色。これをどこかで見たことがある。そう気づいてみればすぐにわかった。俺と、美香と。同じなのだ。自分にどこか似ていると感じていたのも、そのせいだったのだろうか。
「あたしの恋も、ひみつの恋、なの。でも……今の先生、まるで昔のあたしみたい」
夏木はそう言って、困ったように笑った。何か大きなものを背負ってきた目をしている。そしてもう、夏木は受け入れているのかもしれない。その重さも、辛さも。夏木はまるで言い聞かせるように、俺の手を取った。ゆっくりと、言葉を紡いで。
「先生の、幸せは何? 想いが一緒なら、願いもきっと重なってる。間違えないで」
まっすぐなまでに真剣な夏木の瞳とその言葉に、思わず、心を隠すことを忘れた。その意味を考えてしまってはいけない。俺の幸せ。重なった願い。間違っているのか、いないのか。それは、この想いを守り、もう一度を望むことにつながっている。もう何も美香に背負わせたくはない。これ以上美香を苦しめるわけにはいかないのだ。俺の心の葛藤を見抜いたように、夏木が微笑んだ。
「大丈夫だよ。先生がピンチの時は、あたしが助けてあげるって約束したもんね」
美香を失い気持ちが弱くなってしまっている今の俺に、夏木がやけに頼もしく見えて、それがおかしくて少し笑った。そういえばそんなことを以前夏木が言っていた気がする。もう美香を取り戻すことは不可能だとわかっているが、こんな風に励まされると少しだけ元気が出る。
塾が終わって、帰ろうとしていた俺に、帰りの準備をしていた夏木が「先生!」と声をかけてきた。
振り向くと、夏木がまた真剣な目をして、必死に言葉を伝えてきた。
「あたしたちの恋は、手を離したらそこで終わっちゃうよ。間違ってなんかない。幸せを、守ってあげて」
夏木に向って、俺はまた苦笑した。美香の幸せ、それを考えれば考えるほどわからなくなる。美香を守ることと、一緒にいること。それらはまるで逆のことに思えた。美香と居たことを間違っていたとは思っていない。一緒にいて、確かに俺も美香も幸せだった。けれど別れたことは、この選択しかなかったと思っている。美香を守るため。俺一人で持てるほど、罪は軽くはなかった。
家に向かう車の中、俺は一人、憂鬱になっていく気持ちを抱えていた。