28−1 美香
どんな悲しみを経験しても、同じように朝は訪れるんだと知った。寝覚めは、良くない。
夏休みは終わって、私は日常に戻っていく。まるでお兄ちゃんとの夏が、夢だったかのように思える。のそのそと起き上がって、支度をする。今日から、学校だ。
「おはよう、美香」
一階に降りると、台所からお母さんが私を振り向いた。昨日までは、笑顔のお兄ちゃんがこうして挨拶してくれていたのに。朝の食卓に、お兄ちゃんの姿は見えない。大学は夏休みが長いから、まだ休みのはずだけれど、部屋で引っ越しの準備をしているのだろうか。それとも、今日もバイトがあるはずだから、その準備だろうか。どちらにしても顔を合わせ辛かったので、ちょうどよかったのかもしれない。
正面でご飯を食べ始めたお母さんに、私は呟くように言った。
「お母さん? もうお兄ちゃんのこと責めないでね……」
橋でご飯をすくいあげては、食べる気がしなくて戻すのを繰り返しながら、私はお母さんの様子をうかがった。
お母さんはまた、辛そうに笑っていた。
「わかってる。お父さんも本心じゃあんなこと思ってないのよ。達也も大事な子供だから……」
それを聞いて、救われた気持ちだった。もう、お兄ちゃんが責められることはない。
昨日、終わりにしたことをお父さんたちに告げると、お父さんは表情を和らげ、仕事のためと言って夜中に帰って行った。あんなにも重かった空気と一転して、あっさりしたものだった。私たちが一緒にいることは難しかったのに、別れることはこんなにも簡単だったなんて。
お兄ちゃんと顔を合わせないまま、重い足取りで家を出た。
「おはよ。美香!」
学校に行くと、久しぶりに会ったかよちゃんが笑顔であいさつしてくれた。けれど同じように笑顔で返そうとして、私ははっとした。笑顔を、どうやって作っていたのか、一瞬わからなくなったのだ。真顔のまま切羽詰まった私の様子をおかしく思ったのか、かよちゃんが怪訝な顔をした。
「美香? どうしたの」
「な、なにもない、よ?」
ひきつった笑顔でごまかそうとしたけれど、かよちゃんは納得していないような顔で、ふーん、とだけ言った。
なんだか自分が嫌になった。落ち込んだ心を、隠すこともできないなんて。けれど始業式の間も、かよちゃんとお弁当を食べている時も、心を隠すのはかなり難しいことだった。午後から始まった久しぶりの授業にも全く身が入らない。ぼんやりと席に座って、形式的に教科書を開く。その内容なんてまるで見ていなかった。
心の余裕がなくて、それどころじゃなかったのだ。ちょっとした時に思い出し、また涙がこみ上げてくる。昨日のさよならを。雨にぬれた二人を。昨夜あんなに泣いたのに、まだ悲しみは消えてくれない。
「美香」
ふとかよちゃんに声をかけられて、席に座ったままぼんやりとしていた私ははっと我に帰った。気づけば授業は終わっていた。よく思い返せば、日直が号令をかけていたような気がする。けれどそれはまるで私とは無関係の出来事のように感じて、私はそのまま気付かずに座っていたようだった。
「もう授業とっくに終わったって、気付いてなかったでしょ」
そう言ったかよちゃんは腰に両手をあてて、少し顔をしかめている。無理もない。私は今日こんな状態で、かよちゃんは何度も私にどうしたのか聞いてきたけれど、私は何でもないを貫き通したのだ。私は気まずさに俯きながらぼそりと口を開く。
「気づいてなかったわけじゃ……」
「ちょっとおいで」
かよちゃんは私の弁解なんて聞く気もないようで、私の腕をぐいと引き強引に立ちあがらせた。そしてそのまま廊下に出ていく。授業が終わってしばらくたっているようで、下校してしまったのか、部活に行ってしまったのか、教室にも廊下にも生徒の姿はあまり見当たらなかった。かよちゃんは私を引っ張るようにして、やがてトイレに入った。トイレにも誰もいない。かよちゃんは私を鏡の前に立たせた。
「美香、見てごらん」
かよちゃんは私に鏡で私自身を見てみろと言っている。けれどお兄ちゃんを失って心が抜け落ちたような自分を、見たくなかった。
私は力なく首を横に振った。けれどかよちゃんは引き下がる気配を見せない。
「ほら、美香」
「いや……」
とうとう弱々しい声を出して拒否の意を示した私に、かよちゃんは苛立ったように眉を吊り上げた。
「見なさいって言ってんの! あんたみたいな状態をなんていうかわかる? 抜けがらって言うの!」
かよちゃんの強い口調にびくりとして、我慢していた何もかもが一気にあふれ出したようだった。瞬時に涙が込み上げ、なす術もなく私は涙を落とした。それでもまだ涙を止めようと、何度も瞬きをして耐えようとしている私の背を、かよちゃんがさすりながら言った。
「いい加減に話してごらん。どうしたの」
さっきまでとは一転して優しいかよちゃんの声に、余計に涙が出てくる。今の私は本当に弱り切っているのかもしれない。些細なことですぐ泣きたくなる。自分から手を離したくせに、情けない。
「別に、たいしたことないんだよ? ただ、終わりにしたってそれだけ」
何でもないように言おうと思ったけれど、声が震えてしまった。かよちゃんが少し、悲しそうに眉尻を下げた。
「何があったか知らないけど、美香、あんた間違ってる。そんな状態になるほど好きなら、離しちゃいけなかった」
かよちゃんのその言葉は、私の心に大きく突き刺さった。迷いはあった。本当にこのままお兄ちゃんの手を放さなくてはいけないのか、昨夜必死に考えた。けれどお兄ちゃんを守るためなのだ。仕方がなかったのだ。この選択しかなかった。この想いを守ろうとしてはいけなかった。あのまま一緒にいても、お父さんたちにお兄ちゃんが責められるだけだった。お兄ちゃんが、辛そうな顔をするだけだった。私は涙をこぼしながら、大きな声で感情的になりながらかよちゃんに訴えた。
「じゃあどうすればよかったの!? お父さんもお母さんも、みんな私たちを責めたの。私といたら守れなかったんだよ。私、間違ってたんだよ……」
強気に叫んだくせに、最後の方はまるで弱々しい声になってしまった。まだ、迷いは消えてなんかいない。一緒にいて間違っていると言われたから、手を離した。お兄ちゃんのために。もう、あんな悲しいもめごとが起きないように。けれど本当は、手を離したくなんてなかったのに。かよちゃんは私の目をまっすぐに見て、真剣な声で言った。
「本当に、間違ってたの? 本当に、美香と離れて、その人は幸せになれたの?」
そんな言葉を聞きたくなかった。本当に、間違っていたのか。お兄ちゃんの幸せを守れたのか。何が間違っていて、何が正しいのか。咄嗟に、私は深く考えないまま、心の中のその疑問から目を背けた。これ以上まどわせないで。誰よりも、私が望んでるんだ。誰よりも、私があの人のそばにいたい。今もまだ想いはまったく色あせず、こんなにも、心の中はお兄ちゃんでいっぱいなのに。
「美香。良く考えて。逃げてもなにもならないよ」
帰りがけに、部活に行くかよちゃんは、教室から出ようとした私の背中にそんな言葉をかけてきた。逃げてなんかいない、と思ったけれど。……逃げて、いるのだろうか。兄妹という重さを想い知り、それに耐えきれず、お兄ちゃんの、辛そうな顔が見たくなくて、楽な道に逃げ進んだのだろうか。お兄ちゃんを守るためと言って、本当は、傷つきたくなかっただけなのかもしれない。
重い足取りで靴を履いて、家路につく。家に帰って、もしお兄ちゃんとばったり会ったらどんな顔をしたらいいんだろう。お兄ちゃんを見たら愛しい気持ちが増して、もっと辛くなるかもしれない。そんなことを考えながら校門を通過しようとしたら、そこに立っていた他校の制服の女の子が私を見て、突然大きな声を上げた。
「あ! 笹原美香ちゃん?」
「え……? そうですけど……」
突然見知らぬ人に声をかけられて、しかも名前を知られていることに驚き、怪訝な顔をする私とは対照的に、その女の子はにっこりと屈託なく笑った。外見はかなり大人っぽく大学生くらいに見えるけれど、笑うと少し印象が幼くなる。
「一回写真見せてもらっただけだったんだけど、実物は本当に美人さんだね。……あたし、達也先生の塾の教え子で、夏木里香って言うの。少しだけ時間もらえないかな」
お兄ちゃんの名前を聞いて、私は表情を引き締めた。その女の子――夏木さんは、相変わらずの笑顔でそんな私の手を取った。